< これが、Dr.Mの2023年1月1日、新年の心境 >

『 雲外蒼天 』と思い我慢した1年でした;が今年も未だ未だ堅忍不抜の世の中か;
世界で日本だけが沈没しかけてて一人当たりのGDPが韓国の半分になりそうとか;
こういう時期だからこそ日本の強みを発展させ日本を元気にして欲しい^苦尽甘来^


 < これが、Dr.Mの2022年1月1日、新年の心境 >

『 水到渠成 』という言葉を見つけました。
水到りて渠成ることを一生続けていけば生きることも楽しくなるのではと想います。雲外蒼天^^/


 < これが、Dr.Mの2020年4月28日、新型コロナウイルス禍での発信 >

太宰治も開高健も町田康もお酒と文学はなぜ親しい?
開高健はベ平連で知った男。地震予知空振り、大いに結構、備えあっても憂いある時代なんだから、警報が外れたらもうけもの、と思わなくてはいけない。 警報段階のパニックを心配する人もいるようだが、私は、そんなパニックだったら大賛成。
大地震に襲われてからのパニックに比べれば、タカが知れている。免疫注射と同じで、微量の毒を入れることで、巨大な毒に対抗するわけだ。 人間が賢くなれるのは昨日に対してだけで、今日、明日に対しては愚かである、という言葉がある。ぴったりではないか。 しらふで生きる、大酒飲みの決断の作者町田康。酒をやめると人間はどうなるか。町田の酒飲みレベルは、一升を飲んで、 ドカベンの物真似をしたり、ギターを爪弾きつつ港町ブルースをエスペラント語で歌う。
こんな飲み方を30年間、1日も休まず続けてきたが、平成27年12月末をもって酒をやめる。全身の倦怠感、背中の痛みなど、沈黙の臓器・肝臓が悲鳴を上げたため 、一方で人生の寂しさと短さを酒なしで味わおうと思った。小説家の業。町田が酒飲みの大先輩とあがめる古代の歌人、大伴旅人は生きていくにあたって最も重要なのは酒を飲むことであって、 それ以外のことはたいした問題ではないし、もっと言うと、どうでもいい問題であると、言い切っている。町田も、酒を飲むことが正気で、酒をやめたことは狂気。人間はいずれ死ぬのに、 節制など卑怯ではないかとも。こうして酒を飲む意味、やめる意味を追求。酒をやめると人生の真のよろこびに気づくと妙に姿勢を正す。禁酒のメリットとして、ささいなことに喜びを感じる。 ズクズクになっていた脳髄のアクセス回路が回復して仕事がはかどる。酒の出費がなくなる経済的効果。暴飲暴食をやめたダイエット効果など。
酒と文学の関わりをつづった本が相次ぐが、酒は創作の糧か、それとも邪魔者か。酒と文学と聞いて、思い出すのは太宰治、坂口安吾ら無頼派と呼ばれた作家。無頼派の作家達について、 飲まずに生きていられない人の話は、滑稽で、悲しい。太宰もご多分に漏れず、酒の味が嫌いで、酔うためだけに飲んだ。酔いが醒めれば慚愧の念に堪えかねて、また飲む。 太宰の盟友、坂口安吾もやっぱりそうで、息を殺して、薬のように飲み下していると記す。
世代が下がって、村上春樹氏の場合、デビュー作・風の歌を聴けに頻出するビールは作者自身の青春を象徴するイメージとみる。同様に愛飲しているらしいウイスキーは、 小説においては異世界への突破口の役割を果たすなど不穏な働きをすると指摘する。 開高健は淡麗という酒品という文章で酒と文学は原料の選び方、仕込みのやり方、腐らせ方、寝かせ方、細部の気のつかい方、無数の点でそっくりであると書いている。 若者を中心にアルコール離れが進んでいるといわれる現代。それでも、酒と作家、酒と文学をテーマにした書籍は根強い人気を誇る。酒と文学の親和性は高い。

横山大観が最も愛飲した酒が、醉心。大観にとって醉心は主食であり、米の飯は朝お茶碗に軽く一杯口にする程度で、その他は醉心カロリーを取っていたと。 昭和初期、神田の醉心山根本店に連日お酒を買いに来る上品な女性に、どなた様かと店員が訪ねてみると、それは大観の夫人。 大観はまろやかでありながら辛口の醉心をいたく気に入っているということで、興味を持った三代目当主山根薫が大観の自宅に伺い酒造りの話をしたところ、 たちまち意気投合。酒造りも絵画も芸術だと意気投合し、感動した薫が一生の飲み分を約束しました。それ以来、大観は醉心に毎年一枚ずつ作品を寄贈。 それが集まり出来上がったのが大観記念館。大観の作品の他、川合玉堂、菱田春草、頼山陽の作品も収めている。大観は昭和33年に89歳で生涯を終えたが、 この約束はそれまで続いた。第二次世界大戦下にあっても醉心は主食であるとの主張の通り、何とか東京まで酒を送って欲しい旨を薫に直筆の手紙をしたためている。 この運送を、当時の五島慶太大臣に計らってもらえるよう依頼したこともあったという。晩年、薬や水さえ受け付けなくなり重体となった時でも、醉心だけは喉を越し、 それをきっかけに翌日からは果物の汁や吸い物などが飲めるようになり、一週間後にはお粥を食べられるまでになったという記録も。


