2020年まであと、 ようこそ ケイ・スチュワートの世界へ。昔の人の言い伝え、暴力と怒りの中で、主は私にふさわしい全てを整えて下さる。
あなたは 人目の訪問者です。
teacup01.jpg

大川さんのページは左画面の37です。
大川さんは2006年5月21日4時30分に亡くなりました。
さい
アベマリア(受洗の恩恵の方へ)
月の光(長年xmasのmassで使用)
エリーゼのために(母の好み)
we are the world(catholic youthテーマ曲)
右ページを印刷したい方は、始めに右画面でマウスポインターをクリックしてから印刷に入って下さい。
電子メールはshinpuall.gifをクリックして下さい。ご相談、ご意見、ご感想をお書き下さい。
この手話は「イエス・キリスト」と「愛」です。

 . j.christ.gif laugh.gif . tanpopo.gif . inoshi.gif ai.gif


千葉寺とカラス
 「浅草寺」は「せんそうじ」と呼ばれるように「千葉寺」は正しくは「せんようじ」と呼ぶ。飛鳥から奈良時代(700年代)に有名な薬師寺(奈良の薬師寺だと思う:不確か)の僧「行基(ぎょうき)」によって開創されたというが、たぶんそんな事はなく、いくらたくさん寺を開創したとしても千葉まで来ることはない。「行基」に造られたという寺は日本中に無数にある。カトリック千葉寺教会のすぐ近く、歩いて5分の所に「千葉寺」がある。とても小さな寺で、寺より大きな銀杏の木の方が有名かもしれない。仏様だけでなく、神社もあり、聖徳太子も祀られていて、よく理解できない寺である。
 この寺は平安時代後期になると、つまり頼朝が関東を制圧する時代には、千葉氏が、菩提寺(氏寺)として、何かとこの寺に祈願もし、助け、修復もした所で、その頃には当時の中国(宋)に留学するシステムもあったぐらいの発展した寺で、有名なのは(道源―道元ではない)がいる。私が成田から転任になって「どこに移られたんですか?」と聞かれて「千葉寺です」と答えたら、「仏教に改宗したんですか」と言われたこともあった。いや、千葉寺町にある教会の片隅である。この寺は今は、「海上山(旭市のロザリオの聖母園と同じ町名)」真言宗、豊山派(成田の宗吾霊堂と同じ)で、この寺で僧侶であった、千葉氏の亜型、原氏の了行(りょうぎょう)も留学し、経典を持ち帰って先生になった。
 おまけに鎌倉時代までは三浦半島と銚子などの部分的な房総半島に囲まれた内海で、香取(かとり)の海と呼ばれこの千葉は、花見川と同様に重要な最短距離の鎌倉道の中継地点であった。  ところがもっと重要な事実がある。1970年代に海岸線の埋め立てが行われ、東京湾のほとんどが工場となった。そのため森はほとんどなく、この千葉寺のような古い寺がこの辺りでは唯一である。従って、「カラスの森」になっているのだ。カラスは、ごみステーションのあたりを活動領域とする事が多い。そのあたりに住むのではなく夜は森に帰るのだ。教会の門の前に丁度「ごみステーション」があり、いつも縄張りなのだろう、2羽のカラスが、高いヒマラヤスギのてっぺんで、えばったように鳴いていた。千葉寺教会は門の真上が教会聖堂の入り口で最も高い場所にあり、その横に大木が2本ある。私は夕陽を見るのが、みんなと同じで大好きだし、自分の部屋は大きな木に囲まれて何も見えない薄暗い部屋、1階に降りても四方がコンクリートに囲まれて、朝日も夕陽もない。夕刻、聖堂入口の踊り場に行ってみたが、ちょうどその時は前のビルが邪魔をして夕陽は見られず、太陽の景色の左右しか見られなかった。それでも楽しんで 3、4日経った頃だった。踊り場から階段を下りて戻ろうとした時、カラスが私の背中から攻撃して羽をぶつけてきた。数日その階段に行ったが、やはり同じで、カラスの攻撃は激しくなるばかりだった。もちろん私は何もしていないし、巣もないし、ただ夕日を見ていただけだった。crow.jpg  私の部屋は車庫の2階だが、玄関は階段を下りて1階にあり、そこから2メートル離れると、私の姿がカラスに映る、見られてしまう。ほんの小さな庭を苦労して作って、ゴーヤを植えたりという仕事をしていてもカラスは私の目の前や上、近い距離では1メートルまで来て襲ってくる。風が吹くと車庫の周りの木がトタンの屋根に当たってとてもうるさいので、屋根に上って、木の選定をしていた。突然カラスが2羽、私の目の前にはだかり今にも襲い掛かってきそうだったので急いで仕事を終えて家に逃げた。ここに来た当時は、シャワーはない、もちろん今でも風呂はない、ガスも出ない、電気も使えない、蛍光灯も数本しかなく、食器や箸も机も棚も、皿もない状況だった。時計などの備品もなく、カーテンレールもカーテンもない。ベッドも壊れ、網戸もなく、鍵も、テレビの電波もなく、ラン回線もない。床は大雨になると30センチ幅で、雨漏りの水が床を流れ始める。食事が作れない、まな板もないし、だから1日1回、駅まで15分ほどかけて歩いて、弁当を買いに行っていた。ところがカラスが攻撃を始めてからは、そのカラスが、15分も掛かる道のりをついて、前を向いて歩いていると後ろからずっとスーパーまで追いかけてきて攻撃を仕掛けてくるのだった。私は外に出られなくなり、晴れていても傘を挿して、まわして歩くようになった。
 退治の仕方をネットで調べると、「大きな音を出す」「手を鳴らす」「仲良くする事ですね」要するに、ネットの相談ごとに対する答えには真剣みがなく、答えもネットから取っているので何も役に立たない。同僚や信者に話してもケラケラ笑われ、気が狂いそうになる私の状況を理解しようともせず笑うばかりだ。辛い病気や、友人の死や事件を打ち明けた時に「ああ、私の知り合いもそうだったよ」と全く意に介さない時の屈辱感、もうこの人には絶対に何も言わない。晴れた日に弁当を買いに街を手をたたきながら歩くこともできないし、庭仕事で傘を回しながら土いじりをする事などできない。あんた、自分ならそうできるのか(>_<)ゞ
 決心した。可哀想だがここからいなくなってもらうしかない。ある日、すり鉢に強力な睡眠薬15錠、人間も死んでしまうようなトリカブトを入れ、すって、そこに小麦粉と、カラスの大好きなマヨネーズを入れて団子を6つほど作り、それを光って目立つアルミホイルの上において、さらにサラダオイルを掛けて、カラスに食べてもらうことにした。 ただし問題がある。猫や犬が間違って食べれば確実に死ぬし、もし人間、子供が口に入れても死んでしまうので、そう簡単な場所には置けない。しかし、聖堂入口の踊り場は、最も高い所でまわりにはコンクリートしかなく猫や犬が上がってくるような場所ではないし、日曜日以外には人は来ない。そこで、引っ越しをしてから3週間ほどたったある朝、まだ千葉寺からカラスが活動の場であるヒマラヤスギのてっぺんに来る前の時間、朝4:30にその光る皿を、見える場所に置いた。
 お昼ごろに行ってみると、なんとその皿自体がなくなっていた。カラスはやっぱり高い木の上で私を狙い何かを要求しているようだ。全部カラスが運んだとは思えなかった。どうもその日は教会の「掃除をする日」で婦人たちが来ていたようで、汚い物が聖堂玄関の前にあるので片づけたらしい。数週間後に聞いたら、婦人が捨ててもいいですかと言って来たので捨ててくださいと命じたそうだ。掃除の日の事までは考えていなかった。もったいない、なかなか手に入らないトリカブトの葉や根(ブスという、これを食べて死んだ人の顔が共通して変顔なので、その顔をブスと呼ぶ)だ。しかし諦めたら生活していけないので、また同じものを作りこんどは「これは捨てないで、この場所に置いておいてください」と看板を作っておいた。おなじく4:30。
 その日の午後から、カラスは姿を見せなくなった。もしかして今日だけ来ないのかもしれないと思い、私は安心できなかった。1週間だけ待とう。1週間してもカラスは来なかった。相変わらず、カラスの森の千葉寺にはたくさんカラスがいるが、教会には来なくなった。1週間たった頃から、やっと私の中の「可哀想に」という感情が湧き上がった。
 [鳥獣保護法により許可なく卵やヒナを捕獲し処分することは禁止されています。やむを得ず、卵やヒナを処分する場合には事前に許可が必要となります。「鳴き声がうるさい」、「迷惑だから」といった理由でむやみに捕まえることはできません。]しかし、私は捕まえてもいないし、雛を捕まえてもいないし卵を取ってもいない。

