「妙義ふるさと美術館」の駐車場から眺めた表妙義山。
当館には昭和58年から開催されている「妙義山を描く絵画展」の入賞作品が展示されている。


妙義神社の総門。江戸時代後期に造られた切妻造りの八脚門(国指定重要文化財)。
もとは「白雲山高顕院石塔寺」の仁王門だった


「日光東照宮」を想起させる豪華絢爛な妙義神社の拝殿(国指定重要文化財)


 総門を入った右手の一角に、大きな石を積み上げた高さ約9m、総延長183mのみごとな石垣が築かれている。
遠目には1つの石にも見える精巧な造りで、石好きにはたまらない眺めだ。
江戸時代半ば、妙義山に産する安山岩を用いて、信州の高遠(たかとお)石工らによって築かれたもの(県指定重要文化財)


本殿の北門に接して鎮座する「影向岩」。古来の神様・波己曽神が降臨する磐座であったという


影向岩の下部に安置されている石祠。古にはここで祭祀が行われていたのだろう
 奇岩怪石の名勝として知られる妙義山(みょうぎさん)は、群馬県の南西部、甘楽郡(かんらぐん)下仁田町・富岡市・安中市にまたがる山塊の総称で、妙義と呼ばれる単独のピークは存在しない。激しく侵食された山容は、いまから300万年前の火山活動により形成された溶岩、凝灰岩、礫岩からなり、後に堆積層が侵食されて、鋸歯状の荒々しい山体に変貌したと考えられている。

 安中市を流れる中木川(利根川水系)を挟んで、南側に聳える白雲山(はくうんざん、1081m)・金洞山(こんどうさん、1104m)・金鶏山(きんけいざん、856m)を「表妙義」。北側の谷急山(やきゅうやま)・丁須の頭(ちょうすのかしら)・御岳(おんたけ)が「裏妙義」とよばれ、一般に妙義山といった場合は表妙義の三山を指すという。

 山名の由来については、後醍醐天皇に仕えた権大納言藤原長親(ながちか)が、明徳5年(1394)にこの地に草庵を設け、明々巍々(めいめいぎぎ)たる奇勝を眺めて「明巍」と名づけた。これが後世「妙義」に転訛したといわれているが、真偽のほどは不明である。

 妙義山の名が定着したのは中世以後のことであるらしい。それ以前は「波己曽(はこそ)の山」とよばれていたという。社務所で購入した『歴史と信仰の山 妙義山』(あさを社)には、「はこそ」は「いわこそ(岩社)」からきたもので、すぐれた岩山を意味するという群馬県の国学者・新居守村(あらいもりむら)の説を挙げている。

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 妙義神社は、白雲山の東山腹に鎮座している。現在の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊受大神(とようけのおおかみ)、菅原道真公、権大納言長親卿の4柱。創祀年代は不詳だが、社記には「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」とある。

 古くは山名と同じ波己曾神社と称していた。現在も神社の境内に波己曾社殿(県重要文化財)が残されている。波己曾神の史料上の初見は、平安時代に編纂された『日本三代実録』で、貞観元年(859)から元慶4年(880)にかけて、上野国(こうずけのくに)の波己曾神が、正六位上から正五位上に昇格したことが記されている。また、『上野国神名帳』の碓水郡の部には「従二位 波己曾大明神」の記載が見られ、平安時代末期には、従二位まで昇進したとの記載がある。

 境内入口の短い石段をのぼって行くと、朱塗り切妻造りの豪壮な仁王門が見える。仁王像が安置された仁王門は、本来お寺にあるものだが、これは明治期の神仏分離で廃寺となった別当寺「白雲山高顕院(こうけんいん)石塔寺(せきとうじ)」の建物だったもの。 明治時代の廃仏毀釈運動を逃れ、扁額に「高顕院」の名が刻まれたまま、妙義神社の総門(国重要文化財)として残されたものである。神社とお寺が隣り合う神仏習合の時代には、総門の先に建つ青銅鳥居から上方が、妙義神社の神域であった。

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 妙義神社の社殿を拝するには、山の斜面を一直線に駆け上がる165段の石段(男坂)をのぼらなければならない。幸い石段のすぐわきに、遠回りだが緩やかな勾配の女坂がある。寄る年波には勝てない。迷うことなく女坂をのぼることにした。

 女坂の終点、神域への入り口となる北門に接して「影向岩(ようごういわ)」とよばれる大岩が鎮座している。現在、この岩に関する案内板は立てられておらず、参拝者からも見過ごされ、顧みられることのない存在となっているが、古代においては、この大岩がご神体として崇められた磐座であり、妙義神社すなわち波己曽神社の起こりと考えられている。

 影向岩の頂部には石塔が置かれ、下部は洞になって、なかに小さな石の祠が置かれている。かつてこの大石の清掃は、未婚の男子のみによって行われてきたという(日本の神々 神社と聖地11)。当地に社殿が建てられる以前は、ここで祭祀が行われていたのだろう。

 本殿左の南門の先に、当社の奥の院に至る登山道がある。鎖場や鉄梯子のある険しい岩場をのぼるおよそ40分を要するコースで、軽装ではのぼれない。奥の院は、幅約6m、高さ約10m、奥行き約10mの巨大な山岳信仰の岩窟で、大黒天、観音などの石仏が置かれているという。
 また、奥の院の手前に高さ4.5m、幅6.3mの「大」の字が掲げられている。これは江戸時代まで、奥の院に祀られたていた大日如来を遥拝する折の目印として立てられたもの。私にはのぼれないと諦めて、「妙義ふるさと美術館」の展望室から仰ぎ見るだけにした。


一直線に伸びる165段の石段(男坂)



