金木犀が香る。
陽はまだ高いのに、いつの間にか空気がひんやりと感じられるようになった午後だった。
その甘い柔らかな香りに気づき、つい後ろを振り返ってしまう。
一体どこから漂っているのだろう。
視線を移してみても姿形は見当たらない。
香りだけがそこにある。
この季節になると街全体を包み込むように漂う香り。
どこからともなく香るそれは季節の移り変わりを感じさせるとともに、不思議な気持ちが心に浮かぶ。
甘い香りは、ふわりと風に乗って遠くまで運ばれる。
何の本を読んだ時だっただろうか。
『遠くにいるあの人にもこの金木犀の香りは届いているだろうか。
届いているのなら、私の想いもこの香りと同じように届きますように』
そんな意味合いを持つ短歌が載っていたような気がする。
今はそばにいない恋しい人へこの想いを、逢えないのならせめて想いだけでも届けたい、という歌。
甘く、そしてまとわりつくような金木犀の香りは、どこか魔力的なものを感じる。
もしかすると、本当にこの香りとともに想いが届くのかもしれない。
甘い香りの中にいると、そんな不思議なことが起こりそうな感じになる。
しかし。
甘い香りを打ち消すかのように頭を一度横に振る。
そんなことは実際には起こるはずはないから。
「小ラッシー、そろそろ帰るか」
「わん♪」
千尋は小ラッシーに呼び掛け、そして軽く駆け出した。
「ただいまー」
「お帰りなさいっ」
玄関のドアを開けた途端に響く女性の声。
それは、この家の唯一の女性住人である母のものではない。
もっと大切な人の声。
しかし、今その大切な彼女が目の前にいるはずがない。
「どうしたの? 何か変な顔して」
「どうしたのって……、それはこっちのセリフ。何で吹雪ちゃんが俺の家にいる訳?」
千尋の帰りを待っていたのは、家族ではなく、吹雪だった。
「母さんの忘れ物を届けた帰りに偶然真尋さんに会ったのよ。それで時間あるなら寄っていかないかって誘われたの。私の用事は済んだし、せっかくだからってお邪魔してみたものの、アンタはいつまで経っても帰ってこないんだもん。一体どこ行ってたのよ?」
「どこって小ラッシーの散歩……」
どこかまだ夢を見ているかのような心地のまま、千尋は返事した。
「小ラッシーの散歩に出かけてのは真尋さんから聞いたわよ。その散歩が長いって言ってるの」
「……ごめん」
「やだ、何素直に謝ってんのよ? 熱でもあるんじゃない?」
ずいぶんな言い様なのだが、それを気にするよりも、吹雪が目の前にいるという不思議さの方がまだ大きかった。
「千尋?」
じっと吹雪の顔を見つめたまま直立不動な千尋に、吹雪は声をかける。
ふいに千尋の右手が吹雪の頬へ伸びた。
指の先に感じるあたたかなぬくもり。
「ホントに、吹雪ちゃんなんだ」
無表情でいた千尋はやっと小さく微笑んでつぶやいた。
「当たり前じゃない。何言ってんのよ」
吹雪は少しだけあきれたようにそう言うと、自分の手を、頬に触れていた千尋の手にそっと重ねた。
千尋も吹雪も、互いのぬくもりを指先に感じながら、微笑んだ。
「千尋帰ったんでしょーっ? いつまでも玄関にいないで早くこっちに来なさいよー?
吹雪さーん?」
リビングにいる真尋の2人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、はーい、今行きます! ほら、千尋、小ラッシーの足拭いて」
真尋に返事をしてから、吹雪は小ラッシー用の足拭きのタオルを渡す。
千尋の足下で大人しくしていた小ラッシーが早く拭いてくれとばかりに一声鳴き、そして足が拭かれると勢い良く部屋の中へと駆け出して行った。
「小ラッシー、元気ねぇ。あ、ねぇ、千尋」
「何?」
「外、金木犀の香りですごくなかった? あんなに香ると酔っちゃいそうだよね」
ふいに吹雪の口からこぼれた『金木犀』という言葉。
千尋は一瞬驚き、そしてまた口元にやわらかい笑みを浮かべる。
「金木犀の魔法、かな」
「えっ? 魔法?」
何かと訊ねる吹雪に、千尋は首を横に振る。
「なんでもないよ、ほら、行こう」
千尋は軽く吹雪の肩を抱いて、歩き出した。
逢いたいと、そういつも想っていたなら、それは必ず叶うものなのかもしれない。
Fin
<ちょっとフリートーク>
小説やマンガにも金木犀が登場していたりしているのを見て、金木犀の香りってかいだことないなぁとふと思いました。
中国茶とかでは金木犀の香りのものとかあるけれど、本物の金木犀ってどんなの?と思って調べてみたら……。
なんと北海道には金木犀が存在しなのですよ!
どうやら金木犀は寒さには弱いらしいので、私の行動範囲の中で見つけられなかったのではなく、北海道では咲く事が出来ない・存在自体がないのだとわかりました。
ショック〜。
ということで、SS49は、実は金木犀の香りも知らないのにできてしまったSSなのです。
実際に金木犀の香りを知っている方、この香りは魔法のような香りに感じたりしますか?
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