公津の杜(こうづのもり)
 日本で初めて羊の放牧がなされたのは、成田市にある御料牧場であった。他に豚、鳥、牛、そして数百年に亘って、馬が野生に住み(野馬やば)、江戸時代から、馬の牧場や訓練所などが存在した。明治政府は陸軍の軍馬局もここに設置した。成田には、小羊たちがたくさんいたのだ。だから今の成田は、海の魚はほとんど、スーパーの魚の品数も数種類しかない。今でも肉の料理店や、専門店が多くなっている。あるのは水生生物としては、ザリガニ、なまづ、ウナギやドジョウ、カエル、口細(くちぼそ)やタナゴなどの雑魚、エビと水鳥、そんなもののお店はたくさんある。
 北海道生まれの私は、子供の頃から食していた、年を経た羊肉[マトン]を食べたいと思うが、こちらでは小羊の「ラム」が全てで、マトンなど売っていない。日本全国もそうだが、羊の肉の発祥の地である成田でさえ、「小羊」というのは、ある意味当たり前なのだが、「羊の肉」を意味している。そして最近、みんな年寄りも若者も「マトンの短いブーツ」を履いているぐらいである。
しかし、キリスト者の「小羊」の概念は全くそこを飛び越えている。「小羊」とは、神の小羊である十字架に付けられたイエスを意味し、ヨハネによると「神の御子、神からの祝福を得た救い主」である。こうして「小羊」の概念は、イエスによって高く高く高められている。「小羊」を見ても、その概念は数百歩も進み、ロザリオ、十字架に道行き、神の小羊の生涯などに表現されるように、おびただしく豊かさを増している。
 公津の杜は成田市にある。成田山新勝寺(ご本尊は、「不動明王」という、人間を調伏する仏)の辺りは、小高い丘で、5つの参道の店も多く、そこを再開発するのはまず不可能である。路地と寺院と歴史と地形の凹凸が邪魔する。そこで少し東京寄りに離れた隣接する「神津村」地域が、成田の玄関として開発された。もちろん成田空港ができて人々を迎え、関連する人の居住空間としてであった。成田ニュータウンも3万人分用意されたが、そこには鉄道がなく、結果、京成電鉄の通る「公津」が選ばれたのである。
 「公津」は、12世紀末の古地図でさえ、現在の霞ヶ浦、南北の印旛沼などが、「香取の海」としての海であり、漁港で、シジミが取れ、魚が取れ、貝塚が多数残っている。平将門の1000年を満たない時代には、さらに内陸に海が広がっており、利根川はまだ、手賀沼の辺りまでしか川の出口は進んでいなかった。その後1000年以上かけて隆起し、冷温の地球のお蔭で、利根川が出来上がり、同時に内陸に残された印旛、手賀、霞ケ浦が、沼となった。東北に蝦夷征伐(当時の蝦夷はまだ東北)に行った田村麻呂の航路が船による移動であることがよく理解できる。
 こうして、「公津」の「津(つ)」が、何故こう呼ばれるのかが分かる。公津というこの地域は海、海岸線であり、シジミが内陸に残され、淡水のシジミが取れる地域で有名でもある。「津」とは、何か物やある場合人が集まる所を意味している。人が集まる路地を「つ路(辻)」と呼ぶ。波が満ち集まる所を「つ」と呼び、そこを尊い意味を込めて「御づ(水)」(ただし海水である。)打ち寄せる波が、どこか遠くの幸せや、何かのメッセージを運んでくる神聖な場として考えたのだろう。海の幸がどれほど豊かで、どんなに寒い地域でも、海の水は非常に多くの食物を提供してくれて、海辺の人々は決して飢える事がなかった。
katrinoumi.gif  やがて、その水の有難さは、飲み水にも当てはめられた、人は、水によって沐浴、滝に当たる、冷水を掛ける、などの行為によって、自分の穢れを洗い落とそうとした。さらに、春になると、草花の芽吹きと同期させ、自分達人間も、水によって息を吹き返し、復活し生き返るのだという思いから、人々は、春になると水辺に、海辺に赴いて、尊い水に触れ、近づいて、食事をし水を浴びた。これは、子供達の遠足や、大人たちの春の海辺での行為の源である。こうして、水はH2Oという渇いた存在から、人間と結びつき、穢れを洗い、季節とも合体して、素晴らしい概念となり、人は水を見るたびに、有難さ、亡くなった人にはだからこそずっと生かしてくれた水を「末期の水」として与えたいと望んだのだった。
 洗礼を受けた私達は何と幸せで、さらに恵み多い人生を送らせてもらっている事だろうか。水は末期の水に留まってはいない。ヨハネは水で洗礼を授けていたし、私達も同じくみんな水で洗礼を受けた。日本の文化にも、ヨハネ以前のイスラエルの文化にも、「浄めの沐浴」という自分で川に沈み水を掛ける儀式はあったが、誰か他人に水を掛けて貰って、心と体を清くしてほしいと願う行為はなかった。私達がお風呂に入る時にも、自分が自分を洗うか、子供の場合洗えないので援助してもらうだけである。他人に掛けてもらう事はない。沐浴と洗礼とは根本的に違っている。洗礼は、自分がそれまでに所属していた世界に留まらず、新しい世界、イエスの示した生き方に向かって、歩もうとする意欲、決心の時である。水は私達を新しいイエスの世界へと導く決心のしるしという意味を持つに至った。
 典礼にも、さらに拡大された。ブドウ酒に、1滴の水が加えられる時、「イエスであるこのブドウ酒とほんの少しの私達である水が混ざり合う事によって、決して、イエスから分離されることがありませんように」と祈る。エントロピーの増大である。さらに聖書では、イエスは、自分を「私は生ける水である」として、私達の生命の根源になってくれることを宣言してくれた。
 水は水、海の水、飲み水、末期の水、田の水、生命の水、洗礼の水、私達を示す水、イエスと父なる神様のお蔭で、水の概念は豊かになり、水を前にするたびに、私達の思いと心、水に向けての愛おしさが豊かになる。みんなイエスと神様が豊かにしてくれたおかげなのだ。水に限ったことではない。ありとあらゆるシンボルが、イエスによって豊かになり、虹はノアを思い出させ、鳩は鳥ではなく、イエスの洗礼と聖霊を生み出すものへと昇華した。実は豊かになったのは鳩や水ではない、その前に立つ私達がこよなく豊かな世界の中で生きる事へと招かれているのだ。

