『元号について』  

ここ数年、宮城谷昌光氏の作品を中心に乱読している。
最初の出会いは「晏子」である。分厚い単行本上中下でお正月休みを利用して読んだ。
 今まで中国の歴史に係わる「三国史」「十八史略」等を読んではいたが、それとは違ったニャンスの内容である。
 ある評論家は、司馬遼太郎以降の骨太の作家であると言っている。
 古代中国、夏王朝から春秋・戦国時代の動乱の中を英知と勇気で、また正義とは、覇権と王道の狭間での生きることの難しさをテーマに歴史上の人物をとおして物語っている。
 私たちが、日常のなかで常に意識せざるを得ないものが朧々とながれていることに、ハッとさせられている。
 作者の随筆「歴史の活力」の中から興味深い事柄を抜書きしてみる。
 日本の元号についてつぎのように書かれている。
 日本の元号は、『礼記』『詩経』『書経(尚書)』『易経』『春秋』をまとめて五経のなかから字句がとられることが多い。

 明治と大正の元号は、いずれも典拠は『易経』である。
「聖人南面して天下を聴き、にむかいてむる」
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 『易経』は占いの書であるので、謎めいたことばでみちてい、五経のなかでもっともわかりにくい。ただしおなじ『易経』のなかに、聖人について、「進退存亡を知って、その正しい対処を失わないものは、それこそ聖人であろうか」という意味の文があり、日露戦争などを思い合わせると、やはり明治の人は進退存亡をよく知っていたのかもしれない。

 次に大正の元号については、ふしぎにおもわれることがある。
 「いに亨(とお)るにを以(もつ)てす、天の道なり」
 やはり『易経』にある文である。
 正とは正道を意味する。これはよいのだが、そのあとにつづく文が問題で、「8月に至りて凶あり」とある。これはいかにも時代のさきゆきにに不安を思わせる。
 そのせいか大正の元号の典拠として、もうひとつの「春秋公羊(くよう)伝」がもちだされている。これがまたよくない。ちなみにその文とは「君子いにに居る、宋の禍いは、宣公之を為すなり」というもので、宋という国で後継者を決めるにおいて宣公という国主が選択をあやまったことを批判する文である。
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 大正年間の8月に凶変はあったのだろうか。
 大正3年の8月に日本は第一次世界大戦に参加しているが、これは凶変とはいえまい。
 大正7年の8月勃発した米騒動は凶の事象に属するかもしれない。
 大正12年9月1日に「関東大震災」がある。日本の暦は明治5年に太陽暦にきりかえられたが、旧暦なら8月中に起こったことになる。

 昭和の元号は『書経(尚書)』の中にある「尭典(ぎょうてん)」の
「百姓(ひゃくせい)明なり。万邦を協せしむ」という文からとられた。ただしこの元号はすんなり決まったわけではない。典拠が「尭典」であるところにひっかかりを感じた人がいた。
 どういうことかいうと、尭とは中国の伝説上の聖王である。それはよいが、尭は王位を臣下の舜(しゅん)にゆずったではないか、したがって、今上陛下がそうなっていただいてはこまる、というのである。
 かわりにだされた案は「上治」であった。しかし、結局この上治案はしりぞけられ、昭和が元号として採択されたわけである。
 昭和の時代について感懐はさておき、これだけはいっておきたい。尭はたぐいない聖王であるがゆえに、あごを動かすだけで命令がゆきわたり、手をこまねいているだけで、事が成就したとさえ言われている。が、中国の史書や古典をよく読むと、尭の真の像は臣下の横暴とと外的の駆除にずいぶん苦慮した王である。

さて、平成の元号から何を予見できるだろうか。
「地らぎ天、六府三事、允(まこと)に治まる。(地の洪水がたいらぎ、天の五行も完成して、六府と三事とがほんとうによくととのった)」
 これが『書経(尚書)』の「大禹謨(だいうぼ)」にある文で、さらに、『史記』の「五帝本紀」から舜の業績をほめた部分である「父は義、母は慈、兄は恭、子は孝、内らかに外る」の文が引かれている。内平外成とは、家のなかが平和になり、世の中もよくおさまったという意味である。
 両書ともに、元号がとられた文節の前後に不吉な語句はない。
 ただひとつの懸念があるとすれば、舜も禹(う)も水に苦しめられた王であることだけである。

作者は、『易経』という書物の恐ろしさと素晴らしさであるが、元号選定にあたった人たちが悪いというより、むしろ逆である。かれらは古代中国で占いをつかさどった官人のように天意をきいたことになり、人々に大災害のあることを警告する役目を、無意識であったろうが、担ったのだとさえ思われたくる、と著している。
 21世紀の地球規模の課題としての水を考えると、何かいやな予感を感じてしまう。