〜 いつもここにある 〜

人間には、思い出というものがある。
それは、楽しい思い出、美しい思い出、悲しい思い出、辛い思い出……様々だ。
いつもは心の泉の底に沈んでいる沢山の思い出たち。
それらは時折、底からぷかりと浮かび上がり、泉の主に思い出をよみがえらせる。
まるで「忘れないで」といわんばかりに。

大切な、大切な思い出たち――それは永久に忘れられる事はなく、いつも心の底にある――



季節は春。路地を駆け抜ける風も、冬独特の刺すような厳しさが和らいで、柔らかい春の匂いを運んでくる。
「今日はいい天気だねえ、小ラッシー?」
風に髪を乱されることも心地良いのか、仔犬を連れた、顔立ちの整った少年は
機嫌よくいつもの散歩コースを歩いていた。
その横を姿勢正しく歩く、シェットランド・シープドッグ――小ラッシーのことだ――も、気持ちよさそうだ。
「今日は、いつもより遠出してみようか」
千尋は左腕を少し上げて腕時計をちらりと見、時間を確認した。
千尋の言う事がわかるのか、小ラッシーも「ワン!」と元気のいい返事をする。
「んじゃ、行こっか」
学校の中ではけして見せることのない笑顔を小ラッシーに向け、
千尋は足取りも軽く隣町へと続く道を進んでいった。

「よし、小ラッシー、GO!」
川原についた千尋は、小ラッシーから首輪をはずしてやり、自由に遊べるようにしてやった。
小ラッシーは初めて訪れた場所に興奮しているのか、力一杯に辺りを駆け回っている。
千尋はそれを眺めながら、ゆっくりとその場に腰をおろした。
「……久しぶりだね。ここに来るのは……」
千尋は懐かしそうに目を細めた。
実はここは、小ラッシーの前に飼っていたラッシーとたまに散歩に来ていた所だった。
今、目の前で楽しそうに遊んでいる小ラッシーと同様、ラッシーも嬉しそうに駆け回っていたものだ。
「ラッシー……」
無意識に、口からその名前がこぼれた。小さい頃からずっと一緒に時を過ごしてきた、かけがえのない存在。
けれど、去年の夏に……逝ってしまった。
小ラッシーとラッシーを重ねる気は彼にはない。
ラッシーはラッシーであり、小ラッシーは、既に彼の中で別の大きな存在となっていたのだから。
今日、ここに来れたのも、小ラッシーがいてくれたからかもしれなかった。
しばらく物思いにふけっていた千尋だったが、小ラッシーの声が聞こえてこない事に気がついて、
腰を浮かせて、辺りを見回した。
「小ラッシー?」
しかし、そこに小ラッシーの姿はどこにもなく、千尋は呆然と立ち尽くした。