習志野原
suwaenkei.JPG  今から1200年ほど前、京の都では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任ぜられていた(797年)。戦功を上げ、認められ、4年後(801年)には4万の兵を従えて、岩手や宮城の東征に出た。蝦夷征伐である。大勝利を治め、帰路は下って利根川、印旛沼から、印旛沼水道である花見川を通って軍船で東京湾に出たのだが、その少し手前、花見川が曲がりくねった所に、あたりを遠望できる小高い丘があり、そこに立ち寄っている。その丘からは遠く幕張のビル、八千代の街、千葉や習志野や船橋が見える。花見川を下っていた田村麻呂には、くっきりとこの丘が目に映ったに違いない。後にそこは「諏訪辺(すわべ)」と呼ばれ、現在の花見川区長作町779番地である。教会(花見川区長作町1385番地)から京葉道路の武石のインターに出るための裏道沿いにある。長作小学校の脇を抜け、さらに川に向かって南下した曲がり角が参道の入り口だ。自転車でも10分も掛からない、同じ長作町内である。田村麻呂はその台地に長野の「諏訪神社」を遷置した。その神社は、このあたりを平らかに治めるための社(お堂、聖堂)であった。
suwajinjaHP.JPG  翌年(802年)、また田村麻呂は長作町に立ち寄った。岩手県の胆沢(いざわ:現在は奥州市で、私は小学生の頃、電車の中で知り合った友人と初めて文通をしたのだが、その人の住んでいたのが胆沢郡前沢町で頻繁に訪れていた。まぁ、関係ないか?)、そこに陸奥(むつ)の国を治めるための城を造営するためであった。もうひとつの目的は、その年の初めに富士山が大噴火し、多くの浪人や農民達(罹災者)が路頭に迷ったのだが、富士山の周辺の民衆を東北地方に開拓者として連れて行くためでもあった。その数4000人、過酷を極めた。帰路、東海道は当時、箱根の北の足柄峠を越えていた。東名高速の足柄インターのある辺りである。しかし、富士山の噴火で、その道が塞がれ、急遽、南の筥荷(はこに)の険しい峠の道を開拓せざるを得なくなった。そこで、水運の発達した花見川を通り、再び長作町に立ち寄って、東京湾から、三浦半島、小田原から筥荷(はこに:後の箱根街道)、そして京へ戻った。それから1000年経って、1800年代の初め、江戸幕府に「関東取締り出役」に任命された長作村の名主「要 武左衛門」は江戸の終わる少し前に、この神社の社殿を造成している。
 明治時代には、天皇が長作町や高津、大和田、習志野原を行幸している。ここには陸軍省の軍馬局をはじめ、騎兵連隊、陸軍病院などが設置されていて、その放牧場や訓練などの天覧のためであった。1914年大正3年に第1次世界大戦が始まり、日本はドイツに宣戦布告し、おもに中国での戦いとなった。捕虜達は日本全国に分散されたが、その一部が東京を経て習志野にやって来た。その収容所は現在の教会の真ん前である。第2次大戦とは全く違い、非常に厚遇された捕虜達は、ここでパンを焼き、ビールを作り、ソーセージをたぶん日本で初めて作り、運動会、クリスマス、コンサートを楽しんだ。稲毛海岸での海水浴、家族との面会、サッカーの試合、現在と同じくスペイン風邪という新型インフルエンザの流行で、数十人が亡くなり、その葬儀の記録も残っている。最盛時には1000人のドイツ人が、その貴重な生涯の一時期を送った。
zumenHP.jpg  教会の門の前の土手は、その当時も捕虜たちの散歩道で、いわば「望郷の丘」ともなったのだろう。柵の中はサッカー場、教会前の交差点の右にパン焼き場があり、黄色い酒屋の建物の前の交差点には、屠畜(屠殺)場があった。教会から駅に向かってガードレールを右に曲がると床屋があるが、そこが正門であった。2001年11月25日、18名の習志野教会の信徒を含む「ドイツ兵を偲ぶ会」が、献堂から1年経った習志野教会の聖堂で、追悼のミサを捧げている。
 西暦2000年、今から10年前、船橋市東船橋7-22-8から、2000人規模の軍団が長作町にやって来た。広い土地と大きな空間を求めてやってきた。昔の「船橋教会」がもうどうしようもないほど、狭隘になったからだった。数千年の歴史と豊かな物語のある地に、教会を建てたいと考えての事だった。
 坂上田村麻呂が諏訪神社を造営する時に地方の豪族や農民を雇い、陸軍の西郷寅太郎(西郷隆盛の嗣子)が捕虜収容所を設立する時の実際の建築作業は、人足を雇ったように、船橋の人達も鴻池に依頼はしたが、基本的な計画や設計は自分達で行ったはずだ。
献堂から10年経った。初め、建築会社にとって聖堂は「礼拝ホール」であり、祭壇は「祭壇ステージ」であり、納骨堂は「遺骨倉庫」だった。しかしその時の人々にとって聖堂は「賛美と感謝の礼拝の時空間」である事は明白だった。
教会の建築は、建物の完成で終わりを意味しない。長作町(諏訪辺)の地が、その時代時代の人々によって意味づけられて、多くの人の目的と意味と信仰の表現の場として変遷してきたように、習志野教会も、変遷する。子供達が生まれ、嬉しかった。多くの人がこの地に転入し、よろしく。親しい人々が天の父の家に呼び戻された、悲しく辛いけど。人々の構成も新しくなった。だから人々の思いも新しくなっているはずだ。この10年、父なる神は私達にどのように語り掛け、私達はどのように応えて来たのだろうか。

