Scene16 ルージュ
(『おまけの小林クン』より)


 

 下校時刻間近の放課後、吹雪は教室でひとり、黙々と雑用処理をしていた。本来担任の燕がやるべきことなのだが、待っていてもなかなか作業をしてくれないので、委員長である吹雪が見兼ねて仕方なく対応しているのだった。
「ふっぶきちゃん♪」
 突然耳に飛び込んで来た声。吹雪は机の上の資料から視線を上げる。
「なんだ、千尋か」
「なんだ、とは失礼な。もっと他に言い方ないかなぁ」
「アンタにはこれで十分でしょ」
 吹雪は素っ気無く応え、再び視線を資料へと移した。
 千尋は吹雪の対応をそれほど気にするでもなく、吹雪の前の席にすわった。
「ねぇ、何してんの?」
「ただの雑用。つばめセンセったらホントに何もしないんだもの! ほっといたらこっちが大迷惑するんだから」
 ぶつぶつと燕への文句を吹雪はくり返す。
「吹雪ちゃんひとりでやってるの? 日影クンとかはいないの?」
「あぁ、日影ならさっきまで一緒に処理していたけれど、歯医者さんの予約をしているからって少し前に帰った」
「ふぅん。手伝おうか?」
「大丈夫。もう終わるから。それより何よ、なんでアンタこそこんな時間に学校にいるのよ?」
「ん? そんなの、吹雪ちゃんと一緒に帰ろうと思って待ってたからじゃないか♪」
 千尋はにっこりと爽やかに笑いかけた。他の女子なら悲鳴ものの素敵な笑顔なのだが、吹雪にとってはこの程度の笑顔では何の効果もない。
「何で私がアンタと一緒に帰らなきゃならないのよ。……何か企んでるんじゃないでしょうね?
そう簡単にアンタの罠にはかからないわよ!」
 吹雪はキッと千尋をにらみつけた。
「まったく吹雪ちゃんったら悲しいこと言うなぁ……。それに、ほら、眉間にしわ寄せていると取れなくなるよ」
 千尋はふいに手を伸ばし、吹雪の眉間に人さし指を当てる。
「お、大きなお世話! 邪魔するならもう帰ってよ」
「そう怒んないでよ。はい、これ」
 千尋は小さな紙袋を吹雪に差し出す。
「何?」
「前に言っていた薬用のリップクリーム」
 千尋の母が経営するコスメサロンの試供品である。以前唇が荒れていると千尋に言われ、試供品で良ければ持ってくるということになっていたのだった。
「ホントにくれるんだ。ありがと」
 吹雪は千尋から紙袋を受け取る。確かに中にはリップクリームが2本入っていた。
「で、こっちは吹雪ちゃんに俺からのプレゼント」
 千尋は細長い箱を手のひらに乗せて差し出した。こちらはリップクリームが入っていたただの白い紙袋とは違い、ピンクの包装紙に赤いリボンが飾られている。
「何よ、これ。アンタからのプレゼントなんて怪しいわね」
 当然のことながら、吹雪は警戒する。
「ひどいなぁ、俺を疑うなんて。せっかく吹雪ちゃんに似合う色を見つけたのに」
「色?」
「そ。開けてみて」
 にっこりと笑うその表情が、さきほどのものよりも微妙に違う気がする。罠なのかそうでないのか、いまいち区別がつかない。ということは、もしかすると罠ではないのかもしれない。しかし罠ではないように見える笑顔、それが逆に罠なのかもしれない。
 吹雪は恐る恐る箱を受け取るとリボンをほどき、箱を開けてみた。
「これ、口紅?」
 中に入っていたのは、さきほどのリップクリームとほぼ同じ大きさではあるけれど、それよりもしっかりとしたケースに入ったものだった。吹雪はそれを手に持ちふたを取った。
 ケースを少し回すと、まだ誰も使っていないなめらかな口紅が出てくる。薄い赤が基本の、少しオレンジがかった微妙な色合いの口紅だった。
「綺麗な色ね。これも試供品?」
