大虫神社。鳥居右脇の社号標には「縣社 式内名神大社 大虫神社」と刻まれている。


大虫神社の境内にある大石神社の社殿。


大石神社の社殿後方、玉垣の中に鎮座する「お岩さま」。(以下同)





 大虫(おおむし)神社は、福井県の中央部、丹生(にゅう)山地の鬼ヶ岳(533m)に源を発する大虫川の扇状地に鎮座している。
 大虫町北部の山裾、県道190号線沿いに立つ石鳥居をくぐり参道を北上すると、境内の手前に大虫川に架かる宮橋(神橋)がある。「大虫神社の眼鏡橋」と呼ばれる石造単アーチ橋で橋長7.9m、幅員3.1m。短い橋なので、注意しないと素通りしてしまう。

 大虫神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、敦賀市(つるがし)の氣比(けひ)神宮とともに「名神大社」に列せられている。創建の年代は不詳であるが、神社の由緒書には第10代崇神天皇7年(西暦前91年)、越前国を平定・開拓した天津日高日子穂穂出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)、別名:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を、鬼ヶ岳の山頂に祀り、大蒸神社と称したのがはじまりとされている。

 また、大虫の名の由来は、垂仁天皇26年(西暦前4年)、五穀を食い荒らす害虫・蝗虫(イナゴ)が国中に大発生したとき、困りはてた国民が当社に祈願したところ、たちまちイナゴは退散した。天皇はこれを喜び、当社を大虫神社と称し、鬼ヶ岳の山頂から現在地に遷座したという。以降、当社の祭神・天津日高日子穂穂出見尊は、農業の守護神として、イナゴ・ウンカなどの害虫を退治する虫除けの神様として信仰されることになる。

 国史での初見は『続日本紀』宝亀11年(780)12月14日条にあり、越前国丹生郡の大虫神ほかに従五位下の神階を授けたという旨の記載されている。
 文武天皇2年(705)8月、名神大の官社となって、戦国時代には新田、足利、斯波、朝倉等の諸将の信仰厚く、本殿、拝殿、末社48社を有する壮麗な大社となった。天正4年(1576)4月、柴田勝家よって社殿を焼かれるが、ご神体・神宝は鬼ヶ岳山頂に移され無事であった。その後、豊臣秀吉により再興。天正11年(1583)、式内社の小虫神社・雨夜神社・雷神社を当社に合祀。明治8年(1875)、県社に列せられた。
 本殿背後の収蔵殿には、平安時代に作られた天津日高日子穂穂出見命および摂社の塩椎(しおつち)の木造男神坐像の2躯(国重要文化財)が安置されている。

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 大虫神社の社殿左手に、霊石「お岩さま」をご神体とする大岩神社がある。伝承によると、お岩さまはみずから動いて、山を上り下りしたそうで、大岩神社の案内板には以下のように記されている。
 「当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫町)山地字水谷に鎮座、神体磐石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。
 (中略)
 「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、 山上の所を変える事ありと、昔よりいひ伝えられる。
 石は又五尺四方計(約1.5メートル)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。」

 鬼ヶ岳の山頂から1.5m四方もある巨石を、約2.3kmも離れた当社まで運ぶのは「人力の及ぶ所にあらず」とあるが、こうした伝承は、山の神が山から下りて田の神となり、秋には再び山に戻るという、一種の精霊信仰(アニミズム)から生まれたものであろう。
 日本人にとって神は、人の目には見えない超自然的な存在であり、人前に姿をあらわすときは、樹木・岩石・動物・御幣などに寄りついて具象化される。村人たちがこれを霊石「お岩さま」として祀ったのが、大石神社のはじまりと思われる。

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 当社信仰の由来となった鬼ヶ岳は、その昔、丹生ヶ岳と呼ばれていた。伝承によると、いつの頃からかこの山に鬼が住みつき、日夜出没して通行人や近所の婦女子を襲い、悪事の限りを尽くしていた。ある日、村人たちは山から下りてきた鬼を追いかけ、日野川の河原で鬼を退治した。この鬼退治が契機となって、山名を「丹生ヶ岳」から「鬼ヶ岳」に変えたという。

 上記の由緒、伝承から推察すると、霊石「お岩さま」は、丹生ヶ岳と呼ばれていた時代の「山の神」を象徴する祖霊神であったのだろう。「丹生」という地名から、鉱山における山神であり、稲作の豊凶を見守る農耕神、そして田の神と結びついた水の神など、自然信仰を基層とした古層の土地神であったと思われる。

 一方、丹生ヶ岳から鬼ヶ岳へと、山名を変える契機となった大虫神社の祭神・彦火火出見尊は、天孫降臨神話で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御子で、母は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)。初代の神武天皇の祖父神にあたり、神統譜では皇室の祖先神とされている。神名の「穂穂出見」は『日本書紀』には「火火出見」と記されており、「穂」は稲穂が実って頭を垂れている姿をあらわしたものとされ、「火」は、産屋の火の中から生まれた神をあらわすとされている。
 また、彦火火出見尊は「海幸山幸」神話の主人公・山幸彦(やまさちひこ)とされる神さまで、漁民集団の海神(わたつみ)信仰と、海の彼方からやってくた穀霊(こくれい)信仰が結びついた神と考えられている。

 こうして見ると、同じ山であっても丹生ヶ岳と、その後の鬼ヶ岳の神は、まったく異なる性格の神様であったと思われる。信仰対象の中心が、イナゴ、ウンカなどを退治する虫除けの神に変わり、壮麗な社殿が建てられ、大社となったことで、古層の石神信仰はしだいに忘れられていったのであろう。大虫神社の奥社という由緒が、かろうじて昔年の名残りをとどめている。

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2020年10月22日 撮影


大虫神社の境内を流れる大虫川に架かる宮橋。
7年かかって施工され、大正8年(1919)に完成。
平成13年に国の登録有形文化財に登録されている。


境内には「石神の湧水」という湧水が引かれている。




案内板。