1日の予定が無事に終了し、夕方花梨は紫の待つ屋敷に戻ってきた。
紫の挨拶も待たずに、花梨は部屋に着くなり、手に入れたばかりの香を焚いてみる。入手してからどんな香りなのかと、今日1日ずっと気になっていた。
香はやがて白い煙りと共に、部屋の中を漂い始めた。
「神子様、今日もお疲れさまでございました。あら、この香り、梅香でございますね」
帰宅の知らせを聞いた紫が花梨の部屋に入るなり、そうつぶやく。
「あ、ただいま。紫姫、このお香が梅香だってすぐにわかるなんてすごいね」
「良い香りですもの。でも、神子様、このお香お持ちでしたかしら?」
「今日ね、糺の森で手に入れたの。それでね、頼忠さんの好きな香なんだって」
お香を入手した時に、頼忠は花梨に微笑みながらそう告げたのを思い出す。
「まぁ、そうでございますか。頼忠殿の……」
紫はにっこりと微笑む。それを見た花梨は何故か顔を赤く染める。
「べ、別に頼忠さんが好きだからこの香りを焚いてるわけじゃないよ! あ、頼忠さんは梅香が好きだけど、私が頼忠さんを好きなわけじゃなくて……。頼忠さんの好きな香だから私も好きというか……。だから、えっと……」
何故か慌てて言い繕おうとする花梨に、紫はどうしたのかと不思議そうに首を傾げた。
「神子様、何を慌てておいでですの? わたくし何も申しておりませんけれど?」
「えっ?」
確かに紫は何も言ってはいない。だから、花梨がごまかすようなことは何ひとつないのである。それなのに、ひとり慌ててぺらぺらと話した自分が恥ずかしくなる。
「頼忠殿のお好きな香りをまとっていたら、頼忠殿は神子様をお好きになるかもしれませんわね」
「ゆ、紫姫?! す、好きって頼忠さんが私を?!」
紫の『頼忠が好きになる』という言葉に、花梨の心臓が思わず高鳴る。何故か今の花梨は『好き』という言葉に敏感になっているようである。
「あら、何をそんなに驚かれるのですか? 頼忠殿が神子様をもっとお好きになられたら、神子様と八葉の絆ももっと深まるでしょう? あら、どうかなさいましたか?
お顔が真っ赤でございます。病いにでもかかりましたでしょうか?」
「な、何でもないよ、大丈夫」
心配げに顔を覗く紫に、花梨は首を振る。
紫の言った『好き』の意味が、神子と八葉という仲間としてのものだとわかり、花梨は少しホッとした。
「そうでございますか? それならよろしいですけれど。そうですわ、神子様、あと
で移香をなさいませ」
「移香?」
「ええ。お香はお召し物に香りを移して使用したりするものでございます。今夜お香をお召し物に焚きしめておけば、明日にはほどよく移っておりますわ」
「そうなんだ。部屋の中で焚くだけじゃないんだ」
「では、わたくし、お召し物を掛けておくための何かを準備してきますわ。少しお待ちくださいね、神子様」
「うん。お願いね、紫姫」
紫が退出し、一人になった花梨は小さな香炉に顔を近づけた。くんと香りを吸い、ほぅと息を吐く。優しい香りは頼忠を思い出させ、心をあたたかくさせる。
「頼忠さん、なんとなく良い香りがするなぁと思ってたけど、着てるものに梅香を焚きしめてたんだ。私の着るものが頼忠さんと同じ香りだったら、なんだか頼忠さんに抱きしめてもらってる感じかも。……やだ、私何考えてんのよ?!」
頼忠の広い腕の中なら、小柄な花梨はすっぽりと収まってしまうことだろう。
花梨はそんなことを思わず想像してしまい、急に心臓がどきどきしてして、顔もずいぶんとほてってきたのが自分でもよくわかった。
「神子様、言い忘れましたけれど、今後も梅香をお使いになるのでしたら、香をもっと御用意いたしましょうか?」
途中で引き返してきたのだろう。部屋を出たばかりと思っていた紫が戻ってきた。何気なくそう言いながら花梨の顔を見た紫がひどく驚く。
「み、神子様! どうなさったのですか?! お顔がさきほどよりも赤くなっておりますわ! やはり病いでしたのね! 神子様、我慢なさらずに紫に申してくださいませ。すぐに薬湯をお持ちいたします。それより薬師をお呼びしたほうが良いですわね」