 < これが、Dr.Mの2019年8月1日、猛暑の中での発信 >

人生のやり甲斐
@企業は、改革し続けなければ現状すら維持できない。もうこれでいいと思った瞬間から、会社の没落が始まる。⇒大学にも言える。十年一日の如く教育研究に励むだけではなく、最近の世界大学ランキングの評価基準となっている研究者からの評価(40%)、企業による評判(10%)、学生1人あたりの教員数(20%)、教員1人あたりの論文引用数(20%)、外国人教員比率(5%)、留学生比率(5%)などで世界一になること。一番になれば誰も文句言わない。
A楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する。発想から計画に移る時にはいろいろなリスクを想定し、厳密にプランを立てて。実行する段階では、迷わず成功を信じ行動する。⇒挑戦する時には誰も悲壮には浸らない、ワクワクしながら完成までを考える、計画は厳密に。後は遮二無二実行する、失敗を恐れないこと。
Bバカな奴は単純なことを複雑に考える。普通の奴は複雑なことを複雑に考える。賢い奴は複雑なことを単純に考える。ルールや策に固執して難しく考えすぎず、よりシンプルに考えていく事で絡まっていた糸がほどけていく感覚を味わえる可能性も十分にある。⇒馬鹿か否かは別として、ただ見ていても絡み合った糸は解けない。絶対に解けると信じて少しずつでも進む。常識に捕らわれずに進む。解法は一つではない。
C製品には、つくった人の心が現れる。粗雑な人がつくったものは粗雑なものに、繊細な人がつくったものは繊細なものになる。製品の語りかける声に耳をすますくらいに、繊細で集中した取り組みで、製品をつくり上げるようにしなければならない。⇒昔よく言った、微粒化された液滴の気持ち、加熱された石炭粒になった積もりで考えてみよと。その結果、良い成果になる。
D企業経営において、一歩ずつ弛みなく歩むということが夢の実現に至る唯ひとつの確実な方法。実現したい夢があるならば、少しずつでも努力を続けること。⇒夢をというか、目標を実現すること。目標を常に立てる、楽しく立てる。目標なしで仕事をするなら無駄な時間を過ごしていることになる。そしてその目標実現には遮二無二。

@〜Dは稲盛和夫氏の言葉。矢印以降が私信だが、似たようなことを言っていると思う。私は今迄いろいろな人と会ってきた。旧制中学しか出ていないのに発明に拘り、寝る時も鉛筆とノートを置いて24時間考えているという、こっちは好きに酒飲んだりしているのに。凄い人達に出会ってきた。その執念を尊敬して来た。 研究でも何でも最初の目標は常に変わる、仕事というのに頂点はない、小さな山が連なっている。その山を越す度に次の山を目指す、同じ目標であるわけではない。山を越えることで学び、目標がもっと大きな山に変わる場合もある。常に変化を恐れないことでもあるし、山を作り、その山を超えることでもある。 山を越えるには、生活習慣を常に正確にルーチンワークとすること。生活パターンから常に一定の速度で進める。その上で仕事に打ち込む、人一倍の努力で。小さな山でも全身全霊で解決する。助手時代の姿を田島という学生はあの頃は狂っていましたねと。部下に狂っていると言われるまで打ち込むのは男冥利に尽きる。世界一の研究成果のためなら手抜きはしない。その生活は非常識かも知れないが、無常識ではない、常識を知っていてもそれ以上に進むには非常識が重要。 恐らく生活にルーチンワークを求めることは非常識でもある。無私は自分だけで良いのに家庭にまで持ち込む。自己犠牲を家庭にまで持ち込むので迷惑だが、それを部下にも求めてしまう。家庭を優先する部下には今ならパワハラになるかも知れない。しかし仕事の迅速な完成には無私が重要であり、平凡に生きている人間にはどこかで自分を拘束しないと無私という心境には入れない。そのために家庭を犠牲にするのも掛け替えのない仕事をしているという自負があるから。全ての意思を集中させるには止むを得ない。人間性も変われば良いが、内面の強さは山を越える度に向上する。 しかし仕事で苦労したという記憶はない。やらされている仕事ではなく、自分で仕事の意義を見つけ、目標を見出し、自律的に仕事ができる次元に達すれば、仕事ほど楽しいことはない。部下の成長が一番嬉しい。他人の心を揺さぶるために真剣に、魂を打ち込めるなら最高。


