神体山として知られる野木山(野木ヶ岳)を背に鎮座する泉岡一言神社。


上段に磐境を囲う玉垣があり、一段下った石垣に河原神社(上野木)と三宅神社(下野木)が分祀されている。


拝所。両脇の玉垣には合格祈願の絵馬が多く並べられている。


拝所に接して石鳥居が立てられている。約5m×8mほどの玉垣内は、禁足地となっている。


黒玉石を敷き詰めた玉垣の中に、御弊が手向けられた立石が鎮座している。
 小浜(おばま)湾へそそぐ北川の支流・野木川の右岸に、古くから神体山として信仰されていた野木山(343.6m)がそびえている。泉岡一言(いずみおかひとこと)神社は、野木山の東南に延びる支脈・野木小山の東南山麓に鎮座している。
 野木川沿いの駐車場に車を停めて、一の鳥居をくぐり参道に入ると、歩くほどに森閑とした気配が強くなってくる。雨のせいだろうか、境内は森閑として人のいる気配はどこにもない。

 手水舎脇の短い石段を上ると、右に社務所、左に絵馬殿がある。さらに石段を上ると、根元が1つのご神木「夫婦杉」が天に向かってそびえ立ち、その先に神馬「青毛の馬」の像と、玉垣に囲まれた小さな磐座が配されている。
 石段を上りきった平地の一角に、2段に積まれたひな壇状の石積みがあり、その段上に石の玉垣で四方を囲まれた「磐境(いわさか)が設けられている。

 磐境の拝所(はいじょ)に接して石の鳥居が立てられていて、鳥居の柱間の延長に扁平な黒玉石を敷き詰めた長方形の区画がある。その奥に高さ1mほどの立石が置かれ、石の前に四垂(よたれ)の紙垂(しで)を2本結びつけた御弊(ごへい)が立てられている。約5m×8mほどの玉垣内は、禁足地となっており、一般人の立ち入りは許されていない。

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 当社の祭神は、奈良県御所市の名神大社「葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社」から勧請とされた一言主神である。
 案内板(写真下)の由緒には「大和の国葛城山より 影向の霊神で賞罰厳烈なり 一事を以って理を尽くす 多言をすべからず 神の使者は青毛の神馬なり 故に里人青毛の馬を養わず また神告げて曰く 吾敢えて宮祠を好まず 野嶽を◎(手篇に止、しゃ)と為せと 故に千有余年社殿を創建せず」とある。
 村人は一言主の「吾敢えて宮祠を好まず」の神意を汲んで、当社に社殿を設けなかったといわれている。

 『古事記』に登場する一言主神は、第21代雄略天皇が葛城山に遊猟のために登られたとき、向かいの山の尾根に、天皇の行列とまったく同じ人数、装束を整えた行列が現れた。立腹された天皇が矢をつがえ、名を問われると「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神。葛城の一言主の大神なり」と応えられた。これを聞いた天皇は畏れかしこみ、矢を収め武器と供人の衣服を一言主に献上したとある。
 ここから一言主神は、凶事や吉事を一言で言いはなつ託宣の神として、広く信仰される神となった。

 和銅5年(712)に編纂された『古事記』には、一言主は雄略天皇と対等以上の関係にあるが、養老4年(720)の『日本書紀』では、一事主(一言主)が天皇と出会うところまでは同じだが、その後はともに狩りを楽しんだとあり、その関係は対等なものになっている。
 時代が下がって延暦16年(797)の『続日本紀』になると、獲物を競い合い、天皇の怒りに触れて、高鴨神(一言主神)は土佐国に流されてしまう。さらに弘仁13年(822)の『日本霊異記』に至っては、一語主(一言主)は鬼神として、役行者に使役されるまでに地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が、朝廷に讒言(ざんげん)したためである、と記されている。
 一言主の流された土佐国には、一言主を祭神として祀る「土佐神社」があり、一宮になっている。

 こうした一言主の零落ぶりは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位が、時代とともに低下したためと考えられているが、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられ、葛城山が修験道の聖地となったことが、葛城を本拠地とする一言主神の零落の原因になったとも思われる。

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 当社の創祀年代は不詳だが、福井県神社庁のホームページに鎌倉時代の文永2年(1265)、『若狭国総田帖』に「泉岡一言宮壹反……」との記載があり、『日本の神々 神社と聖地 8』(白水社)には、正安2年(1300)、東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)に「泉岡」の地名があげられており、「ヒトコトノ明神ノ御前ヲサカヒ候」とあって、少なくとも当社が鎌倉時代中期には存在したことを知ることができる。とある。

 神社名の「泉岡」について、『日本の神々 8』に「泉岡は地名であり」とあるが、詳細については記されていない。気になったので、若狭町役場に問い合わせ、調べてもらったが、由来に関する史料は見つからなかったという。
 わたしの察するところ、泉の湧き出る岡(小さい山、山の背)が神社の近くにあって、これが霊泉として崇められ、野木山の神体山信仰と結びついたのではないだろうか。
 同書に、室町時代の明応3年(1494)6月、真言宗明通寺(小浜市)の僧によって、野木山頂で雨乞いの祈願が行われ、大雨が降ったという記録が、同寺の「明通寺文書」に残されているとある。
 野木小山の山頂には、当社の奥津宮とされる玉垣に囲まれた磐座があり、中世からの雨乞い儀式の祭祀場であったと考えられる。

 一般に、神社の起こりは、古墳の築造が終わりを迎える7世紀初め頃と考えられている。神社の社殿は仏教寺院の影響を受けて建てられたもので、奈良時代以降に成立したといわれている。古代の神社は社殿をもたないもので、日常の生活・生産の場から少し離れた、神聖感を抱かせる、穢(けが)れの及ばない特別な空間が、祭りの場として選ばれていた。

 白川静によれば、「社(しゃ、やしろ)」の「示」偏は、神様を祭るときのテーブルの意で、「示」を使った漢字は、みな「神」に関係した文字であるという。また「社」は、元は「土」という字で、縦長の土饅頭を土地の上に置き、土地の神(地主神)と見立てたものある。土饅頭を神の依り代として、そこに神様を迎えてお祀りをしたのが「社」で意であり、「社」は神社の原形となる字形であるという。

 『延喜式』に泉岡一言神社の記載はなく、それほど古い創建とは思えないが、形態においては神社の原形を今に伝えるもので、古式に則って創建されたものと思われる。何もない禁足地は凛とした雰囲気を漂わせ、慎ましやかな佇まいに、清々しさを感じられる。

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2020年10月23日 撮影

社務所(右)と絵馬殿(左)に挟まれた参道。


参道途中にある磐座。


案内板