ロリータの亡霊




   1,
 さめざめと雨が降っている。
 コンクリートの轍に水が溜り、車がそれをはねあげては通り過ぎていく。たまに通る路上用飛行機の飛沫は車よりもひどくて、道路側の端にいるわたしはすでに右半身がぐっしょりとぬれていた。
 かといって、ここ以外でわたしを傘に入れてくれるものはない。
 わたしは他の子たちと混じって、傘の端に入れさせてもらっていた。
 それは大きな傘で、子供たちはベビーベッドみたいな牢に入れられて、その傘はすっぽりとそれを覆っている。
 傘と牢屋は人買いのものだった。
 死んだような目をした子、泣いてる子、悟りきった顔の子、様々だ。
 わたしが座り込んでいたのはその牢屋の外側。ぎりぎり傘下に入ったわずかな部分だ。わたしは人買いのものではない。だが、わたしは牢屋の中の子よりあきらかに不潔で惨めだった。
 肌も髪も生ゴミのようなくさった匂いがしたし、何日も風呂に入っていない。
 いつも虱で痒くて、ぼりぼり掻いては血を流し、よく炎症をおこした。顔も体も、泥と汗と小便とその他のあらゆる汚物が絡み付いていた。
 雑巾色の破れ掛けた服は、元はどんな色だったか思い出せない。どっちみちここまで使い込めば色なんてみんな同じになる。
 食べ物は、食べ物屋の裏手のごみ箱に入っていた。あんまり入り浸ると店の人に殴られるから、なるべく見つからないようにこっそり取りにいくのだ。
 あたしはだれも見向きがしないほど、汚らしい子供だった。
 雨が止んだら、人買いが売り場に戻ってきてわたしを追っ払う。牢屋の中の子供たちは、自由なわたしに同情すらしている。あえて話しかけてはこないが、視線がそう言っていた。わたしに、明日のスープの当てはないのだ。
 休めるのは今だけ…。
 たぶん、わたしは人間ではなかったんだと思う。
 雨降りだった。でもわたしは疲れ過ぎていた。動く気力もなく、雨が止むのを待っている。
 ふと、顔に影がかかる。見上げると、人買いと紳士が立っていた。
 人買いは四十過ぎの飲んだくれたおじさんで、晴れの日は路上で店番をしているが、雨の日は近くの飲み屋で雨が上がるのを待っている。
 わたしがこの辺をうろつくと、邪魔だといって蹴るのだ。
 人買いは商談をしている。紳士も四十代くらいだったが、彼はというときちんとスーツを着て、帽子をかぶり、その下の髪もきちんとセットされているのは見て取れた。
 だが彼は人買いと商談している。彼もまた人買いだ。人買いは皆、子供をもののように扱い、暴力を振るう。わたしは暴力は好きでない。
 動かなくては、と思った。でも…。
「この子を貰おうか」
 紳士が言った。彼がさしている指の先には、わたしがいた。
「こいつをですか?だんな。まあかまいやせんが」
 わたしは決して人買いの商品になった覚えはなかったが、紳士はわたしを横抱きに抱き上げた。
 わたしは驚いて体を動かしたが、暴れたのに彼はわたしをぶとうとはしなかった。そして気を沈めよとするように、そっと髪をなでたのだ。わたしの汚い髪を…。
 反論する気はうせていた。代わりに、わたしは泣いていた。
「幾らだ?」
 紳士は人買いに尋ねる。
「じゃあ5000ルバイでいいですよ」
 売り物ではないので気が引けたのか、酒場の飲み代程度の値段である。このわたしが、5000ルバイぽっちとは。
 でも、わたしは泣いていた。悲しいからじゃない。ただ、疲れて沈んでいた心が、久し振りに花の香を嗅いだように、ふわふわとしていた。
 紳士は人買いに金を払った。人買いは初めてわたしの顔をまともに見て、わるいね、とでも言うようにニカッと笑う。ぼろぼろのわたしが売られることが、あながち悪いことでもないと思っているのか。
 紳士はわたしを自分の車に連れて行った。
「私の名はノーチェだ。君はあの人買いの商品ではない様だな。だが君を自由にする気はない」
 素っ気ない喋り方だったが、それは明らかに人間と話す言葉であり、唾や暴力ではない。……自分はもうゴミではないと、そう思わせてくれた。
 紳士…ノーチェはそれからわたしをゴミの落ちてない通りに連れて行った。
 そこには雨漏りのしない家があり、わたしの足跡がくっきりと残る美しい床があった。彼はわたしをバスルームに下ろし、それからわたしを自分と一緒に風呂に入れてくれた。
 わたしはそこで、はじめて人間というものを知ったのだった。