 < これが、Dr.Mの2018年2月18日、古稀を迎えての発信 >

昨日はお忙しいところ、足下の悪い中、皆様にお集まりいただき誠に感謝いたします。また古希のお祝いの品なども賜り、感謝に堪えません。誠に有り難う御座いました。 凛として生きる。自然界に生きとし生ける者は、常に環境や状況などに向き合って生きている。植物であれば、根を張った場所から移動する事も出来ない、根差した場所で、生涯を生き抜く。逃げる事も、卑屈になる事もなく、その場所で生きている。 母を見ていると下だけを見て歩く、頭上のことも周りも見ないで歩く、そうやって過ごしている。母ならこれで良いが、まだまだ生きなければいけない若人は、社会に揉まれ、尊敬する人達を選び、自分を飛躍させないと、人生もったいない。 自然界に生きる動物も、同じで、移動も出来るし、自分で場所を選択する事も出来る。人間が同じ所や同じような人達とだけ接したりするのはもったいない。 人間は、生きる場所を選ぶ事や移動をする事も自分で選択して決めている。自分の成長は全て自己責任。誰のせいにも、環境や状況のせいにもできない。すべては、自己選択、自己判断、自己決断であり、自己責任。時間や労力を遣おうが無駄にしようが全て自己責任。成長は自己責任。 その生き方は、常に凛としている。どう生きるのか?どう在りたいのか?どのように人間達と交わるのか?全て自分で選択して生きている。迷いもなく後悔もなく不可逆過程で生き抜くだけ。 いつでも、どんな状況下で在っても、自己責任。周りに影響されることもある、しかしその影響を凌駕するくらいの気概を持って生き抜くことも必要。 周りを選択し、周りと調和し、周りを配慮しながらも自身の決断をし、自分を磨き、鋭くし、シャープな感覚を常に持ち、自分を評価し高める努力が必要。毎日、自分自身で選択し判断し決断し、シャープにして行く。 そして、周りへ言動で影響したりされたり、良きモノを選択し、それ以上に自分を決める。自分が途中で歩みを止めるのも、走り出すのも自己責任。ゆっくりでも前進したいもの。 それが、凛として生きることになる。清々しく、爽やかに生き抜いていく、それが凛としてなら、自己責任で選んでいこう!

研究開発を内部に抱えずに国境を越えてアウトソースする、移民労働者も同じ日本に住む外国人は2017年6月時点で247万人と過去最高。正社員やアルバイトなどの形で働いている外国人就労者も108万人に上っている。産業界が外国人労働者を求め、その需要に応じる形で外国人労働者が増え、その結果、在日外国人も増えている。移民は労働者不足と少子高齢化対策のために必要だと思うが、これは日本人と同じ待遇という条件の下での話し。 もし移民が不当に低い給料なら企業経営者は喜んで社員とするだろう。ブータンの若者は発展している国から引っ張りだこだそう。英語も日常的に話せるそう。インドの看護学校で看護師の資格を取り韓国や台湾、中国に行って働く。日本へは殆ど来ない。ブータン、ベトナム、インドネシアから外国に行って働く人は日本よりも断然、韓国や台湾が多い。給料では日本よりも良いところもあったり、ヘイトや外国人排斥の雰囲気の弱いのも良いと。 中国からも日本より国内企業のほうが給料が高いところもあって国外に出たがらない人も増えたと。アジアの若者にとって日本ブランドはすっかり落ちてしまったよう。過酷な労働に加え給料が韓国や台湾より低い職場も。今や中国も高給職場の出現で狭き門。知らぬのは日本人のみ。高い技術を持つ外国人は日本では絶対に働きたくない!アジア11カ国中で最も魅力がない国に!世界では63カ国中51位。 ビッグ・データ、人工知能、IoTなど先端IT分野で、2020年には約4万8000人の人材不足に直面する見通しで、情報セキュリティ分野は約19万3000人が不足する見込みなど、政府も分かっていて対策をしていない。日本は、飲食店の店員や建設作業員のような単純労働をする外国人には、就労ビザを給付していない。人手不足が日本経済の最大のボトルネックになった現在も、 日本の外国人政策の基本方針は単なる労働者不足への対応として、外国人の受け入れを考えることは適当ではないという1990年代の方針を踏襲したまま。20年以上も経過して見直されていない。要するに単純労働者は労働市場と国民生活や経済社会に多大な影響を与えるという理由が未だに生きている。単純労働ビザができれば、就労目的で来るいわゆる偽装留学生や、技術を学ぶという名目の下で職場を選ぶ自由すらない技能実習生と いった問題が改善できるかも?日本の企業は、働き手を求め、海外に日本で稼ぎたいという人がいる。単純労働ビザがあれば、留学生や実習生といったねじれた制度をあえて選ばなくてもよい。しかし現状は雇用契約を締結した上で実務研修中の研修生が労働関係法令上の保護を受けられるようにされ、労働者とされていなかった研修生時代にも低賃金労働者として残業代未払等の問題の多発や研修中に事故が発生しても労災保険の適用が受けられないなどの弊害から労働法の適用をすることで解決を目 指すようになった。自由意思で職業を選択し、労働契約を結ぶことが出来る一般の労働者と同列に扱うことで安易に問題解決を図ろうとしたものといえる。しかし経営者によっては弱い立場の技能実習生がさらに痛めつけられることになった例もある。シンガポールは多くの外国人労働者を受け入れていることで知られているが、それはリー・クアンユー元首相が外国人も戦力として評価し、彼らの力も借りながら国を興すと明確に決断したことによる。それに比べると、日本は手遅れの状態で、決断がまだ下されていない。それは外国人労働者だけでなく、いろんな問題で重要な決断が先送りされているようにも思う。製造業でいえば、部品を作る中小企業でモノが作れなくなって、その結果、完成車メーカーで車が生産できなくなるということが起きる可能性も出てきている。 ウェディング会場で1日3回も素敵なパーティーが開ける現実の裏側には、ウェディング会場に特化した皿洗いの専門業者といった企業がある。そういう企業ではすでに外国人労働者が働いている。日本語がそんなにできなくても問題がないし、一生懸命頑張ってやってくれるということで。 パーティーに来た人の目に触れることはないが、ウェディングも外国人の働き手によって支えられている。外国人が良いと思って求人を出している企業というのは少ないし、日本人の若者はどうしても応募してくれない。 高齢者も主婦もいまひとつ採用に結びつかない。そういう中で、消極的に外国人を選択している企業が多い。シンガポールでは建設現場は体の強いバングラデシュ人が向いている。造船や看護だったらフィリピン人というふうに、各国の人材の強みを重視している。 米国やオーストラリアのように移民を受け入れ、いろんな考え方をミックスさせ、新しいものを生み出せる国が面白い。日本語を完璧に話せるようになってから日本に来てほしいという考え方は止めて、それこそonーtheーjobで拙い日本語でも良い位に。 改革は中心部では起こらない、辺境で起こる、経営学の言葉もある。学問も同じだろう、center ofexcellenceから遠く離れたところにいる研究者にこそチャンスがある?主流からは外れているぐらいの位置がちょうどいい。