「だから、さっき言ったでしょ。プレゼントだって」
「ふぅん」
 吹雪は素直に千尋の言葉を信じられず怪しむ。けれど、その口紅の色合いは気に入ったようである。
「くれるっていうなら、まぁ、もらっておくわ。ありがと」
 吹雪は口紅を箱に戻して、鞄の中にしまおうとした。
「あ、待って、吹雪ちゃん。それつけてみてよ」
「えっ?」
「せっかく買ったんだからつけたとこ見てみたいんだけど」
「だって鏡ないし……」
「大丈夫、ちゃんとここに用意してあるよ♪」
 用意周到な千尋は、サッとどこからか手鏡を取り出した。
「なんだったら俺がつけてあげるよ♪」
「い、いいわよ。自分でつけるわよ!」
 千尋から手鏡を奪うと、吹雪は口紅を塗り始めた。
 思ったよりも濃くなくて派手な感じはせず、高校生の吹雪にもよく似合う色合いだった。
 さすが母親がコスメサロン経営者であるせいか、センスが良いなぁと吹雪は思う。
「これでいい?」
「うん、なかなか似合うよ」
「そぉ? じゃ、私もうそろそろ帰るわ」
 吹雪は広げた資料を一つにまとめ、封筒に入れると立ち上がった。そして封筒と鞄を手に持ち、千尋を置いて歩き出した。
「あ、吹雪ちゃん、ちょっと待って」
「何よ、まだ何か……」
 歩き出した吹雪が面倒くさそうに振り返ると、すぐ目の前に千尋の顔があった。
 もう少しでお互いの唇が触れあう距離である。
「なっ、なっ?!」
 いきなり千尋の顔が目の前にあったのを驚く吹雪。顔を真っ赤にして口どもる。
「吹雪ちゃん、知ってる? 男からもらった口紅を付けると、それはキスしていいよ、の合図になるってこと」
「?!」
 とんでもないことを言われて戸惑う吹雪に構わず、千尋は吹雪に迫って行く。どんどんと千尋は吹雪に近づき、そして吹雪は少しずつ後ずさり、壁へと追いやられて行く。
「ちょ、ちょっと! 私、そんなの知らないって……」
 トンと吹雪の背中が壁につく。もう後ろには逃げられない。左右を見れば、千尋の両手が壁につき、吹雪をはさむようにしている。もちろん正面には千尋本人。
 逃げ場を失い、吹雪はさらに混乱する。間近には千尋の顔。無意識に視線が千尋の唇に行く。
 心臓が爆発しそうなくらいドキドキしていた。
「な、何する気よ?! ちょっと、待っ……」
「誰も見てないから」
「そ、そういう問題じゃなくって……」
 ふいに千尋の右手がそっと吹雪の頬に触れる。
 ビクッと吹雪の肩が揺れる。
「本気で嫌ならはねのければいい」 
 まっすぐに見据え、見つめられるその瞳から、吹雪は逸らすことができない。今すぐにでも離れてしまいたいのに、身体が動かない。
「吹雪ちゃん」
 そっと静かに名前を呼ばれる。ただ名前を呼ばれただけなのに、いつもと違う感じがする。
 千尋の声はこんなにも優しかっただろうか。
 いままでも同じように名前を呼ばれていたけれど、こんなにも甘く囁かれるように聞こえたことはない。
「吹雪ちゃん」
 千尋はもう一度その名を呼ぶ。
 その優しく甘い声が、まるで魔法のように吹雪の心に染み込んでいく。もう千尋に逆らうことができない。
 それでも、吹雪は近づく千尋の顔を間近で見ながらなんとか拒絶しようとするが、やはり完全にはできない。
「ち、千尋、わ、わたし……、やっぱり、ダ……メ……」
 吹雪が本気ではねのけないせいか、千尋は近づくのをやめようとはしない。
 息が触れあうくらいに近づいた時。
 吹雪は思わず堅く目をつぶった。
 しかし。
 触れあうと思った唇には何の感触もなかった。
 吹雪は恐る恐る目を開けてみた。
 その途端。
「やめた」