中之嶽神社駐車場から眺めた妙義山(金洞山)


中之嶽神社の前宮である甲子大国神社


石段前の見慣れない鳥居。通常鳥居には横木が2本あり、上の横木を「笠木」、下の横木を「貫(ぬき)」と呼ぶが、
この鳥居には笠木がなく、貫が2本の柱を貫いているだけで、神額を掲げる「額束(がくづか)」もない。
これは本来「冠木(かぶき)門」と呼ばれるものだが、注連縄が張られているので鳥居とみなしてよいだろう


社殿の背後にそそり立つ轟岩


轟岩の岩壁に並ぶくぼみ。祭祀のために掘られたのもだろう


くぼみの中に祀られている石祠
 中之嶽(なかのたけ)神社は、妙義神社から県道196号線を車で15分ほど走った妙義山塊の金洞山(こんどうさん)南面中腹に鎮座している。
 参道の入口から、右手に剣をもった巨大な大黒さまが見える。当社は、前宮の甲子大国(きのえねおおくに)神社と本宮の中之嶽神社の2社からなり、この派手やかな大黒さまは、甲子大国神社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合したもの。甲子の「子」はネズミを指し、ネズミが大国主命の危難を救ったという伝説に因む。それにしても、高さ20m。全身金色の大黒さまは目立ちすぎだろう。私には、自然景観を損ねるだけの、珍妙な「ゆるキャラ」にしか見えないのだが。

 中之嶽神社は、妙義神社と同じ日本武尊を主祭神とする神社で、江戸時代には「武尊(ほたか)権現」とよばれていた。社伝によれば、日本武尊が東征の折に妙義山に登嶽し、第29代欽明天皇(在位539〜571年)の御代に妙形氏によって社殿を建立。平安末期の後鳥羽天皇の寿永2年(1183)に藤原祐胤(すけたね)卿が、鍛冶の名工を得て神剣を奉斉したとある。
 江戸時代に入ると、上野国(こうずけのくに)小幡藩の第3代藩主・織田信久(おだのぶひさ)により社殿を修営。別当寺として「中之嶽巌高寺」が建てられ、 中之嶽奉行を設け地所を寄進した。往時の建物は明治11年(1878)の山林火災によって焼失。その後、本宮の中之嶽神社と前宮の甲子大国神社が再建されて現在に至っている。

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 中之嶽神社の本宮を参拝するには、妙義神社と同様の長い石段をのぼらなければならない。覚悟を決めてのぼりはじめたが、勾配はきつく、途中に踊り場がないので一息つける場所がない。足をすべらせないように気をつけて、しっかりと手すりにつかまり、休み休みのぼっていった。

 石段をのぼりつめ、注連(しめ)柱をくぐったわずかな空間に、背後にそびえ立つ「轟岩(とどろきいわ)」に食い込むかたちで、神社の拝殿が建立されている。当社は轟岩をご神体として、拝殿のみで本殿をもたない、自然崇拝の姿を今日に伝える古い形態の神社である。

 拝殿の左手に回ると、岩壁のふもとに幾多の龕(がん)状のくぼみがある。小さな石祠が置かれたくぼみもあり、この岩壁の前で何らかの祭祀が行われていたと考えられる。
 社伝によると、現在の祭神は、日本武尊と他の16柱だが、古来には妙義神社と同じ「波胡曾神」が山の神として祀られていたとある。また、この地には「七波己曾」とよばれる波己曾神社が山麓に7社分布しており、そこには丹生都姫神(にうつひめのかみ)が祀られていたという。

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 丹生都姫は、「丹」すなわち辰砂・水銀の採掘に係わりをもつ神とされている。丹生(にゅう)は、関東から九州に伸びる長大な断層「中央構造線」に沿って産出する。当社のある下仁田町は、関東地方でもっとも中央構造線が観察しやすい地域で、かつて甘楽郡には、丹生村(にゅうむら)が存在し、丹生神社も祀られていた。文献史料が乏しく、実態についてはわかっていないが、妙義山塊に水銀の産地があった可能性は高いと思われる。

 辰砂を見つけて採掘する技術を、渡来人が担っていたと考えれば、波胡曾神を渡来人にまつわる神と推察する金達寿氏の説と結びついてくる。『日本の中の朝鮮文化(1)』には、「許曽(こそ)」は朝鮮語の敬称「居世(こせ)」から出たもので、この敬称をもった朝鮮系の神社は他にも多くあって、江戸時代後期の国学者・伴信友(ばんのぶとも)は「神社を許曽と云う事」と記し、「ひめこそ(比売許曾)」神の伝承から新羅系渡来人にまつわる神社と見なしている。また、郡名の「甘楽(かんら)」も、元は「韓良」であったとする説もある。

 「はこそ」の謂われは詳らかでないが、先に挙げた「はこそ」=「いわこそ(岩社)」説よりは、具体的な信憑性があるように思えるのだが、確信は持てない。
 ともあれ、磐座信仰にもとづく波己曾の山が、神仏習合によって妙義の山とよばれるようになり、中世以後に修験道の山として仏教化されていったものと思われる。影向岩および轟岩のくぼみは、経塚信仰、また丹生都姫が水の神とされることから、雨乞い祭祀の場であった名残りではないかと思われる。

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2020年6月7日 撮影

日本一の大黒様と背後に聳えるご神体の轟岩



妙義山案内図。中ノ嶽神社のある金洞山は、石門めぐりやろうそく岩、虚無僧岩、大砲岩など、
雄大な自然の造形美を堪能できる中級者向けの人気コースとなっている。
なお、2020年4月に大規模な崩落があり「第四石門」付近が通行止めとなっている。登山される方はご注意を