Scene9 キミが呼ぶ時
(『おまけの小林クン』より)

 

 ある日の夕方。
 いつものように学校から帰ってきた千尋は、愛犬小ラッシーと一緒に散歩へでかけた。
 公園へと向かう途中、各種の商店が並び、夕食の買い物でにぎわう表通りから続く脇道の角で、突然小ラッシーは止まった。
「ワン! ワン!」
 鼻をひくひくとさせ、何かのにおいを嗅いだかと思うと、突然吠え出す。
「どうした? 何か見つけたのか?」
 軽やかな足取りを止め、千尋はしゃがんで愛犬の頭を撫でる。いつもであれば嬉しそうにするのだが、小ラッシーは脇道の先をずっと見ている。
「ワン!」
 もう一度大きく吠えた小ラッシーの様子に、千尋は何か嫌な予感を感じた。
「こっちに何かあるんだな?」
「ワン!」
 千尋の質問に承諾するように小ラッシーは返事をする。
「行くぞ、小ラッシー!」
「わん!」
 千尋は気になって急いで駆け出した。 
 表通りから1本入った裏通り。ほんの少し入っただけなのに、表通りとは違い、薄暗く感じる。
 そんな場所で、金髪や赤い髪、派手な服装の3人ほどの男達が誰かを囲んでいた。
 案の定というべきか、あまり関わりたくはない状況が繰り広げられようとしている。
 どうしたものかと思った瞬間。
「はなしてよ!」
 突然聞き慣れた声が千尋の耳に飛び込んできた。一瞬血の気が引く感じに襲われる。
「この声、まさか……」
 威勢の良いその声。
 その声を千尋が聞き間違うはずがない。
 普段であれば、校外で逢えてラッキー♪などと思うのだが、今はそうも言っていられる状況ではない。
 明らかに楽しくはない状況。
 しかしこのまま見過ごせるはずがない。
「くぅん」
 いつになく真剣な表情の主人の足下で、小ラッシーは小さくなく。
「よく見つけたな。帰ったらご褒美あげるからな」
 千尋はそう言いながら、ぎゅっとリードを握った。