どのくらい、捜したのか――それすらもわからないほどに、千尋は小ラッシーを捜し回った。
額にはうっすらと汗がにじんでいた。
珍しく息を乱している彼の顔には、焦りの色。
時間が立てばたつほど「小ラッシーがいない」という喪失感が千尋の中で膨らんでいく。
実に危険な状態だった。
「小ラッシー……」
絞り出すような声で、名前を呼ぶ。けれど、返事は返ってこない。
「ラッシー、どうしたらいい……?」
千尋は弱々しく言って、最初にいた川原にぺたりと座り込んだ。嫌な事ばかりが頭をよぎる。
誰かに連れて行かれていないだろうか、車に轢かれていないだろうか、もしかして、もう――
千尋の中で、何かがぷつり、と切れた音がした。感情が体中に渦巻き始める。
小ラッシーまでいなくなってしまったら、自分はどうなるのか?
ラッシーを失った時の喪失感がよみがえる。
千尋の頭の中で、ラッシーが逝ってしまった時の記憶が、まるで
ビデオテープを早送りで再生しているような、そんな感じで次々と場面が移り変わる。
体の衰えが目立ってきたラッシー。
気がつけば、臥せることが多くなったラッシー。
どんどん弱っていく身体を自分にすり寄せてくるラッシー。
死期が目の前に迫り、苦しそうに痙攣を繰り返すラッシー。
そして、ただ眠っているだけのような穏やかな顔で息を引き取っていったラッシー……
「あ……」
絶望と喪失感に千尋が完全に飲みこまれそうになったその時、
「ワン!」と元気そうな小ラッシーの声が耳に飛び込んできた。
ゆっくり振り返ると、そこには驚いた事に、小ラッシーを抱いて立っている小林吹雪の姿があった。
「ふ……ぶき、チャン? ……小ラッシー?」
千尋のものとは思えない声で名前を呼ばれた吹雪は、困惑した顔をしながらも、努めて明るく話し掛けた。
「このコが、小ラッシー? 見るのは初めてだけど。……母さんに頼まれて出かけた先で出会うなんてね。このコ、迷子になってたみたいで、心細そうにうろうろしてたのを……」
吹雪が言えたのはそこまでだった。突然伸びてきた千尋の腕が、吹雪を小ラッシーごと抱きしめたからだった。
「な、なななななな!?」
なにすんの、と怒鳴って千尋の腕から逃れようとしたが、やめた。
吹雪は見てしまったのだ。一年の夏休みにラッシーを失った、あの時と同じ瞳。
吹雪を抱きしめている千尋は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
かすかに震えているのが、吹雪に伝わってくる。
それほどまでに、小ラッシーのことを心配していたのかと思うと、吹雪は何故だか不思議な感情があふれてきた。
母性に近い愛情、それが一番合っているように思えた。
吹雪はそっと右手を抜いて、ゆっくりと千尋の背中に回した。
千尋は大きく目をみはったが、吹雪からはそれが見えるはずもなく、優しくぽんぽん、と宥めるように背中を叩いてやった。
「……良かったな。小ラッシー、見つかって」
「…………」
穏やかな吹雪の声を、千尋は無言で聞いていた。吹雪はかまわずに、続ける。
「ラッシーといい、小ラッシーといい、幸せものだね。アンタにこんなに大事にされてるんだから」
「吹雪チャン……」
ここでやっと、千尋は口を開き、そして抱きしめていた腕をゆるめ、身体を少し離した。
二人の間に挟まれていた小ラッシーが苦しかったと言いたげに「クゥン」とないた。
千尋は小ラッシーの無事な姿を確認して、頭を撫でてやった。そして、吹雪の顔をじっと見た。
「なんてカオしてんの。アンタがそんな弱気じゃ、天国にいるラッシーもきっと心配してるって。もっとしっかりしろ、って思ってるかもよ?」
「そう、かもね」
千尋は苦笑した。千尋には、吹雪の言葉が、ラッシーの言葉そのものだと思えた。
もしかして、吹雪が小ラッシーを見つけたのは偶然ではなく、ラッシーが導いてくれたのかもしれない。
だいぶ落ち着いた千尋の顔を見て安心したのか、吹雪は軽く笑って見せた。
「大切な存在がいなくなるって言うのは、本当に辛い事だけど、辛い事ばかりが残るわけじゃないでしょ? それまでに沢山の楽しい思い出も絶対残ってるはずだし。楽しかった事、辛かった事……全てがラッシーとの大切な思い出。そう思わない?」
「吹雪チャン……」
千尋が真剣な目で見つめると、吹雪は照れて、うつむいた。
「はは、なーんてね。偉そうな事、言ったかな?」
「そんなことないよ」
そう言って、千尋はもう一度吹雪を引き寄せた。
小ラッシーは既に吹雪の手から離れ、千尋の足元で甘えるように身体をすりよせている。
「ち、ちょっと!?」
再び抱き寄せられた吹雪はどきんとした。
さっき抱きしめられた時は、平気だったのに、今度は胸がドキドキして仕方がない。
吹雪が戸惑うのは当たり前のことだった。
今、千尋が吹雪を抱きしめる腕に込められた感情は、
先の小ラッシーと共に抱きしめた時とは明らかに違う感情だったから。
もちろん、吹雪は気付くはずもなかったけれど。
腕の中でもがく吹雪に、千尋は耳元で囁いた。
「もう少し……このまま……」
甘え、ねだるように言われて、吹雪は降参した。
「し、しょうがないわね。もう少しだけよ?」
「さすが、吹雪チャン」
ありがとう……と心の中で付け足して、千尋は更に少し、腕に力をこめた。
腕の中の吹雪は、とてもあたたかく柔らかかった。
吹雪を抱きしめながら、千尋はラッシーに思いを馳せる。
確かにラッシーがいなくなった時の思い出は辛いけれど、思い出はそれだけじゃない。
息を引き取った時のラッシーの顔はとても幸せそうだった。
吹雪が言ったように辛い事、楽しかった事全てが忘れられない、大事な思い出。
辛い思い出を否定すれば、ラッシーとの思い出全てが否定されることになるから。
忘れない。絶対に忘れない。ラッシーのことも、これから増えていくであろう小ラッシーとの思い出も……。

すべての思い出はいつもここに――この自分の中に永遠に、ある。

 Fin

written by Yuuki


【あとがき】
今回のお話は、カウント100達成イベントでキリ番を踏まれたしーのさまの「千尋メインで」というリクエストのもと、書かせていただきました。
千尋をここまで前面に出して書くのは初めてでしたが、わりとすんなり書けました。
私の中で「千尋はラッシーの事を本当に乗り越えているのか」という疑問があったからでしょうね。
でも、書いている途中ずっと夏合宿編の「もう何日寝てないんだ?」と吹雪に問われた時の千尋のあの顔が頭から離れませんでした。あの顔は、印象的で…切ないです。
最後に。今回リクエストしていただいたしーのさま、そして最後までお話を読んでくださった
皆様、本当にありがとうございました。

【管理者より一言】
 けんさん派の夕希さんにちーさんネタをお願いしてしまいました(^^;)
 でも、ちーさんの切なさがもよく伝わってきて、とって素敵な作品です。
 ラストも吹雪ちゃんを抱きしめているし♪
 ラッシーの死からやっとふっきれた感じがして、読後もすっきりとしました。
 お忙しい中、ありがとうございました。



Special Thanks!