気象庁もあながち馬鹿ではないらしい。
庭先のベンチに腰を降ろした黒峰は、煙草に火をつけながら思った。
実際、予報に違わぬ心地のよい昼下がりだった。
やわらかな陽射しが芝生を照らし、穏やかな風が前髪を撫でる。
「はしゃぎたくなるのも無理はない、か……」
諦めともつかぬ苦笑で呟き、先ほどから"水撒き"という
大義名分のもと、ホースを片手に飛び跳ねているアニーの背中に目を遣った。
9月からB国のカレッジに進むことになった黒峰の留学準備を
手伝うため、桜の季節に何度目かわからぬ日本来襲を果たした
彼女は、
『Anyway my college's in summer holidays, which means
(どうせ大学はもう夏休みに入っちゃったし、せっかくだから
I can stay here for a while and go back with you in fall.』
暫く日本でゆっくりして、秋にあなたと一緒に戻ることにするわ)
と宣(のたま)い、黒峰邸の客人として目下、ジャパン・ライフを満喫中である。
使用人たちともずいぶん打ち解け、桜から新緑へと季節が移ろう頃には、
彼女の存在自体が邸内でもごく当たり前の日常となっていた。
そういえば、初めて会ったのもこの庭だったな……。
当時の顛末を思い出したのか、黒峰の口許が緩む。
あのときホースを手にしていたのは自分の方だった。
よりによって侵入者が「女」だということに腹は立ったが、
その一方で挑むような蒼い瞳が、何故だか強く印象に残った。
自分は運命論者などではない。
だが、こと彼女に関しては考えてしまう。
『You've seen my cat? Pity if she has a cold』
(猫見なかったかしら? 風邪引くと可哀想だわ)
あのときから何かが始まっていたのかもしれないと。
冷たい言葉で容赦なく突き放そうとしたことも。
その度に胸の痛みを誤魔化してしてきたことも。
今となっては、ただ、懐かしかった。
紫煙に身を任せ、鼻歌交じりに軽快なステップで水撒きをする
後ろ姿を飽きずに眺めていると、不意に金髪が揺れてアニーが
振り返った。
「Hey, Kuromine. Look!!」
(ねぇクロミネ。見て!!)
弾む声で示す彼女の白い指先を辿り、黒峰は目を見開いた。
陽の気まぐれか、水のいたずらか。
濡れそぼった枝葉の隙間から、七色の弧がうっすらと顔を
覗かせていた。
それは、生まれたての小さな虹。
蒼穹のキャンバスに描かれる大橋のような雄大さはない。
が、そっと手を伸ばして触れたくなるような、可憐な虹だった。
「You see?! I made it! Now I did it !!」
(見た見た?!やったわ!ついに成功よ!!)
自らかけた魔法の効果を確かめるように、アニーは歓声をあげた。
その邪気のない笑顔が、真っ直ぐに心に切り込んでくる。
不覚にも一瞬、彼の呼吸が停まるほどに。
「……Kuromine? Anything wrong?」
(……クロミネ? どうかしたの?)
ベンチで固まったまま微動だにしない黒峰を訝しみ、きょとん、と
した顔で小首をかしげるアニーの仕草に、他ならぬ彼女自身こそが
原因なのだという自覚は微塵もない。
「You look like a kid, huh」
(まるで"キッド"【子供】だな)
「Am I? I don't think that's true」
(私が?それは違うんじゃないかしら)
数秒の沈黙の後、なけなしの理性とプライドを掻き集め、精一杯の
渋面で発した攻撃は、楽しげに揺れる蒼い瞳に、あっけなく
切り返された。
「Actually, I am not a kid, but a cat. Did you forget it?」
(キッド【子ヤギ】じゃなくてキャット【猫】よ。忘れたの?)
―――やられた。
小憎らしさと、安堵感。
いつのまにか、彼女と共に心に棲みついてしまったもの。
相反する二つの感情が既にもっと別の想いに進化していることに
気づきながら、それも悪くない、などと思う自分がいるのだから
手に負えない。
「You remind me that...Now I remembered」
(そういえばそうだったな……思い出したよ)
観念したように呟きベンチから立ち上がると、黒峰はゆっくりと
歩き出した。
ささやかな地上の虹を生み出した、金色の猫のもとへ。
FIN
Written by Meggy
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