   2,
 俺がその街についたのは、冬の木立ちもふるえるような寒い夕暮れ時だった。
 最後の一人、“晴乃日”はこの街にいるはずだ。
 俺は首に下げた“鍵”を見る。…この鍵を使う羽目になるのだろうか。
 データによれば、晴乃日はこの街に住むノーチェ・ゾルテールという男の養女になっている。
 養女か…。
 最後の少女、晴乃日が人間扱いされていることにはたいした驚きはない。彼女は一見完全な女の子に見えるはずだし、彼女が正常なら本物の人間と寸分変わらないはずだからだ。
 しかし正体のバレた晴乃日が、どんな扱いを受けるのかも想像に難くない。
 何せ俺は実例を知っていた。あれはどちらも傷つくのだ。一刻も早く晴乃日を見つけ出し、説得しなくては。

 ゾルテールの家は、この街でも裕福な層の者が住むところにあった。どこの街もそうだが、最近はとにかく貧富の差が激しい。富める心安い生活を送れるのはホンの一握りで、彼らは安息をむさぼってその他大勢の飢えた者たちを顧みはしない。
 飢えた子供の姿など、特に心いたむものなのに…。
 ともかくこの仕事さえ終えれば、こんな状況を打開する糸口になるんではないだろうか。社長もすっかり改心したのだ。それにその為に、彼女は犠牲になったのだ……。
 つらつらと考えるうちに、ゾルテールの一軒家にたどり着く。そう大きくもないが、しっかりした造りの良い家だ。
 チャイムを鳴らす。
 しかし中に人気はない。もう一度家をよく見てみると、窓は土埃で曇り、庭には枯れ葉が積もり、ここ最近ろくな手入れがされていないのがわかる。
 仕方無く俺は街に噂を聞きに出た。
 丁度近くに雰囲気のいいカフェがあり、その店に入った。店は暖かく、加湿器とコーヒーポットがシュンシュンと心地良い湯気を立て、カウンターの奥で店員がグラスを磨いている。夜には酒場になるのだろう。
 俺はカウンターのスツールに腰掛け、コーヒーを注文する。
「マスター、尋ねたいんだが、あそこのゾルテールさんの家は今人は住んでいるのか?」
 機嫌よくコーヒーを出してくれたマスターの顔は途端にゆがみ、そばでコーヒーを飲み雑談していた客も俺の方をいぶかしんでじろじろ見てくる。
 …何かまずいことを聞いてしまったのだろうか?慌てて言い繕う。
「怪しい者じゃない。身元もしっかりしている」
 そういってセダーブロム社の名刺を出す。俺は今や天下のセダーブロム社の調査部主任なのだ。セダーブロムの名なら、大抵の堅気の人は安心する。
「ふーん、調査部ねぇ…。まあセダーブロムなら間違いないでしょうけど。でもゾロテールさんは亡くなりましたよ」
「え?」
 それはおかしい。確か今日付けの法的資料ですら、そんなことは書いていなかった。俺がその旨を伝えると、マスターは複雑そうな顔をして、店員に声を掛けた。
「おい、パン屋のロロを呼びな」
 話を聞いていた店員はしたり顔で、ちょっと古い型の電話の受話器を取った。
「これから呼ぶパン屋のロロは、今でもゾルテールさんとこにパンを配達しています。多分一番事情にくわしいんじゃないかな。お客さんが一流企業の人なら、ロロから情報を買うといい」
 なるほど。何処の街でも、金持ちの個人情報を売って生計を立てているものがいるが、ここではそれが“パン屋のロロ”というわけなのだ。パン屋なら配達する時に何かと聞きかじるのだろう。
 俺がコーヒーを飲み終わり、体がすっかりあったまった頃、ロロと呼ばれる青年がやってきた。思ったよりも若い神経質そうなその男は、俺を見つけると軽く会釈して隣に座った。
「ゾルテールさんの話が聞きたいそうですね…。新聞記者ですか?」
 そんなにスキャンダラスな事件にまで発展してしまったのだろうか。
「いや、違う。ゾルテール氏と、その養女の晴乃日嬢について情報を調べている者だ」
 そうしてまた名刺を渡す。ロロはふーんとにやついた。
「よそ者ですね、お客さん。法的にはゾルテールさんはまだ死んでません。死亡届けが出されてませんので。ゾルテールさんは三か月前、交通事故でなくなったんですが、その養女のハレノヒさんが死亡を認めなかったんですよ」
「なんだって?でもそういう場合は医者が死亡届けを出すのでは…」
「彼女は医者を買収したんです。役所の人間も。お金の使い方をよく知ってる子でね。ただでさえ彼女は何かと問題があったんだ」
「というと?」
 俺が催促すると、ロロは辺りを伺うように言いつぐんだが、いやらしいにやついた笑いを張り付かせてささやいた。
「ゾルテールさんは、ロリコンという噂があったんです」
 店はシーンとしてその声は思ったよりも響いたが、誰も反応しない。周知の事実のようである。…ずいぶん演出過剰な男だ。ロロは続けた。
「そんな中ハレノヒさんは引き取られたんですが、とっても明るい子で、ゾルテールさんが手出ししてたらこう素直に振る舞えまい、と当初はみんな好意的でした。でも、三年経っても彼女は幼女のまま。とうとうゾルテールさんが何か改造でもしたのだと…」
「で、今晴乃日はどうしているんだ?」
 俺が晴乃日の正体に突っ込まないのをロロは悔しそうにしたが、淡々と告げた。
「あの家にいます。会う気ですか?」
 俺はうなずく。
「その為に来たんでな」
「じゃあ何とかして会わせてあげます。情報料と案内料で、10万ルバイで良いですよ」
「…ずいぶんぼったくるなぁ。まああんたの仕事に納得したら、払おう」
 ロロはどうでもいいという風ににやついて、自分の分のコーヒー代を俺に払わせた。ともかく俺たちは会計を済ませて店を出、もと来た道を戻っていった。

