Scene30 恋心〜koigokoro〜
(『おまけの小林クン』より)


 私は恋をしています。
 相手は私よりも年上の高校生だと思います。
 月曜日と金曜日の夕方、ピアノのレッスンの帰りに必ずすれ違う人。
 小さな仔犬の散歩の途中のようで、その人は楽しそうに仔犬と歩いています。
 男の人なのに綺麗だなぁと思えるような、つい見とれてしまう顔。
 名前も知らない人だけど、すれ違うたびにドキドキします。
 もしかすると私の顔は真っ赤になっているかもしれません。
 その人の名前を知りたいと思うけれど、とても訊くことはできません。
 たぶんその人は私のことなんて知らないから。
 少しでも近づきたいと思うけれど、そんな勇気は私にはないから、たぶんずっと見ているだけかもしれません。
 名前すら知らない人だけど、片想いだけど、私はその人に恋をしています。

◇ ◇ ◇

「や。あっち行って!」
 ピアノのレッスンが終わったその帰り道。
 いつもよりも少しだけ遅くなり、憧れのあの人とすれ違う時間に遅れそうだったからちょっと近道をしたのが間違いだった。
 細い路地に、大きくて恐そうな黒い犬がいたのだ。まるで私を待ち構えていたかのように。
 その犬は、私に気づくと、いい獲物でも見つけたかのような目をして私に近づいてきた。
「来ないでよ!」
 カバンをブンッと振りながら、私は一歩ずつ後ずさる。でも犬は私の抵抗など気にすることもなく、私の足取りに合わせたかのように一歩ずつ迫ってきた。
「やだ……。誰か助けて……」
 犬は苦手だった。
 小さい頃に足を噛まれたことがあって以来、どんな小さくてかわいい犬でも近づくことができない。距離を置いて遠くから見る分なら大丈夫だけど。
 だからいつも犬を連れている憧れのあの人にも、すれ違う以上には近づけなかった。
「お願いだから、あっち行って……」
 願ったところで犬が理解できるわけでもなく、それとは反対にどんどん近づいてきた。
 こんな大きな犬に噛まれたら、とてもじゃないけれどただでは済まない。どうにかしてここから逃げ出すか、犬を追い払いたかった。
「お願いだから……」
 恐くて涙が出てきた。
 後ろを見ずに後ずさってしまったせいか、いつのまにか行き止まりになっていた。後ろはどこかのビルの壁で、逃げ場はなかった。
 そうして、わずかな望みも叶うことはなく、その犬は低く唸りながら、私に向かって飛びかかってきた。
「いやっ!」 
 思わず恐くて瞳を閉じ、しゃがみ込んだ。
「ギャン!」
「ワン! ワン!」 
 犬が吠えているのが聞こえてくる。
 黒い犬の低い声は一度大きく響いただけ。その後は私に襲いかかってきた黒い犬ではなく、もっと高い声だった。
 何がどうなっているのかわからなかったけれど、犬の鳴き声が恐くて耳を塞いだ。
 襲いかかってくる犬が増えているのかと思った。けれど、いつまで経っても手も足も噛まれはしなかった。 
 私は恐る恐る瞳を開けた。
 目の前に何か白い大きなものが見えた。涙を拭ってよく見ると、それは誰かの背中だった。私を守るようにかばってくれる大きな背中。
 私は思わずその背中にしがみついた。
「犬……、犬が……」
 背中にしがみつく手が震える。
「大丈夫だよ」
 初めて聞く声だった。
「もう犬はいないよ」
 やさしく呼びかけてくれる声が耳に届いた。
 犬はもういない……?
 私は半信半疑で顔を上げてみた。
「危ないとこだったね、大丈夫?」
 そう言いながら振り返った大きな背中の人物の顔を見て、私は驚いた。
 私の憧れのその人だったのである。
 憧れの人が突然現れて驚いた私は、犬に襲われた恐怖も忘れ、その人の顔をじっと見ていた。
「大丈夫?」
 憧れの人はもう一度私に言った。
「は、はい!」
 慌ててセーターから手を放して、私は返事をした。
「ダメだよ、このへん野犬出ることがあるからこういう路地を通ったりしたら。気をつけてね」
「は、はい!」
 憧れの人が私に笑顔を向けてくれている。私を見て、にっこりと。
 私はまるで夢でも見ているかのような気分だった。
「わん」
「きゃっ」
 突然の犬の声。ビクッと肩が震える。夢は一瞬で現実に戻されたようだった。
