弥彦公園「ひょうたん広場」の南側にある湯神社(石薬師様)に至る参道入口。


湯神社参道の中程にある勝(すぐる)神社の御神廟。祭神は第5嗣の建田背命。


鳥居が立ち並ぶ参道。


玉垣に囲まれた湯神社。正面に社務所、右に拝殿の覆屋がある。


ご神体石の前には、石造りの鳥居と灯籠、両脇には狛犬が奉納されている。


2つの石が重なっているご神体の巨石。
 JR弥彦駅に隣接する弥彦(やひこ)公園の中に、「弥彦温泉発祥の地」とされる湯(ゆ)神社(石薬師様)がある。弥彦公園は越後国一之宮・彌彦神社の外苑で、大正7年(1918)、越後鉄道の常務・久須美東馬(くすみとうま)により造園がはじめられた。公園の広さは16万m2。東京ドームの約3.4個分にも及ぶ広大なもので、園内には渓流や池、朱色に塗られた観月橋や趣のある馬蹄形トンネル(国登録有形文化財)など、見どころも多い。

 車を「おもてなし広場」前の駐車場に置いて、ここから「もみじ谷」の奥にある「ひょうたん広場」までの坂道を約10分かけて上っていく。湯神社への本格的な参道は、ひょうたん広場の一角にある石鳥居からはじまり、御殿山(ごてんざん、116m)の南側中腹にある湯神社まで、さらにここから赤い幟(のぼり)と鳥居が立ち並ぶ山道を15分ほど歩いていく。

 上り下りをくり返す参道の途中に、石を積んでつくられた塚があり、その上に小さな石祠が置かれていた。彌彦神社の摂社・勝(すぐる)神社の御神廟(ごしんびょう)である。ここには弥彦の神様・天香山命(あめのかごやまのみこと)からかぞえて5代目の建田背命(たけたせのみこと)が祀られている。

 湯神社については、「神社明細帳」(明治16年)に「新潟縣管下越後圀西蒲原郡彌彦村字熊ヶ谷 国幣中社 弥彦神社末社 湯神社」、創建年代は不詳、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)と記されている。
 大己貴命(大国主命)は、因幡の白うさぎ伝説などから医薬に対する知識をもつとされ、少彦名命も医薬の神として知られることから、温泉神にこの二神が充てられることは多い。当社は別名「石薬師様」「石薬師大明神」とも呼ばれているが、これは大国主命が神仏習合の名残から薬師如来の化身と考えられ名付けられたものと思われる。

 湯神社の社殿は小さなもので、玉垣に囲まれた浄域の中に、社務所と拝殿の覆屋があるのみで、垂れ下がる神前幕の背後に、苔むした岩が2つ重なり合うように鎮座している。この石が当社のご神体とされることから、社の起源は磐座信仰から発したものと考えて、まず間違いないだろう。

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 温泉にちなむ神社は、日本各地の温泉地に数多く点在している。温泉は不思議な霊力をもつ水として湯神・温泉神として古来より崇敬の対象となってきた。温泉で病気や怪我が癒やされるのは、なんらかの神の力が働いていると考えられたためだろう。

 湯神社にまつわる開湯伝説は、園内のトンネル手前にある「湯神社温泉・源泉地」前の案内板に記されている。その荒筋を以下に記す。

 今を去ること一千年の昔。弥彦に権九郎という猟師が住んでおり、ある日、朝早くから弥彦山を駈け廻ったが、兎一匹、山鳥一羽も獲ることができず、すっかり疲れはてて林の中に入っていった。ぼんやり山道を歩いていると、突如、一羽の山鳥が大きな羽音をたてて飛び立った。権九郎は素早く矢を放ったが、矢は山鳥を傷つけたのみで手負いのまま飛び去っていった。
 山鳥の飛び去った方向に向かって林の中を進むと、きれいな池が目に入った。のどの渇きを癒そうと、生い茂る草をかき分け池に近寄ったところ、池から湯が湧き、鳥獣が湯浴みをしていた。しばらく眺めていた権九郎は、身につけた衣類を脱いで、この池の中に身を沈めた。お湯の加減はちょうどよく、一日の疲れがみるみる取れていくのがわかる。しかも、山中を歩き廻って受けた傷もどんどん回復していった。おどろいた権九郎は、取るものも取りあえず里に飛んで帰り、村人にこの事実を告げて回る。
 権九郎の話を聞いた村人たちは、先を争ってこの湯に入浴した。すばらしい湯の効果は「弥彦の霊泉」とよばれ、たちまち評判となって大層な賑わいを呈するようになった。

 かくして、村人たちは彌彦神社の神官にお願いして、池のかたわらの大岩を背に神社を建立し、お湯の神・薬の神・集落の守護神として大穴牟遅命・少彦名命の二神をお祀りし、神社の名称も「湯神社」と呼んで深い信仰を捧げ、弥彦霊泉はその後ますます発展していった。
 時代も移って数百年の後、自然とお湯の噴出も止まり、霊泉の名残をとどめて現代に至っている。

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 「弥彦の霊泉」は数百年後に止まったとあるが、お湯の噴出が止まっても、湯神社の信仰は「石薬師様」として生き残り、今日まで受け継がれてきたのだろう。
 開湯伝説にある「今を去ること一千年の昔」といえば平安時代後期、お湯の止まった「数百年の後」とは鎌倉時代後期のことになるだろう。江戸時代にも温泉があったとわれているが、源泉等は不明で、その時期についても正確な記録は残っていないという。

 昭和35年(1960)「弥彦の霊泉」を蘇らせるべく、新たな温泉の開発が行われたが、近年になり源泉が枯渇してしまう。現在の源泉は、平成19年(2007)11月のボーリングによって開発されたものである。源泉の泉質は「アルカリ性単純温泉」とされ、肌をしっとり整える「美肌の湯」となって再生した。

 こうした源泉の推移をたどっていくと、元は山の神、あるいは産土神を祀る磐座信仰の霊地であったが、湯脈の発見によって温泉の神が付会され、新たな信仰・祭祀の場になったと思われる。このような神社信仰の重層化は日本各地にみられることで、別に珍しいことではない。

 毎年4月には、弥彦の春の風物詩である「湯かけまつり」が行われている。湯神社の井戸より「神湯」を汲んで持ち帰り、湯曳き車とともに町内を練り歩くものである。

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2019年10月21日 撮影

案内板

湯神社温泉源泉所前の案内板。弥彦温泉発祥の由来が記されてる。