死の森


  
まず物語。これは、最後まで愛と信念を貫いたある魔法使いの物語。そして、この世に様々な悪と病を放った、パンドラの箱の物語でもある。
出てくるのは、二匹の悪巧み妖精と、運命の鍵を握る一人の女。

 レーン・ラテに、あの偉大な魔法使いの王様が生まれるより、ずっと昔。クラチア大陸を西と東で区切っている天山山脈のふもとに、グンナ国やマチオ国が建国されるよりももっと前。
神はまだ地上を去ったばかりで、精霊達の力は強く、大陸の西、このラテの地には竜達が飛び交っていた。世界の物理法則は固く守られ、魔法はまだなく、ラテで不幸を振りまく、ゴキブリよりしつこいあの邪悪な妖精達がいない時代である。
 今では妖精の棲む地として名高いレスライーカにも、たくさんの人間が住んでいた。そこは幻のクエナ・ラテの国。今はもう残っていない王家が治めた、伝説の音楽と芸術の都。

1.陰気な奥さん
 劇場には、コピュラスがいた。
コピュラスの美声、完全無欠の微笑み、優雅な腕の動き。彼が首をやや傾げ、悩ましげな台詞、もしくは音程のついた愛の言葉をとなえると、人々はこころからため息をつき、胸に溢れる思慕をどうにかしないといけなかった。
 張りのある赤銅の肌は鍛え上げた調和の取れた筋肉を覆い、魔力的に縁取られた睫毛の奥のひとみは、深すぎる黒をしている。美しい顔をしていたが、躍動と歌こそが、彼を光り輝かせていた。
 コピュラスは不意に現れたスターだった。彼が現れてすぐに、クエナ・ラテ中の観客たちは彼に恋をしたが、劇場に現れるより昔の彼を知るものはたった一人。クエナ・ラテの誰よりも早く、彼を愛した若い妻のガラテアである。
 パーティの度、コピュラスにかまってもらえない人々はガラテアに訊ねた。コピュラスが何処からきたのか、どうして知り合ったのか。人々はコピュラスが愛するただ一人の婦人に対する、深い好奇心と嫉妬心を抱いて、執念深く問い詰める。
 しかしガラテアを喋らせるのは並大抵の事ではなかった。彼女はそこそこに美しかったけれども、冷たく陰気な顔をして、舞台で輝くコピュラスとは太陽と夜のように縁遠い者に思えた。
ガラテアは悪意を持っていたわけではないが、その出自のせいで人前で笑顔を晒すのが不得手であった。ガラテアは、死の森の魔法使いだった。不思議は不思議でも、彼女の目は死者の国を覗く不気味な目だったし、白すぎる肌と赤すぎる口は、死と血とを連想させずにはおかなかった。
コピュラスとガラテアが並ぶと、それこそ生と死の象徴のようで、一対の分かちがたい半神にも見えたものだ。


2.コピュラスの計略
 暗い通り。舞台はもう終わり。興奮冷めやらぬ人々ももう家路についた。サウナでひと汗流したコピュラスは、人気のない通りを風にゆれながら、たった一人出歩いていた。
 危険はなかった。京には地域ごとに関所があり、兵がたち、夜歩く不良や犯罪者を取り締まっている。ここは王宮に近い深い区域だったし、闇は深くとも、安全だった。
 その闇の深いところで、ハマウシュは言った。
「美しい惑わしの妖精よ、調子はどうだ?」
 コピュラスはそこは見ず、明後日のほうを向いて答えた。
「智慧深い、信心深いハマウシュ、あなたの言ったとおりになっている。寂しいガラテアは可哀相に、まだ社交的な人々には馴染めないようだ」
「ふむ、なら心配はいらないな。それでは、あの寂しいガラテアは、お前を愛しているか?」
 コピュラスは、声のする街路灯の下の茂みをみて、人々を魅了するあの笑みを浮かべた。
「さあ。それはガラテアに聞いてくれ。あれは魔女だ、このコピュラスの魔力が効かないともありうる。それでもわかることもある。ガラテアは、好んでは俺としか口をきかない。俺にしか触れない。俺が手を繋がなければ、笑う事もできない女だぞ?」
「ああ、コピュラスよ。この世でたった一人のわが同胞よ。お前は光に属し、私は闇に属する者同士だが、共に来たのがおまえでよかった。これは神の思し召し、わしと、お前と、ガラテアと、この三者が出会わなければ何も成らず、我々は永遠にあの世に押し込まれている所だった。
それではコピュラスよ、これが最後の賭けだ。準備はよいかな?」
 コピュラスは月を見た。細く、低い赤い月は、血を吸い足りぬ妖刀のようだ。
「俺は、ガラテアを信じている」
 コピュラスは懐刀をとり、自分を解き放つように、首を切り開いた。
「さらば、コピュラス。わしらは、きっとまた逢える」
月の光を避けるように、腰の折れ曲がった低い影が、夜の王都をすべった。