 吠えたのは憧れの人がいつも連れている小さな犬だった。
 しっぽを降りながらこっちを見ている。
 憧れの人の犬だと思っても、やっぱり恐かった。
「小ラッシー、ダメだよ」
「くぅん」
 主人に叱られた仔犬はしょんぼりとして私のそばから離れた。
「今犬に襲われたばかりなのに、やっぱり嫌だよね。ごめんね」
「そ、そんなごめんだなんて……。わ、私、ホントは犬大好きなんです!」
 言ってからしまったと思ったけれどもう遅い。
 私の言葉がまるでわかったかのように、何故か仔犬は喜んだようにしっぽを振って私の方に近づいてきた。
 犬が好きだと言った手前、本当は怖がっていることを憧れの人に知られたくはない。私はがんばってその仔犬の方へ手を伸ばした。頭くらい撫でてあげなきゃ、と思ったのだ。
 仔犬の顔にもう少しで触れそうになったその時、仔犬はぺろっと小さな舌を出した。
「わぁ、舐めた」
 なんともいえない初めての感触だった。
「君を気に入った証拠だよ」
 にっこりと憧れのその人は笑う。
「え、本当?!」
「そうだよ。小ラッシーは君が好きなようだ」
「そうなんですか?」
 なんだか嬉しくなった。
 あんなに犬が恐かったのに、このコなら大丈夫な気がした。自分がずいぶんと単純な感じだと思いながらも。
 そして、私は思いきってもう一度仔犬−小ラッシーの頭に手を伸ばした。もう少しでその頭に触れるかと思った時だった。
「千尋?」
 突然背後の方から声が聞こえてきた。 
 憧れの人は顔を上げたかと思うと、すごく優しい顔になった。
 こんな表情を見たらもっとドキドキしそうなものなのに、何故か私の心はちくりと痛んだ。
 一体誰が声をかけたのだろうと私も振り返って見ると、そこには両手に買い物袋を持った綺麗な女の人が立っていた。
「やっぱり千尋じゃない」
 にっこりと笑いかけたその人は、同性の私でもドキッとするような可愛い笑顔だった。
「こんなところで何してんの? あ、小ラッシーの散歩? こんにちは、小ラッシー」
「わん!」
 仔犬の方も元気に返事をすると、私のそばからその綺麗な人の方へと行ってしまった。慣れたようにその綺麗な人は仔犬の頭を撫でた。
「ずいぶんと買い込んだね。お店のおつかい?」
「そう。お母さんったら人使い荒いから。でもこのあと和菓子屋さんに行っておしまい」
「じゃ、荷物持つよ」
 憧れのその人も綺麗な人のそばに行ってしまった。そして、重そうな両手の荷物をひょいっと持ってあげる。
「助かる。でも、いいの?」
 その綺麗な人はちらりと私の方を見た。
「あ、わ、私のことは気にしないでください。あの、ちゃんとお礼も言わず、ごめんなさい。助けていただいてありがとうございました!」
 慌てて頭を下げて礼をした。
「なに? またアンタ何かしたの?」
「何かしたのとは人聞きの悪い。凶暴な野犬からいたいけな少女を救っただけだよ。なぁ、小ラッシー」
「わん!」
「ホントにぃ? ねぇ、コイツホントにあなたに悪さしなかった?」
 綺麗な人は突然私に視線を移した。
「わ、悪さなんて……」
 私は口ごもりながらうつむいた。
「あら、手、怪我してるじゃない。大丈夫?」
「えっ?」
 綺麗な人は荷物を憧れの人に全部預けてそばに来ると、私の左手を取った。どこで怪我をしたのか、親指の付け根のところが擦れてうっすらと血がにじんでいた。
「これくらいなら大丈夫かな」
 綺麗な人はショルダーバッグから小さなケースを取り出した。ケースの中はちょっとした応急セットが入っている。それとは別に携帯用のウェットティッシュを取り出して傷口の血をを軽く拭き取る。そして応急セットからばんそうこうを取り出して貼ってくれた。
「お家に帰ったらちゃんと消毒するのよ」
「あ、はい」
 手際の良さにちょっと圧倒されて、私は返事しかできなかった。
「さすが吹雪ちゃん。何でも持っているんだねぇ」
「これくらいたいしたことないわよ」
「俺もさっき凶悪な犬のせいで怪我しちゃったんだ〜。吹雪ちゃん、手当てして♪」
「どこよ? アンタのどこに怪我なんてあるのよ」
「ほら、ここ、人さし指の先」
「これのどこが怪我なのよ。そのくらい舐めときゃ治るわよ」
「だったら吹雪ちゃんが舐めてくれる?」
