岩屋山石窟の入り口。岩屋山の中腹にある洞穴は海蝕洞の隆起により形成された。


洞穴の間口約8m、高さ約6m。奥行は不明だが、伝説では外海府の「岩谷口洞窟」につながっているという。


窟内北壁に並ぶ3体の磨崖仏。囲炉裏やろうそくの煤煙で、仏像は黒くすすけている。


洞穴の壁面には後世に彫られた石仏が数多く安置されている。


洞穴の入り口を囲むように、四国八十八ヶ所霊場をなぞらえた八十八観音が半円状に並んでいる。


石仏は、小泊石工の名人、五平の作と伝えられている。





 日本海に浮かぶ本州最大の離島・佐渡は、2つの細長い島を「S」字状にずらして並べた形をしており、北側を「大佐渡」、南側を「小佐渡」、2つの間の平野部が「国仲(くになか)」と呼ばれている。
 大佐渡には、標高1000m級の山々が連なる大佐渡山地、北側の「外海府(そとかいふ)海岸」には断崖絶壁と無数の岩礁が連なる海岸線が続いている。小佐渡は、なだらかな丘陵地帯となっており、海岸線も外海府に比べると穏やかな表情を見せている。

 島の面積は855.61km2。これは東京23区の面積627.6 km2の約1.36倍で、島の人口は5万964人(2021年5月1日現在)。人口の一番多かった昭和25年(1950)には、12万5000人を数えたが、近年には深刻な過疎化・高齢化に悩まされている。

 現在、佐渡の表玄関は両津(りょうつ)港となっているが、これは明治時代に入ってからのこと。それ以前は、島の南端に位置する小木港が佐渡金山の積出港として、また、大阪と北海道を結ぶ北前船の寄港地として栄えていた。さらに古い中世から平安期にかけては、佐渡の国津(くにつ)は、越後の寺泊(てらどまり)港から最短距離となる松ヶ崎で、佐渡に流された順徳上皇(承久3年(1221)配流)、日蓮聖人(文永8年(1271)配流)、世阿弥元清(永享6年(1434)配流)が乗った流人船(るにんぶね)も、ここ松ヶ崎に着岸している。

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 9時20分、新潟港発のカーフェリーに乗船し、11時50分に両津港着。車をおろし、佐渡一周線(県道45号線)を右回りに走る。前浜海岸の津神神社、竜王岩、赤亀岩、風島弁天の海岸美を探勝し、島の南端に位置する小木地区の宿根木(しゅくねぎ)に向かう。

 地元では「岩屋さん」と呼ばれ親しまれている「岩屋山石窟(いわやさんせっくつ)」は、国の重要伝統的建造物群保存地区である宿根木集落の北東裏山「岩屋山」の中腹部にある。

 石窟は海から約900m離れているが、窟内の岩壁には牡蠣の殻が附着していたという。これは、この洞窟が今から数十万年前に波の侵食作用によってうがたれた「隆起海蝕洞」であったことを示すもので、かつての海岸が長い年月をかけて標高約90mの高さまで引き上げられたものという(下記案内板参照)。

 石窟の間口は約8m、高さ最大約6m、窟内の広さは学校の教室の1.5倍くらいあるだろう。洞窟の奥行きは不明とされているが、地元には、その昔、宿根木から放した犬が、岩谷口(いわやぐち)の洞窟から現れたという逸話が残されており、この洞穴は約53km離れた外海府(そとかいふ)の岩谷口洞窟とつながっているという伝承が残されている。

 毎月1日と17日、地元の老人たちがここに集まり、お籠もりをしてご詠歌や念仏を唱える「居座遍路(ねまりへんろ)」が行われている。 佐渡では座ることを「ねまる」という。窟内の入り口にある囲炉裏は、冬場に暖を取るために切られたものだろう。

 窟内に電灯はなく、奥に入るにしたがって暗さは徐々に増していく。窟内の側壁には3か所にわたり半肉彫りの大小8体の摩崖仏が彫られている。北壁(左手)に高さ150cmほどの阿弥陀・釈迦・大日如来の3体が並び、南壁(右手)には高さ70cmほどの羅漢(らかん)形の座像2体が彫られている。どちらも、平安時代または鎌倉時代の作といわれ、一説には、大同3年(808)、弘法大師(空海)が安置したとの伝承をもつ。
 磨崖仏は、黒く煤けた岩壁に溶け込むように安置されている。自然光では、暗さに目が慣れてきても細部まで見ることはできない。撮影では、LEDライトを2灯使用した。見学者は懐中電灯を持参することをオススメする。

 洞穴前の広場には、四国遍路の八十八カ所霊場巡りになぞられた88体の石仏が半円状に並んでいる。文化6年(1809)に、宿根木の廻船業者・石塚権兵衛の母が造立したといわれている。高さ50〜60cmの八十八観音は、いずれも各部のバランスがよく、蓮弁などの彫刻も優れている。佐渡の小泊石工(こどまりいしく)の名人・五平の作と伝わり、文化8年の銘がある。

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 今から約6500〜5000年前の縄文時代前期、岩屋山洞窟は縄文人の生活空間だったことが分かっている。昭和42年(1967)、59年(1984)の2度にわたる発掘調査で、洞窟及び前庭部から縄文時代、古墳時代、古代から近世に至るまでの多くの遺物が出土した。なかでも、細い棒の先で横や斜めに直線の文様をつける「沈線文(ちんせんもん)系土器」は、佐渡に約180か所のある縄文遺跡のなかでもっとも古いもので、佐渡のおける最古の土器として重要な発見となった。

 古代より洞窟は、その神秘的な佇まいから畏敬の対象となることが多かった。洞窟は古代人の生活の場であるとともに、信仰の霊場・墓所であり、喪失した生命力を再生・復活される空間として活用された聖域であった。
 洞窟そのものをご神体とする例は「垂水遺跡」(山形県山形市)や「加賀の潜戸」(島根県松江市)、「猪目洞窟」(島根県出雲市)など、日本各地に多く見られる。

 当石窟は、古代ばかりでなく近世に入っても、観音信仰の霊場として知られていた。窟内から江戸時代のものと思われる人骨や牛などの獣骨を含む土坑も多数みつかっており、賽銭として使用された出土銭貨のなかで、もっとも多く見つかった古銭が「寛永通宝」(1626年初鋳)であった。鎌倉時代移行は信仰の霊場であっただけでなく、洞窟は葬送の場としても利用されていたと推測される。
 当石窟は、縄文時代から現代にいたるまで、連綿と受け継がれてきた聖域であった。隆起海岸からなる洞窟の特異性と相まって、民間信仰上の貴重な史跡である。

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2021年6月25日 撮影

石窟内の観音堂。
この祠の奥に「船魂(ふなだま)様」と呼ばれる
十一面観音が安置されている。

案内板。県指定文化財(史跡)