3.ハマウシュの策略
 外には人々の声。嘆きと、非難の叫び。コピュラスを求める長い長い悲鳴。
「死の森の魔女よ、コピュラスの愛したご婦人よ、どうかあなたの魔力で、もう一度、もう一度だけ、コピュラスの姿を見せて欲しい…!」
「声を、奇跡を!!あなたなら神の倫理も敗れるでしょう、ガラテア!」
「いいえ、もう帰って。葬式は終わりました。あとは墓堀の仕事です。皆様、どうかお引取りを!」
 葬式とは、コピュラスの葬式だ。中庭に入り込んだ人々を、召使ですら、ガラテアは狂ったように追い出した。家には、ガラテアと、コピュラスのなきがら、そしてもう一人。
 ハマウシュはいった。
「わしはあの世から解放されたいがばかりに、仲間たちからどんなにバカにされようとも“つなぎ目”から離れることができなかった。わしは待っていた…、二つの世界のつなぎ目を開ける鍵の力をもつ者を。それがお前だ」
 老人は明るすぎる庭の隅の木の茂みに隠れていた。芝生に備え付けられた石の台にうなだれたガラテアは、ごく無表情に見える。しかし、心の内ではこの悪魔を世に放ってしまった事に、悔いても悔いきれぬ後悔を、苦く感じている。
「お前は我々を生かすもの、妖精たちの生の象徴。だから、お前の願いなら何でもかなえてやるぞ、ガラテアよ」
「おまえになにができる、ちっぽけな妖精。陽の光の下にも出て来れない、不浄のお前が」
「この世では力ないかもしれないが、死の森とあの世に関する力なら誰にも負けない。たとい妖精王でも、わしの力には一目置く。わしとともに死の森に行こう、ガラテア」
「お前も帰って、妖精の国に。わたしはもう死の森の魔女ではない」
「なにを以って?お前を連れ出したコピュラスはもういない。今何が、お前を死の森の魔女以外の存在にできるというのだ?」
 ガラテアは握っていたぶどう酒のゴブレットを、草の茂みになげつけた。
「ガラテア、わしはお前を怒らせたいのではない。むしろ、喜ばせたいのだ。妖精は悪魔ではない、我々には人の愛を理解できる。ガラテア、外の人の嘆きはわしにも聞こえるぞ。死の森の魔女よ、お前にはできなくても、わしにはできるぞ」
「コピュラスは自分で死んだのよ!」
 自分の言葉が、ガラテアの胸に致命傷となって突き刺さった。門は閉じている、虚勢を張らなければならない観衆はもういない。彼女は崩れ落ち、喉を震わせてむせび泣いた。
「わたしを残して、かれは自分から死の国へいったのよ!あなたに何ができるの、わたしに何ができるの…?」
「信じるのだ、ガラテア。お前の望みを、お前の愛を。望んだままに生きるのだ。それを諭すのが、我々妖精の務めなのだよ」
 魔女は言った。
「愛している、会いたい。助けて、ハマウシュ!わたしを連れて行って!!」
 名前を呼ばれると、闇はつけあがり、大きく広がり、形をもった。ハマウシュは茂みから這い出ると、ちっぽけな老人ではなく、壮年の油断ならない魔法使いのようななりでガラテアに立ちはだかった。
「わしの手を取れ、ガラテア。死の森へ、うつつの霧へ、連れて行ってやろう」


4.うつつの霧
 世界から切り離され、妖精を閉じ込めた妖精の国は、ただ一箇所、この世界とのつなぎ目をもっていた。
妖精の国だけではない。死者の国、神の国、精霊の国、この世界を構成するあらゆる異世界が、世界のへそ、レスライーカの死の森に集っていた。
しかし神々は用心深く、その入り口を霧で閉ざし、番人をおき、塞いでしまったのだった。
その番人は、半神スタルという。スタルは人間の住むこちら側から門を閉ざし、生者とそれ以外の交流を禁じていた。
 不思議な力の漏れ出すこの森の近くには、魔女達の集落があった。魔女達は人の心の袋小路を、ねじれた道を、行き場のない怒りを、救う事ができた。この世に魔法使いはまだなく、魔法とは心に繋がることであり、人間だけの物だった。
 そして、この世で最初の魔法使いガラテアが、この魔女の集落にうまれた。彼女はうつつの霧をはらすことができ、本物の魔法、つまり、物理的な力を出現させる混沌の力をもって生まれたのだった。
 彼女が力を使ったのはただ一度だけ。その一度で、妖精の国との道を開き、二匹の妖精をこの世に放ってしまった。ガラテアはその一匹がハマウシュだということを知っていたが、もう一匹がコピュラスだということは、ハマウシュの策略のせいで知らなかった。

