Scene10 春色、フワリ
(『おまけの小林クン』より)

 

 いつもの登校時間。
 いつもと同じ時間の電車。
 昨日、一昨日と何も変わらずに時は流れていく。 
 何も変化のない毎日。
 違うのは、窓の向こうに見える風景。
 いつの間にか、季節は春を迎えていた。

 朝の登校時刻、今日も満員の電車が走っていた。
 今はまだ春休みなのだが、生徒のほとんどは春期講習に参加しており、吹雪も例にもれず学校に向っていた。
 いつもよりも1本遅く電車に乗った吹雪は、幸か不幸か偶然にも千尋と同じ電車に乗り合わせてしまった。
 吹雪のもくろみとしては、1本遅くして大和と同じ電車に乗るつもりであったのだが、今日に限って大和は乗っていないらしい。仕方なく吹雪は千尋と並んで電車に乗ることとなった。
 並んでいるとはいえ、2人は無言だった。というか、千尋が何も話さないのである。最初に『あ、おはよう』と言ったきりである。いつもであれば、あれやこれやと話しかけ、べたべたと肩に触ってくるのだが、今日はなにもしてこない。
 いつもと調子が違うが、満員電車のせいもあり、吹雪は特に追求はしなかった。
 やがて電車はいつも降りる駅へと辿り着いた。満員の電車から学生達が足早に降りて行く。
「千尋? 降りないの?」
 一番最後に電車からホームへと降りた吹雪が振り返えった。吹雪の視線の先にいる千尋は、何故か反対側のドアの側に立ったままでる。
「千尋?」
 もう一度呼び掛けてみると、千尋は一瞬吹雪の方を見たが、いつもと違う表情を残し、そして視線をはずした。
 その時発車のベルが鳴る。千尋はそれでも降りようとはしなかった。
 放っておこうかと一瞬思うが、吹雪は何かが引っ掛かった。
 そして、ベルが鳴り終わり、ドアが閉まるかと思った刹那、吹雪は電車に飛び乗った。
「千尋!」
 動きだした電車の中で、吹雪は千尋に詰め寄る。
「どうしたの? そんな顔して」
「それはこっちの台詞でしょう?! アンタこそ、なんで降りなかったのよ?」
「うん? なんとなく、ね……」
 何ごともなかったかのように千尋はのんびりそう答えた。
 そんな千尋の行動の意味がわからず、そして何故千尋を追って再び電車に乗ったのか、そんな自分の行動がもっとわからず、吹雪はイライラし始める。
 そんな時に、追い討ちをかけるような車内アナウンスが流れてきた。
「これよりこの電車は特別快速となり、終点まで止まりません。え〜、次の停車駅は終点……」
「はぁ?! 終点まで止まらないって、終点ってどこよ!」
 アナウンスが終わる前に、吹雪は千尋に問いつめる。
「……さぁ」
 そんなことどうでもいいとでもいうように、千尋は抑揚のない声で答えた。
 こんな千尋に答えを求めても無駄だと悟った吹雪は、急いで乗降口の上に貼ってある路線図を確かめる。
「うそっ! こんなとこまで行くの?!」
 吹雪が思っていた以上に終点は遠かった。
「完全に遅刻じゃない! いったいどういうつもりよ?!」
「どういうって、吹雪ちゃんが勝手に乗ってきたんでしょ」
「そ、そりゃぁ、そうだけど……」
「もう乗っちゃったんだし、仕方ないんじゃない?」
 千尋は外を眺めながら、あっさりとそう言う。
 誰のせいだ、と怒鳴りたい気持ちを吹雪はなんとか押さえる。
 どう焦っても電車は終点まで止まらない。そして折り返し電車に乗って戻っても遅刻は確定。
 一旦は電車を降りたにも関わらず、千尋を放っておくことができなくて自分から乗ってしまったのだ。千尋に原因の一端はあるものの、自業自得である。
 結局千尋の言うように仕方ないと諦めるしかなかった。
 しかし、千尋の隣にいるのもしゃくなので、その向い側に離れて座った。
 窓から差し込む、よく晴れた春の陽射しが優しい。ぼんやりと時間を忘れて外を眺めているうちに、吹雪の心も落ち着いてきた。
 平日の朝。
 いつもの満員電車も、学校近くの駅を過ぎてしまっているので乗客はほとんどいない。
 この時間にこんなふうに落ち着いて電車に乗るとは思っていなかった。
 たまにはこういうのもいいかも、と吹雪は一瞬思うが、すぐに頭を振る。委員長として、たとえ自由参加の講習とはいえ、授業をさぼるようなことをしていいはずがない。
 吹雪は終点に着いたら、すぐに折り返し引き返そうと思った。
 やがて終点となり、電車は止まる。
 千尋は無言でホームへ降りて歩き出した。その後を吹雪は慌てて追う。階段を上り、反対側のホームへ下りる階段の前で吹雪は立ち止まった。
「帰りのホームはこっちよ?」
「……」
 千尋はちらりと肩ごしに吹雪を見た。
 その表情に吹雪はドキリとする。
 淋し気な瞳がこちらを見ている。
 こんな瞳を以前に見たことがあった。あれは、夏だった。千尋にとって一番つらかった出来事を思い起こさせる瞳。 
 千尋は再び前を見ると、吹雪の呼び掛けに答えることもなく、改札へと続く階段を下りていった。
 すでに折り返しの電車は来ていた。今戻ればなんとか2時限目の授業に間に合う。しかしさっきの千尋の瞳を見てしまった以上放っておくことはできない。
「う〜、もう!」 
 結局1人で帰ることができず、吹雪は千尋の後を追った。
