001  (2/25, 2002)=ウディ・アレン、<<小人生>> と <<大人生>>

今日からこのページで、私 F-red bill("フレッドビル" と呼んでやって下さい)は、"人生の意味" という、或る意味で恥ずかしいテーマを巡って、出来るだけ素直に考えてゆきたいと思います。

‥‥どうしてかと言うと、まぁ、不図、そんな気持ちになったからです。刺激のない、平凡な、ぼんやりした考えですが、暇だったら付き合って下さい。

第一回の今日は、私の好きなウディ・アレンの人生論(?)のことを、ちょっとだけ、考えてみます。

ウディ・アレンの映画の主人公は、人生は基本的に無意味だと考えています。こう判断したのには、強力な理由があります。それは "宇宙膨張説" です。宇宙は膨張しているか、または、そのうちに膨張を開始する、とアレンは考えます。彼によれば、この膨張は、やがて大爆発につながります。何もかもコッパミジンになり、全てが無くなるわけです。それで、人が人生で何をやっても、どんなに頑張ったところで、何の意味もない、ということになります。

では、宇宙の大爆発が起こらなければ---これという証拠はありませんが、私としては、大爆発が起こる可能性はかなり高いような気がします。まぁ、だいぶん先の話ですが---、人生に意味があることになるかと言えば、そうでもなさそうです。アレンの映画の主人公は、人生は辛くて惨めなことばかりだ、とボヤきます。つまり、膨張と大爆発に関係なく、人生は基本的に苦悩なのですね。

けれども、アレンは同時に、人生をせいぜい楽しもう、と言います。楽しいことが全く一つもない次第(わけ)ではないから、こうした楽しい出来事を大切にしよう、ということでしょう。

ここまでをまとめると、人生は無意味だけれども、意味があるかどうかに関係なく、とりあえず楽しく過ごせるように努力しよう、ということになるのだと思います。アレンがコメディを自分の作品の中心に置いているのは、そういう次第なのでしょう。

アレンの人生論についての、以上のような私の理解が正しいとすると、彼は人生の意味というものを、二つのレベルで考えていると言っていいでしょう。つまり、人生を全体として、大きな一つのまとまりと考えた場合の意味(これを <<大人生>> の意味と呼ぶことにします)と、人生のなかの一つ一つの具体的な出来事の意味(<<小人生>>の意味)です。

<<大人生>> は大人(おとな)の生、<<小人生>> は子供の生、というように考えてもいいかも知れません。これは半分、冗談だけれど。

<<大人生>> の意味は、基本的にありません。ゼロです。人類の歴史は、所詮は大爆発に終わるのだし、人生はトータルで見ると、苦悩です。けれども、<<小人生>> の意味はゼロではない。楽しいことはときどきはある。---当然アレンは、<<小人生>> で楽しいことがあれば、その分だけ、結局は <<大人生>> にも意味があると言える、と考えている次第ですね。

楽しさで人生の意味を計る、或いは、人生の意味の問題を、人生の楽しさの問題として考える、というアレンの考え方は、神様とあんまり関係がない、というところが、特徴と言えば特徴でしょうか。つまり、たぶんアレンは、神様が人間に課した目標というようなものを、信じていないのです。こういう目標があるとすると、この目標を達成することが人生の最大の意味である、ということになるでしょう。

そして、このような人間の "使命" の達成は、必ずしも普通の意味で楽しいことだとは限りません。例えば、人類の幸福のために自分を犠牲にする、というような、マリア・テレサのような人生を、普通の人たちは、楽しくて仕方がなさそう、というふうには感じないでしょう。たぶん、マリア・テレサが送ったような人生には、それに相応しい"次元の高い" 喜びや楽しさがある筈だけれども、おそらくウディ・アレンは、基本的に、そういうふうなことを楽しさだと考えてはいないと思います。この感覚は、現代の日本のわれわれの大多数の感覚に近いとも言えます。

映画 "スターダスト・メモリー" の最後でアレンは、だいたいこうなふうに語っています---天気が良くて、ルイ・アームストロングのお気に入りの歌が聴けて、最愛の恋人が自分に微笑みかけてくれる、そういう瞬間が(ときどきでも)あれば幸せだ。

‥‥そうですよね。少なくとも、これが間違いだということにはならないと思います。