 チャイムが鳴る。
 扉が開く。
 わたしは見る。
 男が二人。一人は知っている。パンの配達で何度か見た。
 もう一人は知らない。
 知らない。
 敵か?泥棒か。身なりの良い男だ。わたしは微動だにしないまま警戒を続ける。

 部屋には異臭が漂っている。
 勝手口からは簡単に入れた。鍵はあきっ放しだったが、皆この家を恐れて泥棒すら入ろうとはしないらしい。いや、最初はいたのだ。だが、この家を守る晴乃日はだれ一人侵入者を許さなかったのだという。
 俺たちはどうやら客と判断されたようだ。
 そう広くはないベッドルームには、セミダブルのベッドが一つ、サイドテーブルと椅子が一セット。
 異臭はベッドから漂っている。異臭といっても、それはもう消えていくばかりの残り香で、……朽ちていく死体の放つ臭気だった。
 椅子には彼女とはまるで似ていない、彼女の妹が腰掛けて、こちらを見るともなしに見ている。
「ロロ、案内料は後で払いにいく。もう帰っていいぞ」
 この状況でも落ち着いた表情のロロに言った。
 ロロはくすっと笑う。神経質そうに見えたが案外肝の大きい男だ。帰る気はないらしい。この余裕は、まだ何かを知っているはずだ。
「未払いの客を残して帰るわけにはいきません。ここで待ってますよ」
 ロロは扉の桟に寄り掛かって、傍観を決め込んだ。
 俺はロロを無視して晴乃日に近付く。
「晴乃日だな」
「そうよ、正確な発音ね。わたしたちに何の用?」
 対話機能はまだ正常のようだ。
「俺はセダーブロム社調査部のスターチスだ」
「…セダーブロム……。兄さんの?」
 どうやら事情が通じている。これならだいぶ話しやすい。
「ああ。社長の命令であんたら姉妹を探していたんだ。露雨も雪果もすでに確保している。後は君だけだ、晴乃日」
「姉さんは、どう決断を下したの…?」
 俺は首に掛けた鍵を見せた。晴乃日は目を見張る。
「そんな…、じゃあ姉さんは……!」
 俺は言葉を打ち消すようにわざと強い調子で言った。
「わが社で、二人は君を待っている。来てくれるか?」
 俺の心情を理解したのか、晴乃日は悲しげに微笑みながら首を振った。
「だめよ、兄さんたちには悪いけど、わたしとても幸せに暮らしているの。ノーチェと二人、これからも幸せに暮らしていくの」
 ノーチェ・ゾルテール……。ベッドの中の男は、死後三か月を超え、すでにミイラ化が始まっている。こんなになるまで死体に付き合えた晴乃日には感服するが…。
「晴乃日、彼はもう…」
「もう出て行って!わたしには兄さんも姉さんも、過去も必要ないの!今だけでいいのに…」
「ハレノヒ」
 傍観者を決め込んでいたロロが、突如俺の後ろから声を発した。
「ノーチェさんは僕の運転する配達車に飛び込んだんだ。車についていたビデオもそれを裏付けている。僕には罪はないそうだ」
「!!あなたがノーチェの!」
「君が何者で、スターチスさんがなんでここに来たのかは知らないけど、君はすでにゾルテールさんの死を認めている。あきらめたらどう?」
「うるさい!」
 何のつもりかは分からないが、俺は慌ててロロの口を封じさせようとした。
「やめろ、ロロ!これ以上刺激するな!」
 そんな俺をポーンと飛び越えて、椅子から弧を描いて跳躍した晴乃日はロロを押し倒した。ガタンと派手な音とともに埃が立ち、その中で二人はもみ合った。
 上を取った晴乃日がロロの頚動脈に手を当てる。彼女の皮膚が破れ、その下に内蔵されていた刃がむき出てきた。
「殺人機械!?」
 ロロはこの場には不釣り合いな喜色を表して言う。
「そうか、君の正体はアンドロイドだ!」
「だまれー!」
 手に力を込めようとする晴乃日を制する為に、俺は仕方無くゾルテール氏の死体に刃物を当てた。
「晴乃日、彼を殺せばゾルテール氏の首も切断するぞ!」
「ノーチェに触らないで!これから生き返るのよ!」
 晴乃日は正気を失いそうな程混乱している。何て奴だ、ロロめ。説得でいけたかもしれないのに!
 しかしその混乱の張本人も、すでに狂気を帯びていた。
「そうか…、ゾルテールさんの永遠の美少女は人形だったんだ!所詮人形じゃないか、ゾルテールめ、ククク」
 俺は言った。
「ゾルテールさんを殺したのは…お前なのか?」
 ロロは泣き笑いのように顔をゆがめた。
「なぜ、同じ背徳者なのに、あいつだけ天使を得るってんだ?ちくしょう、楽しそうにしやがって…、死後も守られるなんて…、その辺でのたれ死ねばよかったのに……」
 彼はもうまともに喋る口を失って、自分に向けられたぼそぼそとした口調になっている。彼が異様にこの事件に詳しかったのは、ゾルテール氏へのゆがんだ嫉妬からだったのだろうか。
 晴乃日は涙を流しながらも、刃物を体内に納めて立ち上がった。…俺は狂人は一人だったことに気付く。
「ひょっとして、犯人を待っていたのか?」
「犯人なんていない。ノーチェは生き返るもの…。わたしはただ疲れて動けなかっただけだわ」
 それが妙に言い訳がましくて、俺は狂ったふりをしようとする彼女を哀れに思った。
「晴乃日…」
 晴乃日はこちらに歩み寄った。俺は慌てて刃物を引き、彼女に道を開けた。
「でも、パパがくれた完璧な目が、わたしに嘘を見せてくれないのよ…!」
 彼女の目は光だけでなく、物の温度、電波、放射線、実に様々な物を見分ける。目ではごまかされないのだ。
 晴乃日は口づける。ノーチェの動かない体に、別れの言葉を吹き込む。

