神社の前には掘割があり水が流れている。石橋は文化年間(1804〜1818年)、鳥居は元禄2年(1689)の建立とある。


今より約二〇〇年前に建立された随神門。石段の奥に拝殿が見える。


本殿。全体が朱と藍色を基調に彩色され、豪華で繊細な彫刻が、いたるところに施されている。


丘陵の斜面に鎮座する「根の神石」と呼ばれる巨霊石。


岩と木が一体となった姿に、生命力のすごさが感じられる
 甲斐駒ヶ岳を望む釜無川と塩川に挟まれた丘陵地の東部。刈り取られた田んぼごしに、森を背にした石の鳥居が見える。鳥居の前には、神域と俗世の境目となる水路(堀割)があり、そこに架かるアーチ形の神橋をわたると、鳥居の先に随神門が建てられている。

 境内に立つ由緒が刻まれた石碑には「随神門 文禄二年建立(今より約二〇〇年前)」と記されているが、文禄2年(1593)では400年以上前となる。これは誤記であり、正しくは江戸時代後期の文化2年(1805)頃の建立と思われる。
 石段を上がると拝殿があり、拝殿の裏に回ると小ぶりながら見事な彫刻群が施された宝暦3年(1753)建立の本殿が鎮座している。

 当社は『延喜式神名帳』(927年成立)に登載された「甲斐国 巨摩郡(こまぐん)」五座の一つとされているが、山梨県内には当社を含めて「穂見(ほみ)」の名がつく式内論社が以下のとおり5つある。
 ●穂見神社(当社:韮崎市穴山)
 ●高尾穂見神社(南アルプス市高尾)
 ●苗敷山(なえしきさん)穂見神社(韮崎市旭町)
 ●穂見諏訪十五所神社(北杜市長坂町)
 ●八幡穂見神社(中央市布施)
 このなかで、当社と高尾穂見神社、苗敷山穂見神社の3社が有力な論社とされているが、あくまで推定の域で確証はない。

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 当社の創祀は明らかでないが、「式内社・穂見神社」の論社の一つあることから、少なくとも平安時代初期には神社として存在していたものと思われる。
 また、字(あざ)名の「稲倉(いなぐら)」からも、当社がこの地域の租税として納められた稲を貯蔵する官庫(屯倉)の守護神であったことが分かり、「穂見(ほみ)」という社名も、文字通り「稲穂(の出来)を見る」という機能に由来するものと思われる。

 当社の本殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、内部が三座(3つの間)に分かれ、異なる時代に勧請・合祀された3柱の神を祀る三社相殿(さんしゃあいどの)の構造を持っている。
 中殿に、日本神話に登場する食物・穀物の神であり、この地本来の地主神とされる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」。右殿に、天文年間(1532〜1555年)に信濃国の諏訪大社から勧請された建御名方神(たけみなかたのかみ)」。左殿に、巨霊石(根の神石)に祀られていた素盞嗚尊(すさのおのみこと)」が、1つの社殿に合祀して祀られている。

 一方で、『明治神社誌料』(明治45年刊)には、中殿に健御名方命、右殿に倉稲魂命、左殿に素戔鳴尊が祀られていると記されいる。主神の座である中殿に、健御名方命が祀られているのは、明治期に記紀神話に基づいた「格」の高い神を中央に据える傾向があったためと思われる。
 このように、時代によってどの神を重要視するかは、その時代の統治者の意向に左右される。この解釈の差が、記録上の配置の違いとなって現れてたものと考えられる。

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 最後になったが、本殿右手の山道を50mほど上った丘陵の斜面に、「根の神石(ねのしんせき)」と呼ばれる周囲約10m、高さ約7mほどの巨霊石(磐座)がある。
 岩の上に、榎(エノキ)と思われるご神木がそびえ、岩の表面を気根(きこん)がヘビのように這って地面まで伸びている。岩を根が抱きかかえ、石木一体となっている姿は圧倒的な観を呈していた。

 江戸時代の文化11年(1814)に成立した地誌『甲斐国志』に、この磐座には当社の祭神である素盞嗚命(すさのおのみこと)の神霊が宿っているとされ、里人がみだりに近づくことは許されず、祭祀の際には、穢れを忌んで、石の前で正座をして、恭しく(うやうやしく)拝していたという。

 『甲斐国志』が伝えるこのエピソードには、巨霊石に対して、里人が「おそれおののく」畏怖の念が表現されているように思われる。強力な神威をもつ素盞嗚命が宿るとされる背景には、巨霊石は単なる磐座信仰ではなく、土地そのものに宿る原初的な霊威(地霊)への恐れを象徴しているのではないだろうか。

 巨霊石は、当社に社殿が建てられるはるか以前から、この石が自然の生成力が感じられる特別な場所として崇められていたのだろう。

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2026年3月1日 撮影

根の神石に至る山道の参道。


三社相殿の本殿。中殿に主神の倉稲魂命、右殿に建御名方命、左殿に素盞嗚尊が祀られている。