 < これが、Dr.Mの2008年2月20日、還暦を迎えての揮毫 >

・人を好きになり 人を愛して 人を愛そう

・学而不厭、誨人不倦 − まなびていとわず、ひとをおしえてうまず

・学然後知不足 教然後知困 − 学びて然る後に足らざるを知り 教えて然る後に困(くる)しみを知る


以下は「還暦前の反省」 - 2007/2/20 です
       − 他4編掲載中 −

さて59歳、団塊の世代と言われているが、輝く世代でもないし、これからも輝きはしないだろう。日本のために何が残せ るかをずっと考え行動してきた世代と思う。小学校は教室が足りず、一クラス66名もいた。先生も皆の顔など覚えてもい ないと思う。
研究は戦争だ。戦争では兵隊だけでは勝てない。どういう研究をすれば勝てるかを常に考える必要がある。そこで学生 時代に参謀というのが気になった。第二次世界大戦に何故日本が敗れたのか?物量が劣っているのにひたすら突っ 込めだけでは犬死にだ。やってみないと分からないというのは考えるのを止めた時だし、大体はこうすれば勝てるという のがあってこそ、やってみる、ということだろう。
この間、実験はいくらでもやれるが、発表は一度だけと言った。何分かの発表時間に命を賭けて、終了時間と共にご静 聴有り難うございました、と言いたい。しかし一期一会だからこそ、質問に対してはあらゆることを考えて準備しておくと いうのが、それまでの苦労を無駄にしない、手法だ。
実験は自分の考えを革新するために行うのであるが、時折目標を失うこともある。それが面白いというの人もいる。確か に失敗から生まれたノーベル賞もある。しかし大体は出口を求めるために行っている。出口がなくて彷徨い続ける実験 もある。

結果を予測して行う実験を行うのは優しい。論文量産のための実験となる。何も問題ないが、来る日も来る日もうまく行 かない実験もあった。コークスの引っ張り試験片作りがそれだ。途中で応力が発生して切れてしまう。まるで加熱過程で 引っ張り試験を行っているよう。こういう時にどういうアイデアを出すかが勝負となる。加熱だけではなく、冷却も考慮、石 炭を詰める時に周りに油紙という手も。壁にぶつかった時こそ、真価が問われる。 実験をしながら、自分は今修行僧という気持ちになったこともあった。自分を鍛えるために実験装置を作り、実験する。こ の時こそ、真剣勝負であり、武士として生きることが要求される。戦争状態であり、前線離脱は許されない。物にとりつか れたような顔つきをしていたと思う。口先だけでは生きれない世界であり、どれほど真剣にやっても結果が出ない時もあ る。しかし大体は実験装置を作った時点でどういう結果が引き出せるかが決まってしまうものだ。 結果をある程度は予想していても、極大や極小が出てしまうこともある。そういう時に師匠連中がやってきて、結果見せ ろと、極大の理由は?と聞いてくる。まずい図を見せてしまったと思っても遅い。説明も適当にごまかすが、自分で納得 できない。この時こそ、自分の不足を感じる時はない。冷や汗をかく、逆に言うと、冷や汗をかかないで実験しているよう では、事務職だ。冷や汗を毎日かけるように自分を追い込むことが重要だ。

