カシやタブなどが生育する小布勢神社の参道。


小布勢神社拝殿。背後に本殿、その後ろに「御食石」が鎮座している。


下生えの草に覆われたご神体の御食石。


旧暦8月14日に、この石を中心とした古式の祭事が行われる。


境内の片隅に置かれている異色の石像。大彦命の神像と推察するが確証はない。
 佐渡島の南西部、国道350号線の「倉谷バス停」付近に、小布勢(おぶせ)神社の入口を示す「小布勢神社 北参道」の標石が立っている。そこから細い道を1.2kmほど南下した林のなかに、旧西三川村(にしみかわむら)の郷社・小布勢神社が鎮座している。
 参道の入口、明神鳥居の脇に置かれた狛犬は、嘉永4年(1851)に「石工の里」椿尾(つばきお)集落の名工の作とされる。

 小布勢神社の社叢はおよそ90アール(2722.5坪)あるといわれ、境内には鬱蒼としたアカガシの林が広がっている。この社叢は日本海側の北限となるもので、貴重なアカガシ林の典型として、佐渡市の天然記念物に指定されている。

 境内には、拝殿と本殿、かなり老朽化が進んだ能舞台があり、本殿の背後に「御食石(みけいし)」と呼ばれるご神体石が鎮座している。
 当社を訪れたのは、陽光降り注ぐ初夏の昼中だった。御食石を囲む玉垣は、密生した下生えの草に覆い隠され、ご神体石は半分隠れるようにうずくまっていた。

 神社の創建は、室町時代にさかのぼるとみられ、安永(1772〜81年)以降に成立した『佐渡国寺社境内案内帳』には、明徳5年(1394)、西三川の地頭・本間山城入道によって建立されたとあり、明治期の『神社明細帳』には、観応元年(1350)に創建されたとある。

 当社の祭神は、大彦命(おおひこのみこと)とされているが、『神社明細帳』には素盞嗚尊(すさのおのみこと)と記されている。
 『佐渡神社誌』(1926)によると、かつて祭神が不明となった時代があり、当時の社職が、出雲國仁多郡布勢郷の佐白に祀らえている素尊八岐蛇に付会し、誤って素盞嗚尊を祭神にしたのだろうとある。古より当社の祭神は、大彦命であったとみてまちがいないだろう。

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 境内の片隅に、俳優の國村隼(くにむらじゅん)に似たいかつい風貌の石像が置かれている(写真上)。大きさは高さは50cmぐらいで、左腰に刀を下げ、帽子をかぶり、短甲(たんこう・みじかいよろい)のようなものを胴体に装着している。造像の意図も年代も判然としないが、姿態や表情、胸の紋章が巧みに彫り出されていて、小泊・椿尾の名工の作とも思われる。

 いささか唐突な印象を与えるこの石像は、なぜここに置かれているのだろう。よく見ると、胸に「五七の桐」と「十六葉一重菊」が上下に重なった「菊桐抱合せ紋」が彫り込まれている。これから察すると、これは天皇家に関わる武人・大彦命の像ではないかと思われるが、はっきりとした確証はない。

 孝元天皇の皇子・大彦命は、崇神天皇の時代に四道将軍の一人として、北陸に派遣されたという伝承上の人物である。『日本書紀』では阿倍臣(あべのおみ)をはじめ、膳臣(かしわでのおみ)、阿閉臣(あへのおみ)、沙沙城山君(ささきやまのきみ)、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)、越国造(こしのくにのみやつこ)、伊賀臣(いがのおみ)ら7氏の始祖とされている。
 なかでも阿倍氏は、多くの支族をもつ有力氏族で、布勢氏(普勢氏)もその一つである。「小布勢」の名も、『新撰姓氏録』に「布施朝臣大彦命之後也」とあることから、大彦命を始祖とする布施氏に由来するものと考えられる。

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 小布勢神社の周辺から、5世紀の子持勾玉(まがたま)や石製有孔円板などの祭祀遺物が出土している。また、当社東方の高塚山と呼ばれる丘陵地は神体山とされ、この山からも祭祀遺物が見つかっている。これらの発見から、当地が古代の祭祀場であり、古代祭祀場から神社へと発展したと推察される。ご神体の「御食石」は、神社が建つ以前から祭祀の中心となる「石神」、もしくは「磐座」であったのだろう。

 古代において、どのような祭祀が行われていたのかは不明だが、現在も毎年9月第2土曜日の例祭日には、神官によって古式の神事が行われている。
 新しい稲穂の籾(もみ)を1粒ずつとり、皮をむいて素焼きの土器(かわらけ)に入れてすりつぶし、いくらか粘ってきたら藁(わら)で包む。一方で、籾をつぶして甘酒をつくり、この両方を三方(神饌(しんせん)を載せるための台)に載せ、神官宅から御食石へ持っていき、拝礼して御食石めがけて投げかける。投げ終わると、決して後を振り返ることなく、急いで引き下がらなければならないとされている。

 御食石の「みけ」とは、神への供物。また、天皇の食事の料を表すものである。三方に載せられた御神饌を石に向かって投げるのは、「かわらけ投げ」に見られる豊作祈願などの願掛けの一種と思われる。
 祭神・大彦命の弟御子・比古伊那許志別命(ひこいなこしわけのみこと)は、膳臣の祖で、古代に朝廷の食膳を司る伴造(とものみやつこ)であった。御食石の名も、ここから付いたのではないかと推測される。

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2021年6月26日 撮影


老朽化した能舞台。


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