◇ ◇ ◇

「だから、財布忘れて今から取りに帰るところなんだってば! 何度同じこと言わせるのよ。わからない人たちね」
「そんな嘘に騙されると思っているのかよ! 女だからって、容赦しねえぞ!」
「何が容赦しない、よ! あんた達、自分が何やってるかわかってんの?! 威張れるようなことじゃないでしょうが!」
「ごちゃごちゃいってないで、さっさと金出せって言ってんだろう!
 男が吹雪の細い手首に手をかける。
「きゃっ」
 身体を引き寄せられそうになったその時。吹雪の前に白い影がふわりと現われた。
「彼女に手出さないでくれる?」
 吹雪の手首を掴む太い腕を掴んだかと思うと、ぐいっとねじりあげる。
「いてててっ!」
 そう力を込めているわけでもないのに、男は悲鳴じみた声をあげた。
「大袈裟だなぁ。そんなに強くしてないんだけど」
 千尋は涼しい顔でそう言うと、ふいに男の手を放した。
「吹雪ちゃんったら、こんなところで何してンの?」 
 いつものように千尋は吹雪に微笑む。
 一瞬吹雪の表情に安堵の感が浮かぶ。そして思わず千尋の白いセーターの一部を握りしめた。
「なんだ、オメェ」
 3人のうちの1人がにらみをきかせて千尋に詰め寄る。しかし千尋はまったく気にもせずに飄々としている。
「通りすがりの者……じゃインパクト弱いかな。じゃぁ、このコの彼氏ってことで♪」
「だ、誰が彼氏よ?!」
「いいじゃない。この場合そう言っておいた方が効果的だって」
「なんの効果よ?! そんなの必要ないでしょ!」
 男達を無視し、この状況に合わない会話を二人は交わす。
 一見いつもの調子の言い合いに思えるが、千尋のセーターをつかんでいる吹雪の手は、かすかに震えていた。
「ふ、二人でイチャついてんじゃねぇよ!」
「イチャついてるつもりはないけど、そう見えるんだったらそうかもね♪」
「なにぃ?!」
 小馬鹿にされた感じを受けた男は、怒りの頂点に達しようとしていた。 
「ち、千尋…… 」
 今にも襲いかかってきそうな男達に、さすがに吹雪も心配になってくる。千尋は男達を怒らせようとしているとしか思えない。
「お前、このままで済むと思ってンのか?!」
 男が千尋を殴ろうと手を振り上げた時。
「ウ〜、ワン!」
 千尋に手をあげようとする男達を敵とみなした小ラッシーが威嚇する。
「ワン! ワン!」
 仔犬ながらに一生懸命吠える。そんな小ラッシーの頭を千尋は軽く撫でた。
「よしよし。小ラッシーはいいコだなぁ。でもこんなの食べても美味しくないからねぇ」
 この言葉に、さらに男達はワナワナと怒りに手を震わせる。
「はい、これ持って」
 千尋は立ち上がると、吹雪に小ラッシーのリードを渡す。
「な、なんで?」
「アイツらの注意がオレに向ったら、吹雪ちゃんは小ラッシー連れて逃げてね」
 こっそりと吹雪の耳もとで千尋はささやいた。角度によっては頬にキスしているようにも見える。
「ちょっと待っ……」
 千尋の意図していることを知った吹雪は慌てる。どうみても体格的にも差がありすぎる3人を相手に、千尋1人が対応できるはずがない。自分だけが助かって、などという状況を吹雪は納得できなかった。
 しかし無謀すぎる計画をやめさせようにも、それを止める時間は今なかった。
「この野郎……」
「あ、顔は殴らないでくれる? これでも美形キャラってことで通ってるから、顔を傷つけるわけにはいかないんだよね。もし傷でも残ったら……」
 一瞬で凍りついてしまうかのような冷ややかな視線を男達に向ける。そんな千尋の気迫に押されて男達は躊躇するが……。
「か、かまわねぇ! やっちまえ!!」
 3人の男達が一斉に千尋に襲いかかる。
 最初の一撃をかわし、千尋の手が吹雪の背中を押す。
「行け!」
 少し乱暴に押され、吹雪はよろめく。ここは千尋の言う通りに逃げた方がいいのかもしれない。しかし、吹雪の足はその場から動くことはできなかった。
 千尋は男達の攻撃を身軽に交わす。しかし3人を相手では限界がある。ついに男の1人が千尋の襟元をつかみ、その顔を殴ろうとした。
「ち、千尋!」 
 思わず吹雪が叫んだ瞬間。
「ちょっとお待ち!」
「なんだぁ?! 」
 威勢の良い声が聞こえ、男の手が千尋の左頬寸前で止まる。
 その場にいた者の視線が一斉に声のした方へと向く。
 真っ赤な口紅をきりっと塗り、口紅と同色のスーツの上に薄手の黒いコートを着た女性が、腰に手を当ててこちらをにらみつけていた。ミニスカートから伸びたすらりとした足にはハイヒール。コツコツとヒールの音を響かせながら近づいてきた。
「まったくやだねぇ、最近の若いモンはこんなのばかりで。あっちにこっちにもうようよと」
 つかつかと歩み寄りながらその女性(ひと)はつぶやく。
「関係ねぇおばさんは引っ込んでな!」
 男の1人がその一言を聞いた瞬間、その女性は目もとを一瞬ひきつらせた。
「アンタ、言っちゃいけないこと言ったねぇ。大人しく引いたら黙って見逃してやろうと思ったけれど、そういう訳にはいかないようだね。これ以上騒ぎ立てるなら、私の黒幕(バック)が黙っちゃいないよ!」
 とても女性とは思えない迫力で、男達に迫る。
「お、おい。バックっていったい……」
 3人はお互いに顔を見合わせる。そして何が思い当たることでもあったのか、少し顔を引きつらせながら千尋の襟元から手を放した。
「ちっ。い、行くぞ」
 結局3人は定番の捨て台詞も残せないまま引き上げて行った。
「同じ手をまた使えるとは思わなかったわね。私のバックには教育委員会しかいないわよぉ」
 目的を達成できず、すごすごと引き上げ、遠ざかっていく男達を眺めながら、深紅の口紅の彼女は満足そうにつぶやく。