「な、何言ってんのよ! ばか!」 
 そんな会話をしながら、憧れの人は綺麗な人の肩を抱いた。
 それを目にした瞬間、心にちくんと何かが刺さった気がした。
 なんとなくこれ以上この2人が一緒にいるのを見たくなかった。
 まだ小さな心の痛みが、2人を見ているだけで広がっていきそうだった。
 憧れの人も、この女の人も、ずいぶんと大人な感じがして、とても綺麗に見える。並ぶ姿や話す姿がとても自然で、こういう感じが『恋人』というのかもしれないと直感的に思った。
 中学生の私から見たら、2人の間には入れない大人の雰囲気がある。
 でももしかしたらただの知り合いなのかもしれない。そんな可能性の低いことも考えずにはいられなかった。
 だから、本当のことを知る前に、ここを離れようと思った。
「あ、あの、本当にありがとうございました」
 もう一度頭を下げて、私は走り出した。
「あ、ちょっと?!」
 呼び止める声が聞こえたけれど、私は走った。後ろが気にはなったけれど、一度も振り返らなかった。
「はぁ、はぁ」
 近くの公園まで一気に走り、かなり息が苦しかった。冬の冷たい空気が胸にしみる。
 突然逃げ出すように走り出して、変に思われたかもしれない。
 礼儀しらずななコだって思われたかもしれない。
 でも、やっぱりあの場にはいたくなかった。 
 とっても仲が良さそうなだった。
 一緒に並んでいると『お似合い』という言葉が似合う2人。
 たぶん、やっぱり恋人なんだと思う。
 やさしそうな笑顔とどんな時にでも守ってくれそうな強さを持った、あれだけ素敵な人なのだ。
 恋人がいてもおかしくはない。
 しかも恋人は綺麗で優しい女の人。
 怪我の手当てをしてくれた時、かすかに甘い香りがした。たぶんあの綺麗な人の香りなのだろう。大人っぽい素敵な香り。
 自分は歳のわりにしっかりしていて大人っぽいとは言われるけれど、あの綺麗な人に比べたら自分がすごく子供のように思えた。
 せっかく憧れの人に助けてもらえて、会話もできたのに、なんとなく気持ちは沈んで行きそうだった。
 でも、それじゃ、ダメだと思った。
 私はまだ憧れの人の事を何も知らない。
 あの綺麗な人も本当は恋人じゃないかもしれない。
 お似合いの2人だと思ったのも、私の思い込みかもしれないのだ。
 ちひろ。
 あの綺麗な人はそう呼んでいた。
「名前、知ることができて良かったよね」
 心の片隅では叶わない恋かもしれないと感じながらも、それを振り払う。
 好きでいてもいいよね。
 想うだけならいいよね。
 来週の夕方、すれ違うことができたら思いきって挨拶してみよう。
 もう一度ちゃんとお礼しなきゃ。
 そして私の名前、覚えてもらおう。
 まずはそこから。
 もしかしたら思ってもみない何かが始まるかもしれないし。
 私は空を見上げてお願いをする。
 少しでも憧れの人……ちひろさんと話ができますように。
  

                                   Fin


<ちょっとフリートーク>

主役は名前もない中学生の女のコです。
ちょっと視点を変えて書いてみました。
犬好きなちーさんに近づくのに、犬が苦手な女のコだと大変だよなぁと思ったのがきっかけです。
実は私も犬には触れません(^^;)
見る分にはいいのですが、触れません。
ちーさんファンの私の唯一の弱点(?)です。
でもね、他の犬はダメでも小ラッシーなら大丈夫だと思うんですよ。小ラッシーかわいいし、
なによりちーさんの相棒ですから。
だから今回のヒロインも小ラッシーだけは大丈夫になれると思います。
さて、吹雪ちゃんを見て恋人ではないかと思ったヒロイン。女の勘でしょうか。
ヒロインの淡い恋心、ちーさんが罠好きだと知ったら崩れてしまうかしら(笑)
ふと思いましたが、このヒロインでシリーズ化できるかも。
ちーさんと吹雪ちゃんを外から見るとどういうふうに見られるか、とか。
だとすると、名前決めなきゃね。
名字はやっぱり小林さん?(笑)

    

   

  


 

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