 差額を払い、改札を抜ける時、授業(正式には春期講習)をさぼったしまったことを何か言われるのではないかと内心思っていたのだが、春休みでもあり、私服だったせいか誰にも何も言われなかった。
 そんな吹雪の心配などよそに、千尋はまるで目的地でもあるかのようにどんどんと進んでいく。
 やがて着いたところは、わりと有名で大きな公園だった。
 黙々と歩く千尋に、吹雪は少なからずの不満を積もらせていた。
 千尋の歩く速度が早いのである。背が高い分、歩幅が広いのは仕方がないが、追い掛ける方は疲れてくる。
 いったいどこまで行くのかと思っていた時、歩道の角をまがったところで、今まで黙っていた千尋が吹雪に声をかけてきた。
「吹雪ちゃん、あれ見て」 
 千尋が指差した方へと視線を向ける。その途端、吹雪の表情に驚きと笑みが同時に浮かんだ。
「綺麗……」
 視界いっぱいに春色が広がっている。
 暖かな風に小さな花びらがひらひらと舞い、きらきらとまぶしい陽光が降り注いでいる。
 そんな幻想的な風景が2人の前に広がっていた。
 広い歩道の両脇に何本もの桜の木が並び、それは数十メートルも続いていた。桜はほぼ満開である。 
 アーチのような桜の木の下を、2人はゆっくりと歩き出した。今度は歩く速度を吹雪に合わせて。
「ねぇ、どうして……」
 ここへ来たのか、と尋ねようとした時。
「ボート……」
「えっ?」
「ボート乗ろう、吹雪ちゃん」
「ち、千尋?!」
 前方に大きな池を見つけ、そこでボートがいくつか浮かんでいるのを見つけた千尋は、吹雪の手をつかむと急に駆け出した。
 吹雪は強引にボートに乗せられ、そして気がつけばいつの間にか池の真ん中ほどに来ていた。
 千尋は軽々と漕ぎ、ボートはスムーズに進んでいる。
「こんなふうにボートに乗っていると、デートしているみたいじゃない?」
「な、何言ってんのよ!」
 あたりを見渡せば、ボートに乗っているのはカップルしかいない。
 2人を知らない他人から見れば、仲良さそうにボートに乗っているカップルにしか見えないだろうから、デートに思われても仕方がないだろう。
 千尋はどうなのかはわからないが、吹雪にとってそう思われるのは不本意である。
 すぐにでもこの場から逃げてしまいたかったが、池の上ではそれもできず、吹雪はそっぽを向く。
 すると急にオールを漕ぐ千尋の手が止まった。
 さっきまではしゃいでいたのが嘘のように千尋の表情は暗い。
「千尋? どうかしたの?」
「戻る」
 一言そう言うと、千尋は急に岸へと向いだした。
 乗る時はあんなに楽しそうにしていたのに、降りる時はものすごく静かだった。浮き沈みの激しい様子に、吹雪も戸惑う。
「千尋、どうしたのよ? 急にボート降りちゃって。まだボート降りる時間には早かったんじゃない?」
「吹雪ちゃん、あれ、食べよ」
 ボートを降りた途端、千尋は池の近くの茶店へと走り出す。吹雪の言葉を無視して先に行く千尋。
「ちょっと、待ちなさい!」
 吹雪は慌ててその後を追って走る。何がどうなっているの吹雪にはさっぱり理解できない。
 吹雪が茶店についた時には、すでに千尋は2人分の団子セットを注文していた。
 桜の木のすぐそばの椅子に座り、できたてのみたらし団子とお茶をいただく。
 団子もお茶も申し分なく美味しい。
 千尋はぱくぱくと団子を食べていた。
「ねぇ、今日のアンタ、いつも以上に変よ? 何かあったの?」
「吹雪ちゃん、団子食べないの?」
「食べるわよ! あ、それ私の分よ!」
 吹雪の分の皿の団子に伸ばしかけた千尋の手を、ぺちんと叩く。
 結局吹雪の問いかけは、どれも答えをもらえないまま消え去った。
 桜を見ながら、団子を頬張る。
 ずいぶんと和んでいるようだけど、ふいに吹雪は冷静になる。
 何故学校をさぼり、こんなヤツと2人で和んでいるのかと。
 そして千尋はいつもと違ってなんだか普通ではない。こんなふうに不安定になるほどの何かが千尋にあったのだろうか。
「美味しかった。あ、吹雪ちゃん、あっちの芝生に行ってみない?」
 吹雪の心配とは反対に、千尋はにっこりと笑いかける。そして誘いかけてきたにも関わらず、千尋は1人で先に歩き出す。
「ちょっとぉ! 少しは私の返事くらい聞いてから行動しなさい!」 
 最後のお茶を飲み干してから、吹雪は立ち上がった。
 『御自由にお入りください』と表示のある芝生。そこでは小さな子供が若いお母さんと一緒に遊んでいたりしている。
「こういう緑の上に寝転ぶのって気持ちいいよね」
 小さな桜の木の下で、千尋と吹雪は並んで座っていた。
 どう考えても何故こんなことになっているのか、吹雪にはわからないままだった。
「吹雪ちゃん、膝貸して」
「ちょ、ちょっと!」
「少しだけでいいから」
 千尋は吹雪の返事を待たずに、吹雪の膝を枕にごろんと横になる。 
 時折見せる沈んだ表情が気になって、吹雪は何故か無下にはできなかった。
 すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
「千尋?」
 返事はなく、どうやら本当に寝ているらしい。
「寝つきのいいヤツ」
 吹雪は軽く千尋の鼻をつまみあげた。
 しかし、考えれば考えるほど、困惑は増すばかりであった。