実験や計算から解放されても浮かない顔をしているのは、そういう時だったのだろう。開放されることがないように自分を 追い込むことができてこそ、本物だ。
喜怒哀楽を共に出来る研究室の連中がいたからこそ、生きて来れたのだろう。助手時代につきあった学生は、よく言 う、あの頃はキチガイでしたねえ、と。そういう時代がなければ、本物になれないと思う。表面的につきあうのでは面白く ない。今までも本音で生きてきたし、今後も本音で生きることに変わりはない。今後も宜しく。


            これが、Dr.Mの前回作 「嘆きの豆腐」 - 2001/2 です
 


氷に浮かぶ冷や奴、酒のつまみに呑み人、楽しみ
されど、生姜に浸る冷えた醤油のしょっぱさが豆腐の味をなくさせ
呑み人、失望し、
葱の固さに豆腐をなじる呑み人もいて
冷や奴も氷と共にさめざめと泣く

親子冷や奴なる食べ物も
納豆のまずさに豆腐も死に
豆腐をそのまま食すにも豆の味より添加剤が強く
風味もなく

呑み人、一人ガツガツと食す
何に怒りをぶつけるでもなく、ひたすら食す

醤油が蕎麦つゆなどという甘いものに代わり
豆腐の味も分からずに
ただ食す時代かと嘆いてみても
豆腐も変わった

昔の固い豆腐を思い出しながら
漆塗りの箸で崩しながら食した時代を懐かしみ
固い豆腐を食すも
苦汁が多いだけと諦め
木綿豆腐を求めて、さまよう呑み人


            これが、Dr.Mの処女作 「かりんとうの詩」 です
                           − 他2編追加しました −


 お袋とお菓子  95-12-29

 ある日曜日の昼下がり。テーブルの上にかりん糖がおいてある。これは子供達も食べない俺とお袋しか食べない。だって黒くにょきっとしていて気持ち悪いのかも知れない。とにかく食べる人が少ないことは良いことだ。安心してゆっくり食べられる。

 幼い頃、こんなものしかなくてのお菓子。一番の客のもてなしは生菓子とすれば、これは実に駄菓子である。よくぞ云ったものである、ダガシと。黒砂糖の焦げたような臭いがたまらない。幼い頃は、変な砂糖と、三角形の固まりになっているものにかじり付いたりもした。おやつとして何もないのだから、何でもかじったものだ。それがかりん糖になっても菓子としての地位は変わらない。

 かじると、黒砂糖特有の臭いが、そしてがしっという音と共に、かりん糖の運命は儚くなる。最近のかりん糖は大きくなったものだと感じながら、一つでは味が戻ってこないなあと云いながら。幼い頃には、味わうなどという余裕もなかった癖にである。

 さて、昼下がり、お茶を請求する。お茶が入る。一すすりする。かりん糖をかじる。がさっと音を立てながら。そしてまたお茶を一すすりする。残りのかりん糖にしゃぶりつく。2口で終わる運命である。手についた砂糖のような、粉のようなものを灰皿の上でこすり落とす。ついでにタバコも吸う。うまい、タバコが。お茶を入れたお袋は本を見ながら音を聞いている。まだ勧めるのは早いと思っている。タバコを吸い終わると、お茶をまたすする。何か口が寂しい。かりん糖の袋の口が開いている。手が伸びる、すばやく袋のかさかさっという音をしないようにかりん糖を引き抜く。技術だなあと思う。でも食べる音がする。

 そんなに甘いのを食べて太るよいう声がする。なあに少しだよ、少しと悪いことをして申し訳ないような声で云う。その罪滅ぼしもあってか、お袋も食べたらと勧める。そうね、と云いながら食べる。ほら自分も食べたいのではないかと心で思う。お茶をすばやく一すすりして、残りのかけらも食べ尽くし、3個目にとりかかる。ほら自分も食べているからけちを付けられないだろうと思いながら。お袋の1個目と3個目を同時に終えるような早食いを行う。もはや技術よりも芸術に入る。お茶もすする。タバコもついでに吸う。太るなあと思いながら、4個目を狙っている・・・・・。

 袋にもう2個しか残っていない。この2個を独り占めしてしまおうと、作戦はと考える。まず1個目はお茶を口に入れておいて食べれば何を食べているか分からないだろうなあと、2個目はゆっくり味わおうと・・・・。

 もうない、あの黒茶のかりん糖は袋にない。袋をそのままにし、ゆっくりタバコを吸う。お袋の目が袋に注ぐ、結構鋭そうな目だと、知らぬ振りして見ている。あらもうないじゃない、一人で食べてしまったわけと詰問する様子。うまかったねえと話をそらそうとするが、一つしか食べていないのにと、鋭く目の火花。いやいや懐かしくておいしくてと弁解にもならないことを口にする。太るじゃないのと、敵もひるまない。この追求を打ち切るように、また買ってくればよいじゃないのと。