五井のタンポポ

irasutotampopo.gifまだ私が10代の頃、大金持ちの納屋に居候をしていた事がある。電気配線をし、水を引き、電話はなかったがやっと住めるようになった。学生で居候、お金はなく、近くの広い川原(1級河川)で食べられるものは何でも採ってきて食べるという生活だった。ご主人の家は大金持ちで、広い敷地、門から玄関までの長い道、大きなお蔵があって、召使もいる。子供の進学も有名校、結婚は同業の大会社に娘が嫁ぐといった、私の世界とは掛け離れた暮らしぶりだった。しかし、意外とけちである。
夕暮れに帰宅すると、母屋にはこうこうとシャンデリアの電気がついているのが見え、私は裏門からこっそりと入る。平屋で玄関の音は「ガラガラ」そして100Wの電球。奥様がやって来た。珍しい事に、お歳暮に貰ったという長さ20センチほどの大きなハムを1本くれたのだ。肉など買うこともなく、長い間食べた事がないので、非常に嬉しかった。夕食はもちろん自分で作る。はたと思いついて「今日はビフテキにしよう」と考えた。ハムは豚肉だが、いつものように切ると丸いハムのうすっぺらいのになって、ビフテキにならないので、縦に大きく切ってサーロイン・ステーキのようにしようと決めた。しかしせっかくの偽装ビフテキに付け合わせがない。
大邸宅は壁に囲まれていて、そのヘリを通って裏門から出入りしているのだが、その壁沿いにたくさんのタンポポが大きく成長しているのを思い出し、早速刈り取ってきた。軽く茹で、ビフテキの汁で炒めて醤油と塩と胡椒。そして箸ではなく、平皿に載せてフォークとナイフで食べた。ああおいしいビフテキがやっと食べられた。
tanpopo.jpg 五井に来た。裏の駐車場の脇にこの教会では一番大きい20センチほどのタンポポがあった。30年以上タンポポのお世話になっている。冬もロゼットの形で残るので、それもいただく。今はほとんど西洋タンポポでみっともない姿だが、お世話になって来たので文句は言えない。20センチでも意外と根はしっかりとしている。もったいないから30センチまで大きくなったら食べようと思って、少し待っていた。
 ところが、1泊の出張から帰って庭を見ると、タンポポが跡形もなく、なくなっている。居残っていた人に聞いたところ、庭の係りの人が「雑草」だというので抜いて捨てて、「ああきれいになった」と気持ちよさそうにしていたという。せっかく大きくなるのを待っていたのに、とても残念だった。私は「食べたかったのに!」とその人に悪態をついた。
 そしたら、腹いせか、数日後、大きなごみのビニール袋に、20株ほどのタンポポを、泥付きでびっしり詰めて持ってきた。「別にこんなに食べたいんじゃないんだけど・・・」と思ったが、まあ久しぶりでみんなにもと思い受け取った。タンポポを抜いた人は、毎週の聖書の勉強会の後の食事に美味しいコーヒーを入れてくれるので有難く、おまけにあまった生クリームを残しておいてくれる。私はこれなら、タンポポのクリーム煮ができると考えた。
rozetto.jpgタンポポの洗い方。洗い桶の一方の下に何か、ずれない長い薄い物を置いて(右利きの人の場合)少し高くする。そして、桶の端辺りに水が流れ来るように桶を傾けた状態にする。そうすると、桶の中が左から右に流れる、川の流れのようになるので、根元を左にして左で手持ち、右手で葉を一枚ずつ手早く、手前に取っていくとごみが流れる。きれいな川があると、いっぺんにきれいになるのだが、都会には小川がないので仕方ない。その後、左手で根元を持ったまままな板の上で、根元を少し切る。それから手に持ったまま、根元を水につけて根元のごみを取る。こうするとすぐきれいになる。全部できたら、5、6時間水につけておけば、こびりついた、犬の尿やその他、排気ガスの粉などが取れる。料理する時にもう一度、ざぶざぶと洗う。
tanpopotoritate.jpgある人はタンポポの卵とじで食べたそうだ。オヒタシでもいいがあんまり茹でると、あのほろ苦いタンポポの味がなくなるので、サラダでも食べるのだから、あまり長く茹でない。私は、少しのハムかベーコンか豚肉か何か、鯨の肉でも何でも、カリカリの寸前まで炒め(あればニンニクも)、洗ったタンポポの葉を食べやすい大きさに切って、水を切らずに(すっかり切ったら、フライパンにまたお湯を足す)入れ、炒め、塩コショウ、少しだし、醤油を入れてほんとに軽く炒める。クリーム煮の場合は、ここで生クリームを入れる。牛乳でも何でもいい。