 それからその場に残された千尋と吹雪の方を振り返った。そして千尋の見た時、ふと何かを思い出したような顔をする。
「もしかして、小林さんちの息子さんじゃない?」
 千尋の方もじっと相手を見つめたあと、にっこりと微笑んだ。
「紅咲……さんでしたよね? 高校の先生をしていらっしゃる。吹雪ちゃん、こちら母の店のお得意様で紅咲小町さん」
 状況が飲み込めず、隣で呆然としている吹雪に千尋は説明する。
「あら、いいわねぇ。その『小町さん』って呼び方♪ なんだか新鮮だわ。普段若いコからは先生としか呼ばれなくって、色気がなくてねぇ。とっ」
 小町は余計なことを言ってしまったと、慌てて口元をおさえる。
 そしてこほんと小さくせき払いする。
「それにしても危ないところだったわねぇ。あっちでもこっちでもああいう輩がいて、一体どんな教育されてきたんだか。とはいえ、小林君、いくら彼女のためだからって、あんな輩を挑発するようなことしちゃダメよ」
「まぁ、彼女を逃がした後、適当にあしらって逃げる予定だったんですけどね」
 千尋はちらりと吹雪を見る。
 千尋と目が合った吹雪はしゅんと小さくうつむく。やっぱりあの時すぐに逃げるべきだったのだと、反省するしかなかった。
「お嬢ちゃん、あんまり無茶なことはしないようにね。今回みたく彼氏が助けてくれればいいけれど、いつもそうとは限らないんだから」
 うつむいていた吹雪が慌てて顔をあげる。
「か、か、彼氏って、コイツはただの同級生で……」
「いいの、いいの、隠さなくても。女のコは素直が一番よ♪」
 小町は、吹雪の手が再び千尋のセーターの端をしっかりとつかんでいるのを見逃さない。
 逆に、吹雪は小町の言葉に反論したいのだが、何故か口をぱくぱくとするだけで、言い返すことはできずにいた。
 やがて小町は腕時計をちらりと見る。
「そろそろ時間だわ。それじゃ、小林君、お母様によろしくね」
「ありがとうございました、小町さん」
 名前で呼ぶ千尋に向って、小町はにっこりと満足そうに微笑み、そしてその場を後にした。
 小町の姿が見えなくなった瞬間に、吹雪はへなへなと座り込む。
「吹雪ちゃん?!」
「な、なんか急に力が抜けて……」
「大丈夫?」
 千尋は罠ではない笑顔を吹雪に向ける。
 なんだかホッとする笑みに、吹雪は安心感を覚える。
 コイツの笑顔で安心するなんて、よほど恐かったのかな。それとも本当にコイツの笑顔だから安心するのかな……。
 吹雪は力なく座り込んだまま、千尋の顔を見ていた。
 ふいに千尋がにやりと笑う。
「吹雪ちゃん、オレに見とれてるでしょ」
「だ、だれがアンタなんかに!」
 そう言う吹雪の頬がパッと赤く染まる。いつもと違う雰囲気がその場に流れ始める。
 しかし。 
「わん♪」
 雰囲気を察したのか、それともただ敵がいなくなって喜んでいるのか、小ラッシーがしっぽをふ振りながら一声かけた。
「あ、小ラッシー……」
 吹雪の膝にチョンと乗りかかり、小ラッシーは元気づけるかのように吹雪の手をぺロペロと舐める。
 吹雪が小ラッシーの頭を撫でているのを、小さく微笑みながら千尋は見ていた。やがて、吹雪に右手を差し出す。
「送っていくよ。立てる?」
「ん、ちょっと肩貸してくれる?」
「肩くらいいつでも。なんならお姫様だっこでもいいよ♪」
「……肩だけでいい」 
 つまんないなぁ、と拗ねる千尋をあえて吹雪は無視をする。今は、これ以上千尋に接近してはいけないように思えた。
「ところで財布忘れて買い物に来たの?」
「わ、悪かったわね。どうせ私は忘れっぽいわよ!」
 これまた触れて欲しくないところを、千尋は指摘する。
 どうせ馬鹿にされるのだと思った吹雪は、次の言葉を予想しつつつい怒鳴ってしまう。しかし、次に出てきた千尋の言葉は吹雪の予想とは違うものだった。
「いや、そういう吹雪ちゃんも可愛いなって思って」
「!」
 吹雪は言葉を失って、再び真っ赤になる。 
 他意があるのかないのか、千尋のこの笑みからは読み取れない。もうすぐ出会ってから2年が経とうとしているけれど、やっぱり今でも何を考えているのかよくわからない男である。しかし、以前よりも千尋のそばにいることが心地よくなっていると思うのは、ただの気のせいであろうか。
 時折見せる柔らかな微笑み。
 こんな微笑みを以前からしていただろうか。
 もしかすると故意に見ないようにしていたのかもしれない。
 そして、何気ないたった一言なのに、千尋の一言はどうも吹雪は振り回せれているような感じがする。それでも、それがイヤだとも思えなくなったあたり、吹雪の心に何か変化があったのかもしれない。
「な、なに馬鹿なこと言ってんのよ!」
 しかし何かをごまかすかのように、吹雪はそう怒鳴り、そして千尋の手を借りながら立ち上がった。
 肩を並べて歩きながら表通りに出る。
 2人よりも少し前を小ラッシーがしっぽを振って機嫌よさそうに歩いている。
 ほんの少し沈黙が続く。
 そして。 
「……助けてくれて、ありがと」
 本当に小さくつぶやいた吹雪の言葉。街の雑音にかき消されそうな声。
 しかしそれはちゃんと千尋に届いていた。

                                   Fin


<ちょっとフリートーク>

小町先生が助けてくれるというのは、とある方とネタがかぶってしまいましたが、真尋さんのお店の常連さんにしたかったので(なんとなくそう思ったので)、変更せずに起用いたしました。
ところで、ちーさんは不良(^^;)どもから逃げる際、適当にあしらって逃げると言っていますが、本当に逃げたと思います?
もしかしてとんでもない罠があったのかもしれなせんね(笑)
さらに余談ですが、小ラッシーの吠え方に違いがあるのは気づきました?