 かりん糖がテーブルの上にあるのが悪いのではないか。無性に食べたくなる。今は昔よりも物があるが、やはり昔の駄菓子があると、つい手が伸びる。生菓子は太りそう、でもかりん糖はと弁解しながら。しかし王様は生菓子だよなあと信じている。かりん糖に第2位の菓子の地位を与えようかと思いながら、反省もなく、お茶をすする。


 第2作 − 糞  95-12-29

 糞にはいろいろある。細い糞も、太いのも、そして形にならないのも。痔を悪くしたのはいつからだったろうか、痔を悪くすると、日々形も色も変わる。健康なときには色と形で、黄色と太いと、健康だと叫べる。時折、色が黒くて、細いと何か調子が悪いと、ふさぎ込む。

 家のトイレには洗浄機を付ける。本当はこれでなくて、洗面器にお湯を汲み、そこに尻を入れ、屈伸運動をするように洗面器の中で尻を上下するのが一番。洗浄機のはジェットのようで穴の中にあるいぼ痔を痛める。洗面器の中で左右にも振れると最高なのだが、これは尻の大きさで無理である。しかし、これも一度では駄目で二度は最低必要である。三度の尻振りは予備洗い、本洗い、すすぎという感じで最高のすがすがしさを得て幸せになる。その後、バスタオルで股を広げて、上下に振り、尻だけにバスタオルをたたきつけるようにすると、清々しく、至福の時を迎えることになる。パンツも喜んでいる様子が手に取れるようだ。

 洗浄機は、まず強さを弱に調整する。それで少し出る。そこから一寸強にする。これで良いのだが、時折、糞切りが悪く、穴に残っている時には、紙に黄色のものが付着する。そこで、次に、ジェットを出しながら、尻を前後左右に振る。振り続ける。これをすると、大抵の糞切りの悪いものは、直ちに消滅し、きれいな水だけがついた紙を見ることになる。

 ゲリークーパーの時、余り酒を飲み過ぎると、決まってクーパー。その時は、射出方向が一定でも早い流れに便器の下に潜む水が吹き飛び、その水と一緒にクーパーが尻に跳ね返る。どこに跳ね返ったのかを知ることはできない。推算できない。この時に一番良いのは洗面器なのだが、大抵家族に嫌がられる。当たり前かも知れない。そこでまず適当に洗浄し、紙を尻全体に当てられるように大きくし、それを尻に付けてみる。大抵、穴の場所と違う2カ所位に黄色のシミがある。そこで、ジェットを当てるように尻を頻りに振り続ける。ひたすらである。そして、爽快になる。

 家のトイレには換気扇がない。天井に弱い吸引機だけである。お袋は昔から便が定期的に出ない人で腸に貯金している。腸に滞在すればするほど、臭くなる。宿便とは良く云ったものだ。お袋は事後ドアを閉める。開けて置けと云うのに、閉める。ゆっくり出ていくよと云って。朝、二度糞をすることに決めている俺としては、その間にお袋が挑戦することになると、臭いがつらい。脱臭の代わりにタバコを吸う。

 二度の糞。糞切りが悪くなったこと、洗浄機のない場所で糞をしたくないなどで、二度することに決めている。本が読める。しかし、1回あたり長くても5分にすることにしている。そのため、ゴルフに行く時、朝早く出張では、出かける1時間前に起きる。まずヨーグルト、ついでタバコを吸いながら糞、新聞かTVニュース、飯、2度目の出るのをひたすら待つ、2度目の糞、そして着替え、出かけるを繰り返す。朝早くから、トイレの音はたまらないかも知れないと思い、お袋は小便を流さない、いいよ、流せというのに。俺がすぐ目覚めるからと云って。俺は流す、音など、糞が出る思いしたら、大したことないと。

 旅行の時、ホテルなら結構。トイレのそばにシャワーがある。皆で旅館は困る。考えが走る。お風呂がある、トイレからこの位離れている。それなら浴衣の下には何も付けず、糞した尻のまま風呂に入ろうっと。他人の迷惑は省みないのか?大丈夫、風呂に入る前に、一応は湯を身体に当てる。そして風呂に入る。落ちてないじゃないの、そうなのよ。どうするの?そのまま静かにしている。でも人がいなくなると、尻線を湯の高さにしてお湯の中で尻を振る。汚いって、その後見ると、黄色いのは、浮かんでもいないし、沈んでもいない、どうしたのかなあと思いながら、身体を尻を洗う。お湯で尻を振ってもとれないようだと結論。

 団体旅行は大変です。できれば避けたい。他の人に迷惑を掛けないためにも。団体旅行で朝見かけたら、順調ですかと声を掛けて下さい。気むずかしげな顔をしているか、晴れ晴れとした顔をしているかが分かるでしょう。今日も糞で悩んでいますと。


 第3作 − 割り子蕎麦  96-2-19

割り子蕎麦 蕎麦に対する思いが最近強くなった、1週間も蕎麦を食べていないと蕎麦を食べたくなる。蕎麦を食べだしたのは物心がついてすぐだったと想う。しかし子供の頃は、ラーメンに蕎麦は勝てなかった。親も蕎麦よりもラーメンだったような気がする。父親の年を推し量ると、42才位の時(この年まで一緒に暮らし、このあと寄宿舎に入った)でも蕎麦の良さを未だ分からなかったのではないか?実際、俺も蕎麦を食べたいと意識するようになったのは、42才過ぎではなかったろうか?