昼食会の時たっぷり出したら、ある人は「大根?」「ほうれん草?」「小松菜?」といろいろ言っていたが、タンポポだと言ったら驚いていた。でもみんなで美味しく食べた。食事が終わっても、大量だったので、まだ残っていた。その時、また人が入って来た。「美味しいクリーム煮ですよ、食べませんか」と薦めたら、「私はコレステロールが高いと言われたので、あんまりこういうの食べたらいけないんです」と言いながら少し口に運んだ。「あら、美味しいわね」と言ってボールごと抱えて、今度は大口で食べ始めてしまった。この教会の重鎮がそれを見ていて、「あの、うちの奥さんに、どんなもの食べたか持って行かないと、あとで叱られるので、ほんの少しでもいいから、残しておいてよ」となくなっていくボールの中のタンポポ料理を見つめている。
この教会では、これからもタンポポ論争と、争いが続きそうである。

清瀬の庭

 蚊に刺されながら小さな散策をした。まだ自分の部屋の2階からやっと1階に降りようという整理状況だから、教会の外回りなんて身の程を知れ、というところではあるが、何か気持ちが落着かない。待てばやがて大切なあの人が帰ってきて、会えるに決まっているというのに、心が定まらず、他の用事も手につかず、そんな気分が自分を、夕刻の蚊の餌食にさせた。
 前任地でのはじめの日、玄関を出てすぐの、道路の猫の額ほどの植え込みを眺めていたら、ムカシヨモギがあったので、家主に話したら、「神父さん、これヨモギではありませんよ」と言われ、それ以来草花については話さなくなったのを思い出した。
fuki.JPG 誰が植えたのかスズランかチュウリップの咲き終わったのか、どちらにしても日当たりが良くないので無理だ。先ずはじめに、ハルジオンの枯れた姿が目に飛び込んできた。強靭な茎の構造が、枯れてもしおらせたりはせず、麦のストローや前年のかれた茎の中から芽を出すススキほどの強度はないものの、けっこう踏まれるまで立ち続けている。ありそうでなかったカキドウシ、きっと塀のせいで日当たりが悪いから繁殖しないのであろう。それでもドクダミ、カタバミやユキノシタはやっぱり元気だった。たぶん普通のカタバミもあるが、葉の大きいムラサキカタバミも混じっている。私は、黄カタバミが好きだ。聖堂の香華屋の裏手に蕗とノゲシ、左には立派なイタドリか何か、ヨウシュヤマゴボウではないと思うが、もう少ししたら食べられるかどうかが分る。タンポポ、ハキダメギク、ヨメナの幼植物、コゴミがあったらなあ、スギナがまだ香部屋入口あたりで頑張っている。 1年の四季それぞれの姿が今から楽しみで、いろんな事を教えてくれる、慰めてもくれるし、世話をすることもある。切らなければならないこともあり、薬としていただき、私を癒してくれることもある。それはきっと、清瀬教会の人々と私との間でも同じなのだろう。
yabugarashi.JPG  この教会の庭の今、一番えばっているのが、ヤブガラシである。庭全面に生えていて、茶の濃いものや大きいもの、まだ小さな緑色のもあって、敏感に生きている。こんな小さな敷地でさえ、同じ環境なんてないから当たり前だが、私の大好物だ。茶は灰汁の色で、ほうれん草のようにどんなに茹でてもクタクタになって溶けたりはしない。やわらかいところだけ食べたい人は葉、茎や新芽はかなりやわらかい。相当太い茎でもブロッコリーよりは柔らかだ。15分ほど腰をかがめて、そいで集めたのを、煮えたぎったお湯に入れると、あの真っ茶色が、サーっと真緑に変わるのは感動的である。何度か湯でこぼして、きざんで、醤油でも、マヨネーズでもなんでも良い。ねばねばして、多少の辛味が残る程度に茹で上げる。味は「モロヘイヤ」とほとんど変わらない。今までずいぶんと食べた。
katabami.JPG  私はあんまりスピードのある人間でもないし、力もないので、ゆっくりだが、蕗もいつか門のほうに植え替えてあげたい。あれがイタドリなら、生でかじると少々塩気がして美味しい。草達や鳥達、虫達や木々、そして、清瀬教会のみんな違う一人ひとりの方、よろしくお願いします。

