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左の白壁の社殿が拾石神社末社の大巖神社。右の玉垣内が素戔嗚神社(拾石神社)。

大巖神社の雨乞巖。日照りの時に、餅をタワシにして酒でこの岩を洗うと雨が降ると言われている。

『拾石神社縁起』には、大巖神社の大岩が性器崇拝の信仰遺跡だったとある。
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金平町の岩上神社から車で約5分。同じ蒲郡市(がまごおりし)の拾石町(ひろいしちょう)に鎮座する大巖(おおいわ)神社に向かう。
三河港に注ぐ拾石川を挟んで、素戔嗚(すさのお)神社の扁額を掲げた2つの石鳥居が並んでいる。右岸側に立つニノ鳥居の先に石段があり、上ったところが素戔嗚神社(別称:拾石神社)の境内となっている。
大巖神社は拾石神社の末社とされ、素戔嗚神社を囲う玉垣の左手にある。社殿は切妻造平入りの様式で、前方に張り出した向拝(こうはい)屋根を、社殿の白壁とおなじ白塗りの鳥居が支えている。社殿と鳥居が一体化した珍しい構造だが、社殿の前が道路になっており、鳥居と社殿を離して建てるスペースがないために、苦肉の策として建てられたものだろう。
大巖神社はすぐに見つかったが、ご神体の「雨乞巖(あまごいいわ)」と称される大巖は、どこにあるのか?。雨乞巖は、大巖神社の社殿と素戔嗚神社の石段に挟まれていて、道路側からは見ることができない。白壁の社殿背後の狭いスペースに周り込んで、はじめて高さ4mほどの雨乞巖を仰ぎ見ることができる。
大巖は長年の雨風で、亀裂が入り、割れているように見えるが、元は「一枚岩」の一つの塊だったのだろう。岩質は、西南日本の中央構造線の北側に沿って帯状に分布する領家変成岩(りょうけへんせいがん)類で、石英を多く含んだ「珪質片麻岩」と思われる。
岩に注連縄らしき細い縄が巻かれているが、岩場には蔦がからまり、落ち葉と枯れ枝が積もっている。あまり手入れはされていないようだ。
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「雨乞巖」は、その名の通り雨乞いの儀式が行われていたとされる岩で、祭神は日本神話に登場する水速女命(みずはのめのみこと、別名・罔象女神(みつはのめのかみ))。水の霊力を持つ女神として信仰されており、雨乞いの神事と深い関わりがある。
案内板の『捨石神社縁起』には、神慮を欠いた祀り方をすると神の怒りを買い、敬虔な心を持って信心を凝らすと、神の功徳を受けることができるという、祭祀においての教訓が示されている。
「この岩に「大巖雨師命と称え奉る」とあり、寛永年間(一六二四〜一六四三)の大旱魃は厳しく五穀は枯死寸前となった時、昔からの言い伝えによって酒と餅で岩を洗って雨乞の祈祷をしたところ、大雷雨になって堤防は破壊し田畑は荒廃した。それ以後この岩を洗うことを禁止したという。
二百余年後の、寛永五年(一八五二)の大旱魃の時村人は協議のうえ、この岩を洗うことを決議して五夜五日・三夜三日・一夜一日の宮籠りして祈願したが一向に霊験がなかった。そんなある夜村人の夢のお告げに「当時は神慮に背き神の怒りをこうむりたり、故に此の度は信心を凝らし神勅を守り之を行うべし」と、そこで総代十四人を選び三夜三日、日を異にし、斉戒沐浴して祈願した。不思議なことに一点の雲のない空に雨意を起し忽ち白雨盆を覆すような雨が降り山川草本の総てが生気に満ちてその年は豊作であったという。以後大巌神の神徳を称え毎年四月に祭典を行っている。」
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拾石神社には、もう一つ見逃せない石がある。神社境内の南奥に、足袋の形をした奇石「たび石」が安置されている。
道中安全のご利益があると伝えられおり、戦国時代には、深溝城(ふこうずじょう)4代目城主の松平家忠(1555〜1600年)が、浜松の徳川家康公の元へ向かう際、必ずこの石に立ち寄り、旅の安全を祈願したという伝承をもつ。
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2025年12月7日 撮影
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大巌神社の社殿。
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捨石神社のたび石。

案内板。
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