「番人スタル、全ての死者を甦らせ、全ての混沌を制御する巨人よ」
 魔女ガラテアを伴って現れたのは、その妖精ハマウシュである。この世に残ったただ一人の神スタルは、白く気高い巨体を、森の木立にうずめていた。
「策略家の子鼠か。魔女ガラテアよ。その邪悪なる者をこちらに引渡しなさい。お前は神と精霊の加護を受けるこの世で最も尊い子。邪悪と交流してはいけない」
 ガラテアはスタルに跪いた。
「敬愛するスタル、偉大なる門番よ、わたしは全ての望みをハマウシュにゆだね、最後の望みをかけてここに来ました。どうか、もう一度コピュラスにあわせてください」
「ならない。コピュラスはすでに帰った」
帰ったとは妖精の国のことであったが、ガラテアはそれを死者の国だと思った。
「番人スタル、あなたが門を開けよ。さもなくば、わしとガラテアが霧を払うであろうよ」
ガラテアには確かにその力があったが、同時にその禁忌を知っていた。しかし、ハマウシュは用心深くはあっても純朴はガラテアを騙すあの手この手の口先がある。
そう、ハマウシュはスタルによって神の冷たさをガラテアに教え、ガラテアによってこの世の混乱をもたらし、妖精の国とこの国を繋げさせる計画であった。
しかし、スタルはいった。
「よかろう、愛するガラテア。おまえの悲しみはわかった。お前は神の愛を信じるか?」
 ガラテア、答えて曰く、
「はい。心から信じます」
 スタルは頷いた。ハマウシュは内心慌てつつも、スタルの言葉を待つしかできない。
「愛するガラテア、お前の望みをかなえよう。しかし、禁忌を犯す以上、お前もコピュラスも犠牲を払わなければならない」
「ありがとうございます、愛するスタル。どんな犠牲でも、この喜びの代わりならおしくはありません。でも、コピュラスはなにもわからないのです、わたしのわがままなのです、どうか、犠牲はわたしからのみお受け取り下さい」
「それはならない。ならばコピュラスに訊ね、了解をとるがいい。お前とコピュラスが手に手を取り合いこの森を出たら、お前は視力を失い、コピュラスは声を失う」
「おぉ!」
「この森にいる間は、まだ視力も声もある、しかし、お前が私を疑って、コピュラスの姿を確認したり、コピュラスが一言でも喋ったら、お前の命もいただくぞ」
「わたしにはとても、自分の口からは告げられません、どうか、スタル、あなたからコピュラスに説明なさって。この愚かなわたしのかわりに」
「いいよ、愛するガラテア。待っておいで」

これは困った事になったと、ハマウシュは慌てた。スタルはにやりと笑った。
「妖精よ、ガラテアが試練を乗り越えたら、お前は妖精の国に連れ戻すから覚悟しておけよ」
 するとたちまちハマウシュの周りの霧が濃くなり、視界がミルクの中に潜ったようになってしまった。
「チクショウ!」
 ハマウシュは手足をばたばたさせると、ばたんと横になり、自分の策略の失敗を味わった。


5.コピュラスの目覚め
 ガラテアは目を閉じていた。霧はひんやりと冷たく、胸の鼓動を優しくいなした。しかし、さらに冷たい霧の塊…いや、コピュラスの手が触れると、ガラテアの頬は熱くなった。
「ごめんなさい、コピュラス、眠りを妨げて。でももし、わたしをあいする気持ちがまだあるのなら、どこか遠い国へ行きましょう。それでよかったら、手を強く握って」
 手は離れた。
「コピュラス…!」
 ガラテアの悲しい声。そして、コピュラスはガラテアを抱きしめた。
「なんておそろしい計画なんだ、ハマウシュの奴。俺はやっとわかった。君は、俺を愛していた」
「ああ、止めて、コピュラス、喋ってはだめ。いえ、もう遅い…。やはり、あなたはわたしを愛していないのね?」
「ガラテア、視力を失ったら、君は俺の姿も、踊りももう見れないぞ?俺がしゃべらなければ、俺が俺となぜわかる」
「あなたとスタルを信じていたわ。でももう駄目。何もかも、もう手遅れ」
「俺が声を失ったら、芝居もできない。お前には愛の言葉一つも、もう語れない」
「あなたがいれば、それでよかったの」
「俺の、何を愛して?俺の魔法は、姿と声だけ。それを失ったら、ちっぽけな妖精でしかない。それでも君は、俺を愛せるか」
「なんのこと?」
「俺は人間ではない。妖精だ。君が放った、ハマウシュの片割れ。君を騙していた。君を騙して、妖精の国を解放するつもりだったんだ」
 ガラテアは押し黙った。
「謝るよ、君を裏切った。俺は、いまさらわかったのだ。妖精にも愛はある。裏切れば心が痛い。君の愛を消して、苦しみから解放してあげよう」
ガラテアは、このとき始めて目を開け、コピュラスを見た。
「信じて、あなたを愛しているわ」
 コピュラスは魔法をかけながらいった。
「俺にその資格はない」