永代の家

お蔵の生活
ここは、すぐ後ろが運河、回りは工場地帯で、「永代働く人の家」の1つの部屋を月3万円で間借りした所です。水は出ますが、また6畳で、共同のトイレとお風呂という環境ですが、あきる野のように、トイレやお風呂が外ではないので、今までよりは少しは楽です。(写真右のお蔵の2階が私の部屋です。下の写真はお蔵の裏の光景です。)
ワゴンで下見に来た時、駐車場がワゴン車と同じ大きさだったので、少し悩んだけど、駐車場を借りるとそのお金だけで、新車がまた買えちゃう。(月3万、年36万、3年間で108万、礼金入れるとね)そこで、即座に、新しく買ったワゴン車を諦め、それを売って、その範囲で買える小さいのを買った。一方、訪ねてくる人も、小さいのなら玄関にどかっと縦に入れられるので、来る時は大きい車で来ないように。道路のほとんどが路上駐車であふれていて、私が車庫入れする時にも、車と車の間を縫って歩道を横切り、道路に面しているはずの自分の駐車場に入れる。だから余計車が入れずらい。
仕事からお蔵に帰ってきて、自分の事務処理して、買い物して、手紙やメールを処理して、風呂沸かして、それから料理というのは、結構時間的には大変ですね。でも規則正しい、繰り返しの静かな生活なので、教会にいた時とはまるで異なり、電話もファックスも、メールもそんなに多くはない、そして、知らないうちに時が過ぎていく。私はそんな中で、自分のやりたいことをする。こんな生活初めてである。ミサも自分の部屋で1人でやる。
ここは、青年達の活動の場なので、その予定が入っていなければ、この家主に予約(私を通して)すれば10人ぐらいは泊まれます。1泊¥1000円です。地下鉄東西線、門前仲町駅から歩いて10分。東京駅丸の内北口から、錦糸町駅行きに乗り、佐賀1丁目で下車徒歩3分です。
新しい仕事は中央協議会の出版部長とその他の仕事です。朝9時から夕方5時までのタイムカードによるサラリーマンで、土日が休みですが、私の独自の仕事が入ります。自転車で30分もあればと思っていったら、職場までには結構信号や橋があって、30分も掛かって、急いだら狭心症になりそうだった。仕事場では、コーヒーのカップもコーヒーも自分で用意するらしく、その日、すぐコーヒーとミルクは買ってきた。お昼を食べなかったら、みんな不思議な顔していた。
eitai.gif 人間関係に関しての頭はあんまり使わない仕事なので(相手の方がどうかは知らない)、仕事がたくさんあるだけで、頭の中はいつもすっきりしている。ちょっと困った事には、職場のインサーネットが出来ていないものだから、階段の上り下りが結構あって、途中で休みながら上り下りする。通勤時にも運河がたくさんあるので、当然橋がたくさん。橋はみんな上りと下りで、これも結構な運動量になる。私にとって運動は良くないので、降りて静かに自転車を押して渡る。とにかく、静かな生活。



   
私のプレハブ

1998年7月27日長かったサバティカルを終え、別荘内部を元の配置に戻し、午前中に函南を出た。あきる野の太陽が西の山の背に隠れる時を見計らって引越しをした。誰がいるわけでもない。夜までに車から運んで寝る場所を確保して・・・。きっと大変だとは思っていた。車がちょうど着いた時、私の方は函南での引越しでくたくただったが、幸いにも信者さんの家族が坂道を降りてきた。この日は息子の命日で、好きだった花火を墓前でして降りてきたとの事だった。声を掛けたわけではないのに、家族皆が2階の6畳に運んでくれた。いつも一人で引越しをしていたので、その上疲れていたし、とても助かった。かれらが帰ってから体力はなかったのだが、冷蔵庫だけは今日のうちにプレハブに運んでおきたい、なにしろ今の日本は冷蔵庫がないと生活できないようになっている。彼らが帰って5分もたたないうちに、こんどは別の信者さんがやってきた。彼と一緒に冷蔵庫を運びその日は一段落した。6畳一間に身を横たえるだけのスペースでごろ寝をしたが、ここ数日汗をかきっぱなしで風呂に入れないものだから、できたことのない「あせも」がひどくできていた。寝ていても気持ちが悪い夜だった。
28日の朝、廃屋の中、荷物の中でものすごくイライラしていた。何かに腹が立ったのではない。何をしていいか分からなかった。つまり自分の生活のパターンが分からなかったのだ。あきる野から函南に行く時はそんな事はなかった。函南の家の事は以前から良く知っているし、荷物を運んだらすぐに配置ができ配線も、ドアの鍵の取り付けも比較的簡単だった。あきる野に戻って自分の部屋を開けた途端に、ものすごいハクビシンなどの動物の尿と糞の臭い、廊下は蜘蛛の巣だらけ、トイレや風呂場には虫と虫の死骸が並んであった。とりあえず整理したが、ここには住む気がしなかった。それにもう少しで、東京都の認可が下りてしまえばここは壊されてしまう。そんな気持ちが衛生や配置をそのままにしたのだろう。
あんまり大変なので日曜日にみんなに手伝ってもらって荷物を廃屋から運んでもらったらと言う人もいたが、廃屋のものを6畳に入れたらプレハブ内での作業が全くできないので、3つか5つぐらいを100回以上往復して運んでゆっくりと部屋を形作らなければならない。結局、このプレハブの6畳は水場がないので水が飲めない、食べ物を作りたいが、ガスもごみ箱もまな板も包丁も何もない。風呂はないし、荷物のせいで布団を敷く場所がない。