◇ ◇ ◇

 春の風が気持ちよく、吹雪もうつらうつらしていた時。
「吹雪ちゃん」
「あっ、お、起きてたの? だったら早くどいてよ。足がしびれちゃってんだから」
 千尋はすぐにはどけなかった。
「どれくらい寝てた?」
「30分くらいよ。それにしても、アンタ、よくこんなところで熟睡できるわね」
「吹雪ちゃんが一緒だから」
 優しい微笑み付きの、突然の思いもかけない言葉に、吹雪の頬が真っ赤になる。
 一体千尋はどうしたのだろうか。いつもと違う様子の千尋に、吹雪はさらに戸惑う。どうにもいつもの調子が出てこない。
 ふいに寝転んだままの千尋が腕を伸ばしてきた。吹雪の頬に指先が軽く触れる。そしてそのまま包み込まれそうになった時。
 吹雪は思わず千尋を放り出した。吹雪の膝の上にあった千尋の頭がゴンッと芝の上にぶつかる。
「ひどいなぁ。いきなり放り出すことないでしょ」
「あ、足が痺れてがまんできなかったのよ!」
 その場の言い得ぬ雰囲気から逃げ出すために離れたわけだが、足が痺れていたのは本当である。吹雪は真っ赤になっている自分をごまかすかのように、じんじんと痺れていた両足を伸ばしてさすった。
 千尋は横になったまま、空を眺めていた。
 春の青空は、冬のそれよりも青が一層濃い。空の位置も少し高く感じる。
 これが普通の恋人同士のデートであれば、至福の時間である。が、混乱と戸惑いが入り交じっている吹雪にとっては、そう言える時間ではなかった。
「ねぇ、吹雪ちゃん、一緒に来てくれる?」
 突然千尋が小さくつぶやいた。
「今度はどこ? 昼ご飯が食べたいなんて言うんじゃないでしょうね? さっき食べたお団子でまだお腹空いていないわよ」
 自分の足を撫でながら、吹雪は訊く。
「病院」
「えっ? 病院って、アンタ、どこか悪かったの?」
 手を止めて、吹雪は千尋の顔を見る。
「小ラッシーが入院している」
「えっ?」
「小ラッシーが入院しているんだ」
 切なくて淋し気なげな表情のまま、千尋はそれっきり黙り込んでしまった。