 唇が触れる寸前で千尋はピタリと動きを止めていた。
「ここで無理にキスしたら、もう2度とキスしてもらえそうにないから」
 千尋はそう言って吹雪から離れる。
「俺、吹雪ちゃんに嫌な思いをさせてまでキスする気はないよ」
「……」
 吹雪はホッとしたような、それでいて何か物足りないような、複雑な気持ちになる。
「でも本気だから」
「本気……?」
「そう。俺、本気だよ。だから、吹雪ちゃん。俺のこともちゃんと見てね」
 口調はいつものものだけど、その視線はいつものものではなかった。真剣でまっすぐな瞳。
「健吾クンや小林クンばかりじゃなくて、俺のことをちゃんと見て」
 その言葉に吹雪は軽い衝撃を受ける。
 一緒にいることは多くても、自分は千尋をちゃんと見ていなかったことに吹雪は気づく。いつも大和を探し、気がつけば健吾を視界の中に入れていた。しかし千尋の事は特に意識して見たことがない。千尋はそれに気づいていたのだ。
「俺のこと、見てくれる?」
 吹雪は真っ赤になりながら小さくうなずいた。
「よかった。じゃ、そろそろ帰ろうか」
「あ、私、もう少し、ここにいる……」
「そぉ? せっかくだから送っていこうと思ったけれど、吹雪ちゃんがそう言うなら無理にとは言わないけれど」
「う、うん、先、帰ってて」 
「わかった。あ、それ、ホントに吹雪ちゃんのためだけに選んだものだから。良かったら使ってね」
 千尋はもう一度優しげな笑顔を見せ、そしてそう言い残して教室から出て行った。
 千尋がいなくなった途端、吹雪は身体の力が抜けたのか、その場にぺたりと座り込む。
 顔は真っ赤で、心臓はドキドキしていて、それがまだおさまらない。
 健吾や大和に感じるのとは異なるドキドキに吹雪は戸惑う。
『本気だから』
 再びその言葉が頭をよぎる。
 普段ふざけ過ぎているだけに疑いそうになるけれど、何故かこの時の千尋の言葉には嘘が感じられなかった。
 偽りのない本当の言葉。
 何に本気なのか。
 吹雪はわかっていながらも、それをわからないフリをする。
 千尋を本気で振り切れなかった自分がいることに気がついていても、そして、心の奥にあるあたたかい光に気づいていながらも、今の吹雪は否定する。
 それを認めてしまったら、何かが崩れてしまいそうになるから。
 好きだと思っている人への気持ちが嘘になってしまいそうになるから。
 本当は誰が好きなのか、特別な好きは誰にあるのか、吹雪はまだはっきりと口に出せない。
 ふいに、ずっとその手に握っていた口紅に視線を落とす。
 吹雪はそれをじっと見つめた後、静かに両手で握りしめた。
 まるでガラス細工が割れないようにと、そっと、そっと、大事そうに握りしめた。
 

                                   Fin


<ちょっとフリートーク>

ちーさんの本気第1弾です♪
SS15からこんなに早く出来上がるとは思っていませんでした。
実際、ちーさんの本気がどんなふうになるのか、私自身がよくわかっていなかったので(笑)
いきなりキス絡みな話ですが、ドキドキしていただけたでしょうか?
ちーさんに本気で迫られたら、吹雪ちゃんといえど逆らえないような気がするんですけれど。
それにしても、高校生の男のコが口紅買うのって相当勇気がいるのではないでしょうか?
けんさんは絶対に買えなさそう(^^;)
でもちーさんなら簡単に買ってきそう。
大和クンは……口紅が似合いそう(笑)

    

   

  


 

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