毎年3月20日頃、「弁慶のはさみ岩」の向こうに大海に沈む夕陽を見ることができる。




真下から眺めた「はさみ岩」。今にも落ちてきそうでスリル満点。


海側の岩場から見上げた「はさみ岩」。
 佐渡の北西部に位置する相川町、元々この地区は江戸時代初期には荒涼たる一寒村にすぎなかった。島の地誌『佐渡風土記』(昭和16年)には、「相川は人家もなく 山林竹木生茂り 鳥獣の外通ふものなし 海邊に至りて纔に波根多村(現在の相川羽田村)とて五六軒百姓屋有」と、当時の様子が記されている。
 ところが慶長6年(1601)、鶴子(つるし)銀山の山師、三浦次兵衛、渡辺儀兵衛、渡辺弥次右衛門の3人によって江戸時代最大の金銀鉱脈が発見されると、村の様相は一変する。以降、相川には一攫千金を夢見る島外の人々が押し寄せ、人口5万人を超える日本海側きっての鉱山都市に変貌した。

 慶長8年(1603)、相川の町は佐渡奉行に任命された大久保長安によって、計画的なまちづくりが行われた。それまで鶴子にあった陣屋(代官所)が相川に移され、海岸に港が築かれると、相川は行政・商業の中心地として賑わっていく。
 元和4年(1618)、奉行制への移行によって、鎮目(しずめ)市左エ門・竹村九郎右衛門が初代佐渡奉行となり、以後幕末まで102人の奉行が赴任した。

 しかし、江戸時代中期になると産出量が衰退していった。そこで、明治新政府は佐渡鉱山を政府直営の「佐渡鉱山」として改革に着手し、欧米の最新技術を積極的に取り入れ近代化を図った。その後、明治29年(1896)には佐渡鉱山は三菱合資会社に払い下げられた。昭和10年代には国策として佐渡鉱山に金の増産が課せられ、これにより金の生産量は増大したが、戦後には大幅に減少し、昭和28年(1953)には操業規模の大縮小を余儀なくされ、平成元年(1989)に閉山となって、現在に至っている。

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 相川町下相川の吹上(ふきあげ)海岸に沿って走る県道45号線に「鎮目(しずめ)奉行の墓」と記された道標が立てられている。この道標に従って海岸側に下りると駐車場があり、そのすぐ近くに「弁慶のはさみ岩」とよばれる大石がある。
 切り立った岩壁の間に、逆三角形の大石がすっぽりとはさまっている姿は、まさに奇観絶景、造化の妙といえるだろう。

 はさみ岩の周辺、海岸段丘崖下の標高0〜20m付近の海岸部に、国の史跡「吹上海岸石切場跡」がある。この岩場は、約3000万年前に起きた火山活動の痕跡とされ、石質は球顆(きゅうか)流紋岩で、球状の石英(せきえい)の粒が含まれている。この球顆が、金の採掘が本格化した近世から近代にかけて、金鉱石を細かくを砕く石臼の上磨(うわうす)として利用された。海岸線に沿って露出する岩場には、矢穴痕や鑿(のみ)痕など、石材を切り出した痕跡が多数残されている。

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 毎年3月20日頃になると「弁慶のはさみ岩」の空き間から、日本海に沈む夕陽を眺めることができるという。現在、弁慶のはさみ岩は「落ちない」運にあやかりたいと願う、受験生たちのパワースポットになっている。庶民の信仰対象にはなっていないようだが、落ちそうで落ちない不思議な石は、聖なるものを感じさせる特別な場所である。

 どのような神変不可思議が働いて、このような景観が生まれたのだろう。それに就いては次のような伝承が残されている。
 その昔、「佐渡弁慶」という島一番の力持ちがいた。ある時、弁慶と山伏一行が、相川から島内最高峰の金北山(きんぽくさん、1172m)へ修行に行く途中、地獄谷で待ち伏せていた鬼に出逢った。鬼は道を塞いで弁慶に力比べを挑んできた。そこで佐渡弁慶は近くにあった巨大な石を遠くまで投げ飛ばす。これを見た鬼は、びっくりし佐渡から逃げていった。
 この投げ飛ばした大石が、巨岩の間にはさまった「弁慶のはさみ岩」といわれている。

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2021年6月26日 撮影


吹上海岸にある佐渡奉行・鎮目市左エ門の墓。
関ケ原の戦いでは徳川家臣として活躍。
1618年に佐渡奉行に着任後、さまざまな施策を実行し、
金銀山の復興に尽力した名奉行として名を残した。
お墓はその業績をたたえ、1845年に建てられたもの。


吹上海岸石切場跡(国指定史跡)。近世から近代にかけて佐渡鉱山用の石磨の石材として使われた。