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「脚氣石神社」と刻まれた社号標。
 神楽殿と回廊でつながっている拝殿。

ご神体の脚気石。

割れた大石の間に、大きさ約20cmくらいの石がびっしりと詰め込まれている。
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中央自動車道「甲府昭和IC」を出て、北に向かうことおよそ30分。センターラインのない狭い山道を上っていく。標高1422mの帯那山(おびなやま)の南面中腹、標高837mの山あいに、脚気石(かっけいし)稲荷神社は鎮座している。
「脚氣石神社」と刻まれた社号標の奥の石鳥居を過ぎると、回廊によって拝殿と繋がっている神楽殿があらわれる。当社に本殿はなく、拝殿奥の石垣を積んだ小高い場所に、ご神体の「脚気石」が祀られている。境内の右手には、石垣で護岸された帯那川が流れている。誰もいない森閑とした境内に、清く澄んだせせらぎの音が聞かれ、すがすがしい雰囲気であった。
ご神体の脚気石は、高さ1.5mほどの大石で、上部に石の祠が祀られている。石はほぼ中央で大きく割れており、その間に大きさ約20cmくらいの石がびっしりと詰め込まれている。
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案内板に記された由緒によると、往古、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰り、甲府市酒折にある「酒折の宮(さかおりのみや)」から秩父に向かわれた折、この地で足を痛められた。みことはここで甲冑の帯を解き、境内の巨岩にたたずみ、岩の上に当社の祭神である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)、神皇産霊神(かむみむすびのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、宇気母知神(うけもちのみこと)の5柱を祀り、平癒祈願をされたところ、たちまち霊験(れいげん)があらわれ、みことの脚の痛みは治まったという。
また、後の永正7年(1510)12月、武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)が臣下を従へて、この辺りで鷹狩りしたところ、持病の脚気を発して歩行困難となったが、この石に腰掛けて休むと、即座に脚の痛みが治まった。これを不思議に思い、村の長を呼んで訪ねたところ、この石は「脚気石」と称し、「脚気の神」と申し伝えられていると話した。信虎公は、家臣の米山丹後守に命じて、石の上に祠を建てさせたという。以降、当社に本殿はなく、脚気石の霊石を「神の依り代」として、岩上祭祀を斎行してきたとある。
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「脚気」という特定の病が、そのまま神社の名前に付けられているのは、全国的にも珍しいのではないだろうか。かつて、脚気は「江戸わずらい」とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて猛威をふるい、「不治の病」として恐れられていた。
これは、元禄期(17世紀末〜)以降、江戸などの都市部で、玄米にかえて白米(精米)を食べる習慣が広まり、米ぬかに含まれているビタミンB1が欠乏したことが原因とされている。
明治43年(1910)に鈴木梅太郎博士らによって、米ぬかから脚気を予防する成分「オリザニン」(ビタミンB1)が発見され、大正時代後期に大規模なビタミン欠乏食試験が行われ、脚気の原因がビタミンB1の欠乏であることが科学的に確定した。
脚気の原因が解明されるまでは、病は目に見えない「穢(けが)れ」や「祟(たた)り」であり、病気の治療は神仏に対する祈祷が中心であった。
身分の高い者は、僧侶や験者(げんじゃ)に加持祈祷を頼むことができたが、一般民衆の場合は、石が重要な祈願の対象であり、霊石を撫でながら祈願することで、病魔を退け、健康を回復できると信じられていた。
現在も足腰の病に悩む(私のその一人である)多くの参拝者が訪れており、毎年4月の第2日曜日には、地元住民による例大祭が行われている。
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2026年3月1日 撮影
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脚気石上部の石祠。
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案内板。
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