午後になってやっと気がついた。私は函南から以前住んでいたこの廃屋に戻ってきたのではなく、このプレハブに来たのだ、生活の方法と生き方についての考え方を変えなければならない、という事なのだ。
そうだ、以前のように生活してはいけないのだ。そう思ってしまったら、何を運んで何を捨てて、どんなに高価な本や衣服でも捨てなければならない。私は今までのように生きては行けないのだと得心できた。私は衣服や台所用品、その他不便さは比較的気にならない人間である。ただし、どんな貧しい生活でも生活の基礎的な動作がシスティマティックになってさえいれば良いのだ。この部屋には布団は入らないので布団は捨てた。水を飲むためには常にドアの外に出る時ペットボトルを携行して水を確保する。食べ物は、ガスレンジもまな板もないので、食べて洗い物や残飯が出ないようなものに限定する。漬物を作る機具なんて物は要らない、もう漬物や梅を漬けたり、塩辛を作る事はしない。
そんな私を見ていて、ある人が一緒に廃屋の台所でお料理を作ってくれたが、ちょうどいい入れ物がなかったので、私は200m離れたプレハブにタッパを取りに行った。往復400mである。部屋の中で切ったトマトを食べるのに塩を入れようとしてもまた塩2振りのために400mを歩かなければならず、そんな事はやっていられない。「じゃあ神父様、お豆腐ならそのまま食べられるでしょう」と豆腐とトマトを持ってきてくれた善人がいたが、豆腐の水を捨てる場所がないので豆腐は開けられない。トマトは丸かじりすると手が汚れる。手を洗う場所がないので食べられない 本当に、この6畳には何もなく、毎日の基本的な事ができないので生活するだけで大変である。
トイレや朝の洗面は、鍵を掛け、歩いて近くの集会所に行って行う。夜のトイレも雨が降っていれば傘を差して出かける。空間がないので、釣竿やその他のセットもバッグごとあげた。もう釣りはしない事にした。そしてホームページには自分の書いた文章が載っているので、小冊子に纏めた自分の書いた10種類以上の同内容の本も捨てようと思う。この暑かった4日間の間に50万ほどの本を捨てたが、惜しいとは思わなかった。ジャージや背広、夏用のスータンなど、ものすごい量を捨てたが、最も欲しかったのはスムースな生活パターンで、その中で自分が自由になり、物を相手ではなく価値を相手に生活したかった。ペットボトルを持ち歩く生活でも構わないがそれが生活に溶け込んでいれば何の問題もない。こうして、私の午前中のイライラは消滅した。
この引越しでたくさんの事を学んだ。ある物は以前感じていたことだが、久しぶりで忘れかけていた事だった。私は、私が眠られるのは、布団のせいじゃない、布団があるから眠れるのではなく、空間と時間と私の存在を許してくれている神様のおかげで寝ることができるのだ。水は数歩歩いてすぐ簡単に手に入るのではなく、「水を求めて歩きさまよう鹿のように」ではないが、求めなければ手に入らない。日曜日まで4日しかなく、ミサの前に取り残しておくような、気ぜわしいようなミサはしたくないので、どうしても廃屋の私の部屋は空にしておきたかった。

その日の夜、何度か私の様子を見に来て手伝ってくれた信者さんが、私を家に招待してくれて、4日ぶりに風呂に入り、漬物を食べる事ができた。ビールを飲むというのでわざわざ車で来てくれた。2時間ほどお邪魔して、また廃屋の前で降ろしてもらった。戸締まりをして戸外に出て、またあの坂を登り始めると、私の前に小さな光るものが飛んでいる。蛍だった。蛍は私の前を先導してくれた、そして右手のセリのたくさん取れる場所を見ると、源氏や平家の蛍が飛び交っていた。この小さな光が私を先導しているということに、感動もしたが、またショックであった。自分の周りの釣り道具やスケート、スキー用具、どれもこれも丹念に丁寧に扱って大事なものだったが、私は恥かしくなった。
自分の用意した道具や持ち物と神様が私のために用意してくれた私の周囲の持ち物との差が見えていた。自分の物を持つことの浅はかさをこの引越しの間に教えられたように思う。このあきる野には神からのプレゼントで満ち溢れているのに、私は自分の周りに自分の影響の及ぶ物品を並べ所有しようとしてきた。自分の持ち物を神様からの持ち物に変えねばならない。
聖堂の前の石垣には小さくきれいな「駒つなぎ」がある。木だが草のようで、茎は硬くこれを用いて馬を繋ぎ止める縄を編んだとも言われているし、池には「朝座」という僧侶が朝の講座を聞く時間に咲く花といわれるものがあって端正である。昨日はカブトムシやミヤマクワガタガ取れたし、29日の朝には青鳩の美しい鳴き声がツツ鳥の声をバックに響いていた。
福音で「擦り切れない富」とか「盗人がねらわない」「虫が食い荒らさない」というキリストの言葉はこんな事を言っているのかと感じ入った。そして、そんな神が用意してくれた自然の営みの中にいつかキリストが現れてくれるに違いないと期待している。