 何故、40過ぎでしか蕎麦を理解できないか?健康に自信がなくなると、脂っこいものを摂りたくなくなるのと、同時進行するのかも知れない。その辺でラーメンから蕎麦に移行する。

 ある時、千葉市へ出張した時に、修士のSとNという学生にざる蕎麦をおごった。Nという学生の勢いの良いずるずるっという音、この程度ではずるずるに悪い、ズッルズッルという、けたたましい(この表現が合う)音と共に蕎麦が飲み込まれて行く姿に感動を覚えた。お前、蕎麦の食い方うまいなあと、Sと一緒にそれでは我々もとズルズルッと。どうもリズム感が不足と。こんな音だして家族で食べたらすさまじい光景だろうなあと思い、お前の家では皆ズッルズッルとやってんのかと聞いたら、そうですと澄まされた。

 考えてみたら、子供の時には、サラリーマンで米櫃も空っぽの時もあり、飯代わりに蕎麦やうどんが出た。そのため汁がお茶碗の下の方に存在感少なく蕎麦に浸る程度であり、蕎麦を米代わりに食べた。今のように汁に蕎麦が泳いでいるようなことはなかった。蕎麦が青息吐息で詰まっているという状態であった。それに醤油が強く、たれの味も単純だったようである。今でこそ蕎麦8:小麦粉2などで蕎麦が出来ているが、昔はうどんも蕎麦も余り区別なかったような気もする。食生活の貧しさかも知れない。しかし体験で云えば、きちんとした味はラーメン位であったろうか?

 割り子蕎麦を初めて食べたのはいつのことだろうか?多分、大学生になってからと思う。友人にSというのがいて、今県庁にいるが、蕎麦好きで、とにかく飲むと蕎麦かラーメンを食べないと飲み会を終了させない。昼間も時間があると蕎麦。昼間蕎麦を食べる時に、ざる蕎麦では腹が減る。しかも単純に蕎麦だけを味合うだけだよなあ。それでは天ぷらを付けるか?何か面白いのないかとメニューを探していたら、割り子蕎麦と出会った。単なるざるよりも気が利いている。天ぷらではご飯の方が、割り子は、ざる蕎麦のように蕎麦を楽しませ、しかも大根下ろしやとろろも味合うことができる。言うなれば山菜のデパートを盛り込んだ蕎麦であり、値段も高い。これは良いのと巡り会えた、これからも食べてみよう。

 しかし、割り子もであるが、蕎麦のおいしいところはなかなかない。蕎麦の王様のような値段なのにである。割り子ではなく、ざる蕎麦のように単純な品で食べておいしいと記憶に残っているのは、高くて少ない量の上野の駅前の蕎麦、曽根田の峰亀、大久保のアラキ、信夫山の中腹の茶屋、学士会館の近くの出雲屋くらいかと。神田の藪蕎麦はまずい、昔はおいしかったのに今はみるも無惨、そばにお汁粉屋があるので口直しが必要。

 この前、遠慮のない友人と蕎麦屋に入った。TVにも全国放送で特徴のある蕎麦屋ということで出演したこともある蕎麦屋である。これで一緒に行くのが2度目であり、以前入った時はまずいという印象であった。敵は漬け物を散らした温かい蕎麦を小生は割り子を頼んだ。来るまでの間、こちらはタバコをふかしていたら、おもむろに遠慮のない言葉が出てきた。敵「前から云おう云おうと思っていたが、今日は云わしてもらっていい?」俺「おうーっ」何か思い詰めたような深刻な顔をしている、ふーむ殊勝にも何か自分の言動を反省でもしたいのかと鷹揚に構える。敵「何故、割り子など頼むの?」俺「昔から食べてきたし」敵「割り子位、割りに合わない品ないよ」俺「どこが」敵「わけのわからない小さい器の中で乾燥してひからびているでしょう、ぱさぱさしてどこが旨いの」俺「・・・・んっ(その通り)」敵「値段も高いわりにまずい」俺「・・・・んっ(そう云われると最近うまいのにぶつかっていないなあ)」敵「大体、蕎麦を味わうなら割り子は邪道だ、天ざるも邪道だ」俺「・・・そりゃあー(その通りだし、良いところをついてくるなあ。しかし馬鹿野郎、蕎麦だけを味合うならたれだって不要じゃあないの、たれだって最近いやに甘いのやら、しょっぱいのといろいろあるではないの)」敵「なんで、ざる頼まなかったの」俺「・・・ムムーッ(なんで理論的に食う物を頼む必要あるのか)」敵「大体、蕎麦通を気取っているのに、ざるを食べないなんて、割り子は邪道よ!」