◇ ◇ ◇

 帰りの電車の中でも、千尋は終止無言だった。
 そんな千尋に吹雪も声をかけることがきなかった。
 あの淋し気な表情といつもと違う理解不能な千尋の行動。
 それは小ラッシーの入院のせいであった。
 ラッシーを亡くしてから飼い始めた小ラッシー。何よりも千尋がこの仔犬を大事に思っていることを吹雪も知っている。その小ラッシーに何かあったとしたら、今日の千尋の不可解な行動も理解できる。
 もしも千尋が小ラッシーを失うことになったら……。
 千尋はいったいどうなるだろう。
 いや、そんなことはあってはならない。小ラッシーまで失うなんてことになったら、今度こそ立ち直れないような気がしてならない。
 吹雪は心配そうな瞳で隣に座っている千尋を見た。身動きせず、窓の外をじっと見つめる千尋。吹雪は黙って隣に座っているしかできなかった。
 病院近くの駅で電車を降り、そのまま無言で千尋の後をついて行く。着いたところは大きな動物病院だった。
 一瞬ドアの前で千尋は立ち止まる。
「千尋……」
 小さく声をかける吹雪に、千尋は目を細めて軽く微笑んだ。
 無理に笑おうとしているのが痛いようにわかり、吹雪は切なくなっていた。
 そして、千尋は意を決して動物病院の中へ入っていった。
 受付で名前を言い、待ち合い室にいるように言われる。今日は患者が少ないのか、
待ち合い室には誰もいなかった。シンとした待ち合い室では、なんだか息が詰まりそ
うだった。
「だ、大丈夫よ! 小ラッシーはちゃんと元気にアンタのところに戻ってくるから!」
 千尋の沈んだ表情に、やっとの思いで吹雪は励ますように声をかける。
「小林さん、お待たせしました」
 椅子に座ったかと思うと、すぐに白衣を着た獣医に抱きかかえられた小ラッシーが奥からやってきた。  
「はい、小林さん。小ラッシーくん、良いコにしてましたよ」
 獣医の腕の中で大人しくしていた小ラッシーは、千尋の顔を見た途端、嬉しそうにしっぽを振った。
「大丈夫か? 小ラッシー」
「足の怪我はもう大丈夫ですよ。食欲もありますし、他に悪いところはありません」
「良かったな、小ラッシー」
「わん♪」
 獣医から千尋の腕へと移った小ラッシーは、嬉しそうに千尋の顔を舐めていた。
「では、あちらで会計を済ませてください」
「あ、先生、ありがとうございました」
 千尋は小ラッシーを抱いたまま、深々と頭を下げた。獣医はにっこりと微笑むと、奥へと消えていった。
 会計を無事済ませ、あとは帰るだけになった時だった。それまでのなりゆきを黙って見ていた吹雪が、千尋の上着の裾を引っ張った。
「ちょっと千尋」
「何?」
「小ラッシーって何で入院していたの?」
「散歩の途中で川原に行った時、落ちていたいた針金を踏んじゃったようで、足の裏を怪我したんだ。少し出血が多かったから念のために入院していた」
「一応訊くけれど、それって命にかかわるなんてこと……」
「あるわけないでしょ。足の裏に怪我しただけなんだから」
「!!!」
 悪い方に考えていただけに、単なる足の怪我だけだと聞いて、吹雪は怒らずにいられなかった。しかし何と言っていいのか言葉が出ず、ただ千尋の背中を叩き始めた。
「ふ、吹雪ちゃん、痛いって」
 小ラッシーを抱いている千尋は吹雪を止めることができず、痛いと言いながらもそのまま叩かれていた。
「2日ほどのことだけど、小ラッシーがいないと眠れなくてね」
 突然千尋がそう言うと、ぴたりと吹雪の手が止まった。
 大事ないとわかっていながらも、ダメージは大きかったらしい。
 とはいえ、あれだけ心配させておいて結果がこれでは、許せるものも簡単には許せない。
「帰る!」
 吹雪は一言怒鳴って、動物病院を出た。小ラッシーを抱いたまま、千尋は吹雪の後を追う。
「送っていくよ」
「いいわよ!」
 これ以上一緒にいては、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだった。
 振り返りもせず吹雪は早足で進んでいく。
 そんな怒りながら歩く吹雪の背中に向って、千尋は小さくつぶやく。
「吹雪ちゃん、今日はありがとう……」
「何? 何か言った?!」
 少し先を行く吹雪が眉間にしわを寄せたまま振り返る。
「いや、なんでもないよ」
 淋し気な影など見えない優しい瞳で微笑む。
 2人で見た桜並木ほどではないけれど、どこかの家の庭に植えられた桜の木から、春色の小さな花びらがフワリと舞っていた。

 

                                   Fin


<ちょっとフリートーク>

これはタイトルから先にできたお話です。
桜の開花宣言がニュースで流れていて、桜が見たいなぁと思いながら書いていました。
本当は新3年生時の春休みという設定にしていたのですが、
ちょうどこれを書いている時にLaLa5月号が発売になり、
2年生のままという神様のお言葉があったので急遽新3年生はやめました(笑)
それから皆様、お気づきでしょうか?
今回ちーさんのトレードマークである『♪』が出てきていません。
今回はあえて使わずに、シリアスで通してみました。
結局最後まで吹雪ちゃんはちーさんに振り回されて終わってしまいましたけれど(^^;)
前作(Scene9)で吹雪ちゃんが「ありがとう」を言ったので、
今回はちーさんに言わせてみました。