参道脇に立つ石灯籠の先に籠屋(こもりや)とよばれる社務所が見える。
平成25年、富士山は「信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。当社も構成資産の一つである。


籠屋の中央が通り抜けになっており、正面の石段を登ったところに遥拝所の磐境がある。


参道の真ん中に鎮座する直径40cmほどの丸石。
鉾立石とよばれ「山宮御神幸」の際に鉾を置く「お休み石」とされている。


参道にあるもう一つの鉾立石。だいぶ崩れているが元は丸石だったことがわかる。


山宮浅間神社の祭祀遺跡。玉垣は南北15m、東西18mの長方形で、富士山を拝む方向に祭壇が置かれている。


山宮浅間神社から望む富士山の風景は、環境省の「富士山がある風景100選」に選定されている。
石列を囲む玉垣は昭和5年(1930)に建設されたもの。遥拝所付近の標高は384.5m。
 山宮浅間(やまみやせんげん)神社は、駿河国一ノ宮・富士山本宮浅間(ほんぐうせんげん)大社から県道180号を約5.8km北上したところにある。
 私はこの地を2度訪れている。1度目は2013年の12月だったが、この日は背後の富士山がぼんやりと見える程度で、まったく写真にならなかった。2度目は雲ひとつない絶好の好天にめぐまれた。思わずため息が出るほどの美しい富士山を拝むことができ、あらためて霊山富士の信仰は、山そのものを遥拝(ようはい)する神体山信仰からはじまったものだと確信した。

 江戸中期の社伝『富士本宮浅間社記』には、山宮浅間神社は第11代垂仁天皇3年に富士山麓の「山足之地」に浅間大神(あさまのおおかみ)を祀り、後の12代景行天皇の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が浅間大神に祈念して山宮に磐境(いわさか)を設け、浅間大神を「山足之地」から現在の山宮の地に遷宮したとあり、これが当社創建の起こりとされている。

 時代は遷(うつ)り、大同元年(806)に51代平城天皇の命を受けた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により、山宮の地から式内社・富知(ふくち)神社の旧社地であった現在の本宮浅間大社の地に遷座したと伝えられている。
 日本武尊の創建はあてにならないが、山宮浅間神社が、本宮浅間大社に対する「元宮」にあたることはまちがいなく、全国に1316社(昭和初年の調べ)あるとされる浅間神社のなかで、もっとも古い神社であると考えられている。

 これほど重要な神社だが、不思議なことに当社には、籠屋(こもりや)とよばれる、かつて神事の際に神官らが参籠したといわれる社務所があるだけで、拝殿や本殿は存在していない。
 当地に残る伝承によると、いつのころか「神社に社殿がないのはおかしい」ということで、富士山から木を伐りだして本殿造りをはじめるが、棟上げ式を済ませると、大風が吹いて、せっかく築いた本殿が吹き飛ばされてしまう。本殿造りをあきらめるのも口惜しく、再び本殿造りをおこなうが、これも前回同様、大風によって倒壊し、さらに村人の家や作物も大きな被害を受けてしまう。村人は「これは、神さまの祟りである」と考え、以後当社には「本殿を造ってはいけない」と言い伝えられているという。
 このような、社殿を建てることへのタブー視は、神社神道の成立以前からの原初的な自然信仰を受け継ぐものといえるだろう。当地にどんなに壮麗な社殿を建てても、この地から眺める富士山の荘厳な容姿にかなうはずがない。無社殿こそがふさわしいことは、創建当時から周知徹底されていたものと思われる。

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 山宮浅間神社の駐車場から、石灯篭の立ち並ぶ参道をすすむと、中央が通り抜けになった籠屋が正面に見えてくる。この籠屋は昭和8年(1933)に建てられたもので、それ以前の籠屋の実態は不明とされている。
 籠屋を過ぎた参道の中央に、直径40cmほどの「鉾立石(ほこたていし)」(詳細は後述する)とよばれる丸石が置かれており、さらに30mほど歩いたところにも、同様の丸石がくずれた形で置かれている。この石の先に、小高い丘に通じる40段ほどの石段があり、これを登りきったところに、コンクリート製の玉垣で四方を囲まれた山宮の磐境(いわさか)がある。
 この磐境のある丘陵地は、約2000年前に山頂火口から流出した青沢溶岩流の南限末端部にあたり、籠屋との高低差は約10m程度ある。残念ながら玉垣は施錠されていて、磐境の中に立ち入ることはできない。