「あなたと行くわ、スターチス。でも条件があるの」

 俺は、その条件とは鍵の使用だと踏んだ。しかし次に晴乃日が発したのは、俺の予想を超えていた。
「わたしに顔の似た人間の卵子と代理母が欲しいの。わたしにはノーチェが残してくれたささやかな遺産があるし、それ以外で彼の為に残せそうなものって思い付かないわ」
「子供を作る気か?」
「わたしの子宮に当たる器官には、ノーチェの精子が冷凍保存されている。わたし自身が機能障害に陥る前にこれも保管してもらいたい。…これくらいは、いいでしょう?」
「鍵は、使わないのか?」
 晴乃日は笑った。
「わたしは彼に愛されたことを後悔なんてしないわ」

 いろいろあったが、俺の仕事は終わった。
 昼下がりの公園のベンチ、俺は彼女から預かったままの鍵を見る。
「お疲れ様でした、スターチス」
 若い女社長アークレインが露雨を伴って、いつの間にかそばにやってきていた。
「いいんですか?せっかく計画が始動できるって時に抜け出してきて」
「わたしは研究段階では役に立たないもの。あくまでもビジネス。ツーユもデータ処理はほとんど終わってるから、妹さん達よりは自由なのよ」
 露雨は涼しげな目許であらぬ方を見ている。この美青年が正気ではない、というのはなんだか残酷なことのような気がした。彼の手はきっちりと社長につながれている。顔も性格も、全く似てない兄妹だ。
「雪果はどうしてますか?」
 魔がさした俺は、彼女のことを聞いていた。鍵を使い、俺の愛から逃げた彼女・・・。ノーチェ・ゾルテールは一体どうやってアンドロイドの心をつかんだというのだろう。なぜ雪果は俺の愛を拒んだのだろう。
「……ええ、データに異常はないわ。メンテナンスも平気よ」
 社長の声に耳を傾けていた俺は、鍵をもてあそびながらうなずいた。
 真新しい空は、悲しいほどに淡く晴れ上がっていた。

END