谷川に架かる橋を渡ると朱塗りの鳥居があらわれ、その奥に大岩大権現が鎮座している。


雨の中、あたりはただ森閑としているばかりで動くものの気配はどこにもない。


土石流から村を救った大岩大権現。山王権現として崇められている。


大石の裏側。別の石と重なって小さな岩陰ができている。


岩陰の内部、小さな鳥居は置かれていた。
 敦賀市を流れる笙の川(しょうのかわ)に沿って国道161号線を南下する。鉄道写真の撮影ポイントとして知られる北陸本線の「鳩原(はつはら)ループ線」を過ぎた「新疋田(しんひきだ)駅」の北西、野坂山地の山麓に大岩大権現(おおいわだいごんげん)は鎮座している。
 国道161号線から人家のまばらな住宅地に入り「愛発(あらち)西地区統合簡易水道 疋田浄水場」をめざして急な坂道を上っていく。浄水場の入口前にはきれいな谷川が流れており、道沿いに「大岩大権現」の標識が立てられている。

 浄水場にある「愛発」という難読地名は、万葉集などに有乳、荒血、荒道、阿良知などと書かれている古地名で、畿内と北陸を結ぶ北陸街道の要所であった。奈良時代には、東海道の伊勢国「鈴鹿関」と東山道の美濃国「不破関」とともに古代三関(さんげん)の1つ「愛発関(あらちのせき)」が設けられたとされる地域である。愛発関の所在地は明らかになっていないが、敦賀市山中から疋田辺りの北陸道沿いにあったと考えられている。

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 朝から強い雨に見舞われた。雨の音に谷川を流れる水の音が重なっている。川に架かる赤い橋を渡ると朱塗りの鳥居があり、その先の平地の奥に高さ2m、横4mほどの巨大な岩塊が見えてくる。
 雨に濡れた鉛色の大岩は、冷たい光を浴びて神々しいまでの鈍い光沢を放っている。大岩の裏側に回ると、人一人が入れるほどの岩陰があり、その入り口と奥に小さな鳥居が置かれていた。

 現地案内板に「大岩大権現の由来」が記されている。
 今から155年前の慶応2年(1866)5月15日、夕方から激しい雨が降り続き、翌16日の早朝に山が土煙を上げて崩れ出し、村を襲う土石流が発生した。山から大石や大木が流れ出し、東方の大川は大洪水となって、どちらにも逃げることができなくなった。村人になすすべはなく、そこかしこに屈み込み、泣き叫ぶばかりであった。
 同日の昼時分になって、やっと雨は上がった。村人が山に登り、被害の様子を見に行くと、大岩があらわれ出ていて、この岩が上流からの土石流をせき止め、水の流れを左右に分けて、村人の命を守ってくれたことが分かった。
 村人は、神仏が疋田村を見捨てなかったことに感謝し、このご加護を忘れないために、氏神に「おみくじ」でお伺いを立てたところ、山王(さんのう)権現のお力によって救われたとのお告げを受ける。
 以後、疋田村の人々はこの大岩を大権現として崇め、毎年、洪水のあった旧暦の5月15日にお祭りをおこなっている。

 おみくじのお告げを受けた「山王権現」とは、山の地主神を仏教的に表現したもので、神仏分離では大山咋神(おおやまくいのかみ)のこととされている。また、「権現」とは、仏や菩薩が仮の姿をとって現れる神仏習合の神のことをいう。
 大山咋神は、滋賀県大津市に鎮座する日吉(ひよし)大社の祭神で、最澄の天台宗との結びつき、比叡山を守護する有力な神となった。天孫降臨以前からこの国土に住む地方神であり、「咋(くい)」に「杭(くい)」の文字を当てることで、山頂でおこなう祭事の折、依り代として打ち込む「斎杭(いくい)」を神格化した神とする説がある。

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 案内板を読むと、大岩大権現は慶応2年に発生した自然災害の伝承碑ともいえるが、この大岩はそれだけの存在ではないだろう。森羅万象に神を見出だし、特定の岩石に畏敬の心情を抱く神道の思想は、縄文時代にはじまるとされている。古来日本人は、人間社会に災禍をもたらす「荒ぶる神」に対し、深い畏怖の念をもって鎮魂の祈りを捧げてきた。大自然に驚異を感じたときに、信仰というものが自然発生的に形成されるものである。

 慶応2年といえば明治元年の2年前で、近代国家日本の揺籃期にあたる。歴史的には、霊石を神体として祀る石神信仰は、時代後れの迷信としてあつかわれる時代であるが、こうした日本人の基層をなしている自然信仰は、現代に生きる私たちにも、根強く残されていると考えられる。

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2020年10月23日 撮影


大岩の左に流れる谷川が、清浄な空気を漂わせている。

案内板