 磐境は、南北15.2m、東西8.6mを測る石列によって区画されている。溶岩を用いた石列は、富士山を拝む方向に祭壇が配置され、そこに2本のご神木(榊)が生えていて、根元は火山弾のような石で固められている。
 案内板には、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司(だいぐうじ)席、公文(くもん)・案主(あんず)席、献饌(けんせん)所が、向かって右側に別当(べっとう)・供僧(ぐそう)席があったと記されている。

 当地が「遥拝所」とよばれるようになったのは近年になってからのことで、以前は「山宮斎場」とよばれていた。平成20年度の発掘調査では、12世紀中頃〜15世紀の土師器、陶磁器、石製品、金属製品などが出土している。これらは祭祀に使用されたと考えられており、この磐境が富士山祭祀の核となっていたことは明らかだろう。

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 自明のことだが、富士山は往古より何度も噴火を繰り返してきた成層火山である。富士山噴火の文献上の初見は『続日本紀』天応元年(781)7月6日条で、以降記録に残る噴火は17回あり、最後の噴火は1707年の「宝永大噴火」とされている。その後の約300年間は鳴りをひそめているが、いまだに「いつ噴火してもおかしくない」噴気活動は続いている。

 古代、噴火・地震といった天変地異は神の怒りによって起こると考えられていた。こうした度重なる富士山の噴火を畏れ、国家として富士山鎮火のために祀られたのが、浅間大神(あさまのおおかみ)で、これが富士山本宮浅間大社のはじまりといわれている。

 浅間(せんげん)は、古くは「あさま」ともよばれていた。阿蘇山・浅間山・朝日岳等に見られるようにアソ、アサ(アサマ)は、本来、火山や温泉などの火に関係する名称とされている。祭神は、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)である。別称「浅間大神」とされているが、火中での出産という神話から、おそらく近世に入ってから浅間大神と同一視され、浅間神社の祭神として祀られることになったと考えられている。

 山宮浅間神社の参道に置かれている「鉾立石」は、本宮浅間大社と山宮との関係を今に伝える貴重な遺構である。明治時代のはじめまで行われていた「山宮御神幸」は、春と秋の大祭前日に行われる神事で、祭神の木花開耶姫が、浅間大社から旧社地である山宮との間を往来する、いわば神さまの里帰り神事であるが、鉾立石はこの往来途上のなかで用いられた。

 『浅間神社の歴史』(昭和4年 浅間大社編 宮地直一、広野三郎著)によると、山宮御神幸は未の刻(午後2時)に本宮ではじまり、神霊の依りつく御鉾を「木之行事」と称される社人が左肩に担ぎ、途中肩を替えることなく山宮へ向かったとある。
 いうまでもなく、神鉾はきわめて神聖なものであり、無闇やたらに地面に下ろせるものではない。山宮御神幸の道筋「御神幸道」は50町(1町は約109m)もある長丁場である。鉾立石は、鉾を担ぐ社人の休み場に設けられたもので、鉾を下ろして置くための「お休み石」であったと記されている。
 かつては、御神幸道の道筋にいくつかあったといわれるが、現在は浅間大社・楼門前に1つ、山宮浅間神社参道に2つ、計3基だけが残されている。鉾立石が、神を迎える磐座に通じるものであることはまちがいない。

 神鉾は、その夜丑の刻(午前2時)に本宮に戻ってくるが、その際に「深更なれど燈火を用いず」と、暗い夜道を還ってきたという。

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2019年11月30日 撮影


列石配置図(山宮浅間神社のパンフレットから転載)。






本宮浅間大社・楼門前の石段上にある「鉾立石」。


案内板。