やがて、レンジを12畳の信徒室に設置するのが終わり、風呂も崖の間の犬走りに作ってもらった。電気の配線のおかげで、使えなかったエアコンも配線を変えてもらい、寒くて寝られないので、布団が使えない分電気毛布を使用できる配線にアンペアを上げた。しかしそれでも寒くて夜のナイトキャップに枕元で飲むグラスの中の氷は、朝になってもそのまま氷でいる。私の寝ているパッチワークの布の上には、プレハブの隙間から枯れ葉が舞ってきて、それがショックであった。湯舟に浸かっている時は暖めるが、体を洗う時には寒くて仕方がない。お湯だけを溜めておいてもそれでやっと暖める温度になるから、水で薄める必要がない。この風呂にも枯れ葉が舞い下りてくる。部屋に戻る時は夜着を抱え、着替えをしないで、素っ裸で走って、部屋に戻る。朝は水道が凍っていて、水が出ないので暫く待つ事にしている。9時半を過ぎていればだいたい水が出始める。あまり寒い時には睡眠薬を飲んで、朝まで強制的に寝る。ああ何という生活なのだ。それでも自然だけは豊かで、まだ動いている虫や鳥、光と陰がこんなプレハブをも豊かにしていてくれる。

私の家

....この家に住み始めた初めの日、電話の取り付けや、上と下で10センチも狂って開かない扉やドアの修理につかれて、まずお風呂に入った。永年人の住んでいなかったこの家は、至る所の蜘蛛の死体、蛾の死骸、お風呂にもゴキブリやさまざまな昆虫が満ち溢れていた。ガスを設置してのその第1回目の風呂は天井から床、風呂の船と湯殿の全てを洗う入浴であった。お湯を溜めて入った風呂にはたくさんの昆虫や蜘蛛、蛾が浮いていてその中で風呂桶を洗った。長いこの虫達の生涯を感じながらの気持ち悪い風呂だった。シャワーがないので最後の上がり湯は冷たい水だった。4月の初めだったので、身に応える。
....この家で生活して初めに気がついたのは夕方の6時から7時の間に、決まって天井ですごい音がする。何かが走り回っていて、動物のようであったが、その正体は分からなかった。時にはすさまじい運動会を何匹もいるのだろう、ねずみではない、開始する。そして、ある時から、天井板から「ジャーー」と音がして、部屋のどこでも構わず、液体を流してくる。それが布団に、冷蔵庫の上に、畳の床に。もう堪忍ならぬ、私は天袋から進入してその正体を確かめた。初めは「ムササビ」だろうと思っていたが、それは何匹かの「ハクビシン」の家族であった。「こいつら、人の家にしょうべんなどしやがって」と怒り狂ったが、考えてみれば、私のほうが後から来た進入者で、彼らは先住民であった。あきらめてこまめにぞうきんで小便をぬぐう日が今でも続いている。
....ゴキブリやかまど馬、ムカデ、蜘蛛は毎日の事で、夜きれいに洗っておいたフライパンは朝には真っ白に蜘蛛の巣がはっている。外から帰ってくる時も、晴天でも傘を必ずさして、玄関を開け、部屋にも傘を開いてまわしながら前に進んで入る。そうでもしないと、顔や体は蜘蛛の巣だらけになるからだ。「こんなとこに住んでる私も、彼らの一員なのか!」
....そんな暮らしに疲れ切って、ようやくせんべい布団に寝ようと布団をかぶったその時、「ぎゃー」激痛が私を襲う。ムカデが布団の中で私よりも先に寝ているのだ。静かな眠りを邪魔した私のほうが悪かったのかもしれないが、何も噛む必要はないだろうに、おかげで5日間も足がしびれて歩くのもままならなかった。このホームページを作っている時でも、平気でこいつはコンピューターの上を横切って行く。馬鹿にしやがって!!
....そんな事が何度かあって、私は「ゴキブリホイホイ」を部屋の3個所に設置する事を決意した。ああ、これでもう安心だ。しかしそう思ったのもつかの間、ゴキブリホイホイの中には、かまど馬やゴキブリ、ムカデなどが入っているのは良いのだが、その「ゴキブリホイホイの家」が食いちぎられている。私はそれ以前にも何度か、子ねずみが布団の周りを走りまわっているのを、寝ぼけ眼で見ていた事があったが、危害を加えないのであれば、それはそれで良いか、などと多寡を括っていたが、なんと、せっかく設置した「ごきぶりホイホイの家」まで食べられたのではせっかく設置した甲斐がない。ねずみ取りを部屋に置く事にした。
....安心して、出掛けようとしたある日、玄関に鍵を閉めたその時、ギョ、青大将がとぐろを巻いているではないか、シマヘビやヤマカガシはいつもいるので気にはしてなかったが、青大将は太くてゆっくりで、何とも穏やかなのだがこんなところで静養する意味もない、何を考えてるんだと腹が立った。これでは、この家には誰も訪ねてこない。 ....気持ちの良いほど晴れたある日曜日、たぬきがやって来た。一日中家の周りをうろついているので、腹でも減っているのだろうと思ってクッキーをあげると、きつねと違ってひとなつこいのか食べている。その日は夕刻までこの家の周囲を歩きまわり、最後は雨水升から山に帰って行った。かわいかったね。しかし、たぬきやリスはかわいいが、サルが時々私の部屋の窓にやって来るのは許せない。そこには、あおじやシジュウガラ、しろはらやコゲラ等のために給餌台を置いてあって、それは楽しい一時をさえずりとともに過ごさせてくれるのだが、その鳥用の餌を、ホームページを作っている私がすぐそばにいるというのに、そんな事など感知せずにどっかりと腰を下ろして、食っている。追い払いたいが、やっぱり野生のサルには何か菌があるので、恐くて捕まえられない。ああ情けない。
....こんな生活はもういやだ、でも踏み切りとトラックの騒音の世界には戻りたくない。ここには、2年間野菜を買う事もなかったぐらい、山野草にあふれている。ノカンゾウ、ヤブガラシ、ワラビに独活、アザミや白きくらげやナラタケ、冬が近づくと食糧の事が気になるが、春や夏、木の実は秋、塩漬けにしたり冷凍にしたりがんばっている。冬になると「今はみんな苦しい時なのだ」と床下の青大将や、訪れたたぬき、天井を荒らしまくっているハクビシンを思いながら祈りつづける。神様どうか私に「日用の糧を与えたまえ」。