「ゆ、紫姫、私病気なんかじゃないから! ホントに大丈夫なの」
「いいえ、神子様の御身に何かあっては大変です。早くお休みくださいませ。誰か、神子様の御寝所の用意を!」
神子様大事の紫は、そう言ったかと思うと大急ぎで部屋を飛び出していった。
「ちょ、ちょっと待って! 紫姫〜」
花梨の声は紫の耳には届いていないようである。衣擦れの音がだんだんと遠ざかっていった。
「ホントに病気なんかじゃないのに……」
花梨はぼそりとつぶやいた。
本当に具合も気分も悪いわけでもなく、ただ単に頼忠のことを考えていたせいで顔が赤くなっただけである。
けれど。
恋も病いのひとつというのなら、花梨は確実に病いにかかっている。
今はまだ花梨でさえも気づかない病い。
治せるのは薬湯でも薬師でもなく、梅香をまとう青年のみ。
◇ ◇ ◇
花梨が梅香の香を入手してから4日が経っていた。
ずっと武士団のとしての任務が忙しくて来られなかった頼忠が、この日朝早くから花梨の許を訪れていた。
「神子殿、久しくこちらに参れず、申し訳ございませんでした」
控えの間に姿を現した花梨の顔を見るなり、頼忠は深々と頭を下げた。
「気にしないでください。お仕事忙しかったんでしょう?」
4日ぶりに頼忠の顔を見た花梨は、ほのかに頬を染める。とくん、と心が高鳴り、あたたかい何かが心に広がっていく気がしていた。
「本日からはまたいつものようにこちらに参り、神子殿のお供つかまつります」
「頼忠さんがいてくれると心強いです。よろしくお願いしますね」
たった4日とはいえ会えなかったのを淋しく思っていたせいか、今日からまた一緒に1日を過ごすことができると聞いて花梨嬉しくて顔をほころばせた。
「もったいないお言葉。この頼忠、以前にも増して尽くし、必ずや神子殿をお守りいたします」
「ありがとうござます。でも、頼忠さんも無茶して怪我しないようにしてくださいね」
「神子殿をお守りできるなら、傷のひとつやふたつ……」
「ダメです! 怪我なんてしないでください。じゃないと私……」
「神子殿……」
自分の瞳には相手のことしか映らず、まわりを無視したそんな2人っきりのやりとりがいつまでも続きそうで、今日一緒に行動を共にすることになっている泰継はしびれを切らし、話を中断させた。
「神子、時間がない。行くぞ」
泰継の声にハッとした花梨は、やっと頼忠の隣に泰継がいたのを思い出す。
「あ、はい。じゃ、頼忠さん、行きましょう」
泰継に呼ばれた花梨は頼忠に笑いかけた後、すっと頼忠の横を通り過ぎた。
その時、ふいによく知っている香りが頼忠の鼻をくすぐった。
「これは……」
花梨の後ろ姿を目で追いながら、頼忠が小さくつぶやく。
「どうした?」
立ち止まったままの頼忠を不審に思った泰継が声をかけた。
「あ、いえ、神子殿の香が……」
「神子の香? あぁ、梅香のことか。最近の神子は毎日梅香をまとっている」
泰継の言葉に頼忠は考える。最近とは、つまり4日前に供をした時は使っていなかったのだから、あの日香を入手してから今日までのことであろう。
「そうですか。神子殿が梅香を……」
心なしか頼忠の口元に笑みが浮かぶ。
「そういえば、梅香は頼忠の好きな香であったな」
「覚えておいででしたか」
4日前に糺の森に一緒に行ったのは泰継であった。
「一度聞いたことは忘れぬ。梅香にしてからずいぶんと神子の気が安らいだように思えていたが、なるほど、そなたのせいか」
「私のせい? 泰継殿、それはどういう意味なのでしょう?」
「……わからぬか。されどわざわざ私が教えることではないだろう。自分で考えろ」
何故か呆れたようにため息をつくと、泰継は頼忠を放ってスタスタと歩き出した。
「あ、あの、泰継殿?」
「神子が待っている」
「は、はぁ」
花梨と泰継の後を追いながら頼忠は考えみる。けれど、何をどう考えていいのかわからず、結局泰継の言葉の意味がわからずに、首をひねる頼忠であった。
終
|