 森で目覚めると、スタルがいた。
「妖精をよくつれてきたね。これで元通りだ」
 ガラテアは、この森の霧以上にぼうっとした頭で答えた。
「なんのことですの?スタル。わたし、なぜここにいるの?」
スタルは同情に満ちた目でガラテアを見つめ、優しくいった。
「愛しい娘よ。もうお帰り。あんしんして。神と精霊はお前を愛している。たとえ人間がお前を愛さなくとも」
 ふらりと立ちあがり、スタルに別れの挨拶をすると、ガラテアは魔女の集落の方へ歩き出した。


6.ガラテアの目覚め
 この森の霧は水ではなく、別の世界に住む何者かの気配だった。
 この霧のどれかが、死者の国や、妖精の国を闊歩する誰かかもしれなかった。しかし、人間の世界を歩いているのはガラテア一人だった。
 記憶は曖昧で、ここ数年…彼女にとってはコピュラスと暮らした王都での記憶が、ごく曖昧だった。しかし、胸にぽっかりと空洞ができ、これだけは現実の痛みを伴っている。
 ガラテアは泣き始めた。悲しいのか、寂しいのかもわからない。ついさっきまで満たされていた器は空っぽ、乾いてひび割れているのに、何処から沸いてでたのか知らない涙は止まらなかった。
 とうとうガラテアは座り込み、本格的になき始めた。
 心に晴れない霧がある。失われた何かは、固く封じられ、ガラテアの心の中なのに彼女の手の届かない所にあった。
 この霧をはらわなくては…
 顔を覆った彼女の周りで、霧が動き始めた。
 ガラテアの心はもがいた。光を求めて。

「コピュラスがここへ戻ってからというもの、まるで彼、火が消えたよう。あっちの世界は本当に楽しかったの?」
 妖精王は、久しぶりに国に帰ったハマウシュに訊ねた。
「もちろんですよ、女王。ただコピュラスは、あちらで出会った恋人と悲しい別れをしたので泣いているのですよ」
「でも、聞く所によれば、コピュラスはあなたを責めて泣いているそうじゃないの」
「む!それはけしからん、計画は奴も納得済みだったのですぞ」
「計画?」
女王が興味を持ったので、ハマウシュはしかたなく、自分がこしらえて失敗した妖精の国解放の計画を打ち明けた。
「まあ、なんて可哀相。お前は心が枯れた老人だからって、気付かないとはあんまりよ。妖精にも愛はある。お前は計画の為に、コピュラスとガラテアをどんなに不幸にしたかわかっている?」
せっかく妖精の国を解放する計画だったのに、女王に怒られてハマウシュはしょんぼりとした。
「御覧なさい、ハマウシュ。あちらの世界でも、恋を失って泣いているわ」
 女王は霧をつなげ、こちら側からだけ風景を見れるようにした。
ガラテアの冷たい顔しか知らないハマウシュは、恋の思い出すら失い、自分が何故泣いてるのかもわからず泣き崩れるガラテアを見て愕然とした。
「あの娘はコピュラスのことは覚えていないはずなのです。コピュラスが苦しめないために愛の記憶を消したと、本人から聞いたのです。なぜ泣いているんだ?」
「男は何てバカなんでしょう。では思い出すらも失って、あの娘はどんなに心細いでしょうね?ただでさえ寄る辺ない身なのに。あの娘の動揺につられて、霧が少しはれている。魔法は繋がるわ。ハマウシュ、あなた、自分がどうすべきかわかりますね?」
「いいえ、恐れながら、女王。わしはどうすればいいのです?」
女王は言った。
「記憶を戻しなさい。スタルに気付かれないうちに、早く!!」

 光がさした。
ガラテアのはれぼったいまぶたに、霧に隠れていた赤銅色のりりしい笑顔がすっと浮かんだ。
 ガラテアは立ち上がり、あたりを見回した。そして、木の枝にうずくまる小さい霧の欠片を、両腕で抱きしめた。
 ガラテアが強く祈ると霧が晴れ、彼女はコピュラスを抱きしめていた。コピュラスもないていた。ガラテアははっとして、恐れて手を離した、すると霧はまた立ち込め、濃くなる。
 察したコピュラスは考えるよりも前に、ガラテアを抱きしめ口付けた。

かくして、世界の混沌が始まり、全ての妖精と魔法は解き放たれた。
自分の行いの結果に呆然とする自称策略家のハマウシュが見たのは、これが策略というものです、と妖艶に微笑む、妖精女王の姿だったという。

END