 そのうち、注文の品ができたと見えて、割り子来る。敵「こちらに食わせなくても良いよ(いつもお互いのを味わうようにしている)」俺「それでは戴きます(何かまずそうに見えてきている)、とろろの卵食うかい?」敵「いらない」俺「とろろはすする(敵の大好物であるので、攻撃を止めようとして誘う)」敵「蕎麦を入れて一度食べてからでいいよ」俺「どうぞ」敵は黙って、すする。作戦がうまくいった、これで少しは大人しくなるかと。とろろの下にナメコ、まずい。その下にワラビ、まずい。その下にゼンマイの煮付け、その下に舞い茸の煮付け、まずい。

 それを見ていた敵「そんなちんちくりんなもの食べる気が知れない」俺「ううっっ (欠陥商品のように云うかいな)」敵「そんなもの全部袋から出したモノで、自家製ではないじゃあないの」俺「そのようですね(とまるっきり蛇に睨まれたネズミのようになって、何だこの脂ぎった色はと思うも、火に油と思い言葉を、蕎麦ではなく、のみ込む)」

 確かに、自家製でなくてどこでも袋詰めで売っているのは料理屋としてのプライドが足りない。人に出すなら少なくとも自家製にしたいと日頃から思っているので、全く同意。

 まずいのが余計にまずくなってきた。さらに食い続けていると、敵「割り子は蕎麦屋のメニューの中でも値段が最高だよ、その割りにまずい」まあ値段は蕎麦の王様であっても、まずいなあ。食べ終わっても、敵は何か云いたそうな顔。蕎麦湯があったが、飲まずにほうほうの体で車に乗り込む。これ以上、云わせると、声は大きくなるだろうし、店から追っ払われるだろうなあ。店の人、敵が俺を怒っているように見えるらしく、同情するような顔で見ていやがる。馬鹿野郎、お前らの巫山戯た料理のお陰でせっかくの晩飯がパアーだぞ。同情するなら、きちんとした蕎麦よこせ!これだけ、敵に云われて怒っても良い蕎麦を出せ!蕎麦屋として恥を知れ、恥を!店の看板と暖簾もって行くぞ、馬鹿野郎。なんで俺が説教されなければいけないんだ!敵がおごるということで、店の支払いを済ませて遅れて車に乗り込んで来て、「あんな割り子に金を払うかと思うと、情けなくて」「一緒に食べるなら、もう頼まないでよ」そこまで云うかい、蕎麦湯も飲んでいないのに。瑞々しい割り子で自家製の5段重ねを行い、自信あるよという蕎麦屋ないもんかねえ。蕎麦の王様かデパートだと自信もって云える店。そこに敵を連れていって、どうだっ!参ったかと云わせたいねえ。でも割り子蕎麦を食うのは一人で確かめないといけないわけで、蕎麦食うのも苦労することになると、冬の空を恨めしげに眺める日であった。

 蕎麦屋よ、頑張れよ!仙台にはロクな蕎麦屋しかない。値段相応の、敵のいうコストパーフォマンスから云えば、大町の藪かなあ。次の日、敵に会ったら、昨日はせっかくの晩飯台無しにして御免だと。何が台無し。遠慮がないというか、この文章を全国の蕎麦屋に見せたいなあ!

 でも一言「あああー!割り子か・・・」くくくっっと泣き崩れる。

 因みに、俺の割り子の中身。卵を薄く焼いて細切れ、砂糖・胡椒をたっぷり入れるので焼くのが難しい。挽肉のそぼろ、砂糖とショウガをたっぷり入れてつゆがなくなるまで炒める。大根下ろし。とろろ。最高の料理です、これは無料ですので、一度味わって戴ければ、巷の蕎麦屋も真っ青です。是非、賞味して下さい。


 「俳句、川柳コーナー」

中年に 夕暮れの ネオン優しく

梅雨時の ネオンぼんやり 都合良く

{批評特になし}

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古き桃 手に取り眺め 頭掻き

[批評孤児]表面は、化粧で下地白く、頬に紅をさしあたかも桃の風情であるが手に取れば、押し寄せる年齢に抗す術もなく張りを失った女の内実が古き桃として、己の手に伝わり目より手により教えられた情報に、戸惑い少し落胆し、やっぱりなと思いもう一度目に眺めさせ[腐りカケが一番美味しい時]理論でも追い付かない程の[モノ]を相手にしてしまった己に対して、頭を掻いてしまうしかなかったMバショウの情景が目に浮かび秀逸でした。

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標題: 夕べのコト  97-8-29

古き乙女の 深情け 指に残り

一人から 情け恨まれ 頭掻く

もう一人 立たずに嘆き 淋し夜

  [Dr.Mに捧げる返歌一句]

   メンデルも 捨てた皺豆 拾い食い

          一夜で2個は 名古屋のせいか

標題: ペンショナー  2015-2-19

鳴き雪に 玉蒟蒻 こぼれ落ち

年老いて玉コン落としながら食べる、こうなっている状態ですねえ


ドクターM写真館