忍路環状列石の大きさは南北約33m、東西約22m。鷲ノ木環状列石(北海道森町)の直径約37mとともに、
北海道の類似遺跡の中でも最大級の環状列石である。


サークルの外側に2〜3mの幅に高さ10〜20cmの小石が敷かれ、その内側に高さ約1mの立石が置かれている。


立石は約9km離れたシリパ岬(余市町)から運ばれたものであることが明らかになっている。


環状列石の中心部。かつては多くの直立した石があったという。
 「音江環状列石」の撮影を終え、高速道路に乗って約2時間、「小樽塩谷インターチェンジ」から広域農道(フルーツ街道)に入り小樽市西部の忍路(おしょろ)地区に向かう。

 忍路環状列石は、三笠山と呼ばれる小高い山の麓に広がる河岸段丘上にあり、別名「三笠山ストンサークル、三笠山環状石籬(せきり)」とも呼ばれている。
 環状列石の発見は、今から165年前の文久元年(1861)のこととされ、1880年代に札幌農学校の田内捨六によって初の発掘調査が行われた。その結果を、明治19年(1886)渡瀬荘三郎が『人類学会報告』(第1巻1号)に発表し、環状列石研究の先駆となる遺跡として広く知られるようになる。

 当時の発掘調査の様子が、羽根田正明著『日本の環状列石』(『考古学雑誌』第15巻第3号からの抜粋)に記されている。
 「この遺跡は小樽市忍路字土場にある。蘭島川(らんしまがわ)の支流に沿って三笠山の麓に大小二個の石籬が存在する。小なる石籬は大なるもののやや東方にある。発見当時、周囲の石はすでに散逸して跡をとどめず、ただ中央にあった石、五〜六片が残存したのみである。
 大きいほうの遺跡は、ちょうど三笠山の麓にあり、南北の長径約二十間(約四〇メートル)、東西の短径約十五間(約三〇メートル)ほどの楕円形を呈し、多くの天然石をもって周辺に連ね、その用石は主として河原石が多く、山の石は少ない。
 列石は、三〇センチメートルないし一二〇センチメートルくらいの高さで、隙間なく接近し立ててある。(中略)また旧時は中心のあたりに、多くの直立した石が存在したと伝えられるが、今は一個も存在していない。」

とある。
 列石の多くの石は、遺跡とは気づかれないままに、家屋の土台石や庭石として抜き取られたのだろう。

 昭和20〜30年代に、駒井和愛(かずちか)、畠山三郎太らによる調査が行われたが、列石そのものを掘り返す大規模な発掘調査は行われていない。また、平成7(1995)〜12(2000)年には、小樽市教育委員会による周辺の詳細な分布調査を行われている。
 現在大きな列石のみ残されているが、これは近代になり修復されたものである。

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 忍路環状列石は、標高約24mの緩やかな傾斜地を削って造られた平地にあり、砂利を敷き詰めたそのうえに、南北の直径約33m、東西約22m、円周約87mにわたって大小の立石が楕円形に配置されている。

 さて、ここから素人のアバウトな考察となる。しばしおつき合い願いたい。
 環状列石に並べられた立石の数は、当初の正確な配置が分かっていないため不明だが、環状列石の円周87mに、平均1.5m間隔で並べたと仮定すると総数は58個、1m間隔だと87個となる。
 また、平均的な立石の寸法を、高さ80cm、幅・奥行き40cmと仮定し、これに安山岩の密度を約2,400kg/m3とし重量を計算すると、立石1個の重さは約307kgとなる。

 立石の採取地は、シリパ岬(余市町、ニセコ積丹(しゃこたん)小樽海岸国定公園の一部)の、柱状節理でひび割れた安山岩であることは、平成期の調査によってほぼ明らかになっている。
 シリパ岬から当地まで、余市湾を渡る海路では直線距離で約9km、海岸沿いの陸路では約12kmある。

 総重量17.8〜26.7トンとなる立石を、縄文人はどのような方法で運び、環状列石に配置したのだろう。
 陸路で木製橇(そり)を使い約300kgの石を運ぶ場合、平坦地ならおおむね5〜10人、緩い上り坂なら10〜15人程度が必要と考えられる。
 しかし、縄文時代の道はほとんどが獣道で、平坦な道らしい道はなかったと予想される。石は58個〜87個もあるのだから、まず橇が通れる、計画的に整備された道を造らなければならないが、さらに困ったことに、途中に余市川が流れている。
 余市川で舟を使うなら、最初から舟を使い、シリパ岬で採取した石を舟(丸木舟、あるいは筏、または2艘の丸木舟を繋いだ双胴船)に載せて、忍路の海岸まで運んだ方が、陸行よりもはるかにラクではないかと推測される。

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 忍路環状列石のすぐ北側、種吉沢(たねきちざわ)川・蘭島川の中流域に「忍路土場(どば)遺跡」(忍路2丁目142-1 他)と呼ばれる縄文時代後期の低湿地遺跡がある。
 私見では、この土場遺跡がシリパ岬産の立石を、舟から荷揚げした古忍路入江の水運基地ではないかと考えている。
 現在、土場遺跡から忍路湾まで約590mあるが、縄文時代には海が内陸側に入り込んでいて、土場遺跡周辺の低湿地(現在の標高は約14m)が入江に面していた可能性があるだろう。

 土場遺跡は、昭和60年(1985)から62年(1987)のフルーツ街道建設に伴い発見された遺跡で、推定範囲は南北約100m・東西約160mに及ぶ。北海道埋蔵文化財センターによって行われた発掘調査では、大量の土器や石器のほか、建物の建材・木製品・漆工品・繊維製品・漁具や大型種子・自然木などの有機質遺物が出土しており、その点数は合計で20万点を超えるという。

 また、遺跡では竪穴住居跡や墓、大きな木の柱穴なども見つかっており、人々が生活を営む集落であったと思われるが、一方で、柵のような木組み、石斧(いしおの)の柄、大量の漁具、舟の形をした容器なども見つかっており、これらの遺構・遺物から、当遺跡は単一の集落というより、ヒトとモノの集まる交易や工芸の場であり、水辺を利用した多様な生産・加工活動を行った物流拠点であった可能性が高いと思われる。

 シリパ岬から多くの立石を舟に積載し、忍路土場付近で荷揚げして、人力で河岸段丘上へ運搬するには、確立した輸送ルートと中継地が必要になるだろう。
 同遺跡周辺が、立石の海上輸送における荷揚げ・集積地点の一つであった可能性は、大いにあり得ると思う。

 小樽市から余市町にかけては、縄文時代後期(約3500年前)につくられた環状列石が80基以上もあるとされるが、忍路環状列石はこのなかで最大の規模を誇っている。当遺跡は、地域の広域的な協力関係のもと、複数の集落によって築かれた組織的・計画的な共同事業として造られた地域の中核をなすモニュメントであったと思われる。

2026年7月4日 撮影
忍路環状列石 史跡略図。

忍路環状列石の西約1kmに地鎮山環状列石。
小樽市と余市町の境界付近に西崎山環状列石がある。


案内板。