チュンチュンと聞こえてくる鳥の声。
今日も朝が来たと思った私は、もぞもぞと褥から出る。顔を洗って着替えて……、などと条件反射的に順番にこなそうと思った。
しかし、その瞬間に感じる違和感。
あれ、なんか目線が低い?
歩いているはずなのに、何かが違う気がする。
まだ寝ぼけた頭の私は何気なくそばに置いてあった鏡を覗いて見た。それに映った自分を見て、眠気もぶっ飛ぶくらいに驚いた。
う、嘘?!
私、ネコになってる???
どこからどう見ても私の姿は真っ白な猫。
この姿はこの間拾った子猫−ネコと名づけた−の姿である。
ちょ、ちょっと待って!
私は……、私の身体はどうしちゃったの?!
慌てて視線をいつも寝ている褥の方へと向けてみるけれど、私の身体はどこにもなかった。
よくマンガであるような幽体離脱っていうので魂だけネコの身体に入っちゃったのかも、と思ったのだけど、そういうのだったら私の身体はあるはずで。でも身体はどこにも見当たらない。
ということは、私は身体ごとネコになっちゃったってこと?!
何で?! どうしてこんなことになっちゃったの?!
私はすっかりパニックして、小さなネコのまま、円を描くようにくるくるとその場を走り回っていた。
しばらくしないうちに走るのも疲れ、私はちょこんと部屋の隅に座っていた。
何度鏡を見ても、自分の顔を手でさわってみても、自分の身体はネコである。
どうしていいのかわからなかった。
いきなり京に来て、その上ネコになってしまうなんて、私はこの先どうなってしまうの?
訳がわからなくなって泣きそうになった。
その時、廊下が軋み、誰かが歩いてくる音が聞こえて来た。
「神子殿、おはようございます。お迎えにあがりました」
そう言って入ってきたのは頼久さんだった。
頼久さん!
でも、何故か何かを探すようにキョロキョロとしている。
「神子殿? すでにお出かけになられたのだろうか。いや、藤姫様はまだ部屋にいらっしゃると言っておいでだったが……」
頼久さーん、私、ここにいるよ?
って、今の私はネコなんだった!
部屋の隅に小さくなっている私に、頼久さんは気づかない。
どうして、ネコなのよ!
せっかく頼久さんが迎えに来てくれたのに!
そうだ!
頼久さんだったら何かわかるかも。助けてくれるかも!
いつだって、どんな時だって頼りになる人だもん!
私は急いで頼久さんの足下へ駆け寄る。
頼久さん、頼久さん!
「みゃう、みゃう」
必死に呼び掛けてみるけれど、小さな口から出て来たのは、言葉じゃなくて猫の鳴き声。
ダメだ〜。
うぅ、当然だよね、ネコなんだから。
ネコが私だとどうしたら伝えられるかと思っていたら、頼久さん、私の存在に気づいたみたい。
「みゃう、みゃう!」
「神子殿のネコか。 どうした? そんなに鳴いて」
頼久さんはひょいと私を抱き上げた。
そして、頼久さんの精悍な顔がすぐそばにくる。こんなに近づいたのは初めて。
整った顔立だなぁとずっと思っていたけれど、間近で見るとさらによくわかる。
あ、意外にまつげ長い。
自分の立場も忘れ、すっかり頼久さんの顔に見とれてじっとしていると、頼久さんは私をさらに顔の方へ近づけた。
こ、こんなに近づいたら……。
あまりにも近すぎて、形の良い唇がすぐそこなんですけど!
思わずこの唇にキスされたらどんな感じなんだろう、なんて考えてしまう。
な、何考えてるのよ、自分!
そんなこと、考えている場合じゃないのに!
心臓がかなりの早さでドキドキしている。
それだけでも耐えられなくなりそうなのに、頼久さんったら。
「おまえ、神子殿がどちらへ行かれたかわかるか?」
そんなことを言いながら微笑んだの!
ネコになって良かった……じゃなくて!
そんな素敵な笑顔を間近で見ては、子猫の小さな心臓では耐えられませんって!
それに、こんな顔で微笑まれるなんて、ネコがうらやましい!
「お前に聞いても仕方ないな。少しここでお待ちしてみよう」
頼久さんはそういうと、簀の子に腰を下ろした。
私はというと。
頼久さんの膝の上で大人しくしていた。
この姿をどうにかしようにも頼久さんには伝えられないし、それよりも、頼久さんがあんなふうに素敵に微笑んでくれるならネコの姿もいいかなぁなんて思ったり。
こうして側にいるのもいいかも、なんてことを考えていた。
頼久さんは膝の上にちょこんと小さく座る私の頭を軽く撫でた。
大きな手。この手にいつも守られているんだ。
頼久さんの大きな手に触れられるととても安心する。
だけど、こうして頼久さんの手をよく見てみれば。普段の時は気づかなかったけれど、頼久さんの手、あちこちに傷がある。
あ、ここの傷、最近できたものだ。
私が怨霊封印するのに時間がかかるから、きっとその時に傷つけたんだ。
……ごめんなさい。
私は守られてばかりで何もできなくて。
私、これからはもっとがんばるね。
頼久さんにどんな小さな傷もつけないようにしたいから。
私は頼久さんの傷をペロッと舐めた。人間の姿だったらすぐに薬を用意して塗ってあげたいけど、このネコの姿じゃできないから。
「傷の心配でもしてくれているのか?」
頼久さんは私を撫でながらそう言った。
そうよ。
今はこんなことしかできないけど。姿が元に戻ったらちゃんと薬塗ってあげるね。
「お前は神子殿のようにやさしいのだな」
再び抱き上げられ、頼久さんの唇が目の前に迫る。
頼久さんて誰かとキスしたことあるのかなぁ。
私はまたそんなことをつい考えてしまう。
頼久さんだって大人の男の人なんだから、そういうこと、あったよね?
……あった?
それは過去形なのだろうか。
今は?
今はどうなのだろう。頼久さんに恋人がいるとか聞いた事なかったけれど、私が知らないだけかも。
私は頼久さんのことを何も知らない。
過去のことは私と出逢う前のことだから仕方がないけれど、今は……イヤ。頼久さんの隣に誰か女の人がいるなんてイヤ。
頼久さんのことをもっと知りたい。もっともっと近くに行きたい。
私は思わず頼久さんに触れてみたくて、唇の方へと手を伸ばしてみた。
触れたかどうかというところで、頼久さんがピクッと動いて少しだけ顔をしかめた。
え? あっ! もしかして、爪?!
私、爪立てちゃった?!
頼久さんに怪我させないって決めたばかりなのに、私のバカッ!
大丈夫、大丈夫?
頼久さん、ごめんなさい!
手で触れる訳にはいかないから、心配した私は爪が当ったであろう唇の端を思わず舐めてしまった。
そうして、2、3度舐めてハッとした。
焦っていたとはいえ、私、何をしました?
よ、頼久さんの唇に触れちゃっいました?
……こういうのも、その、キ、キスっていう?! い、いわないよね?!
そ、そうよ、今の私はネコなんだ。で、でもネコはネコでも中身はあかねだし。
こ、こういう時はどうしたらいいの?!
私は頼久さんが気になって視線を向けてみた。
思わずめまいがしそうだった。
ど、どうして?!
どうしてそんなに優しく微笑んでるの?!
「私はお前に気に入られたのかな?」
頼久さんの微笑みと一言に、私はもう耐えられないくらいに心臓が高鳴って……。
こんなふうに微笑まれたら、ネコだって頼久さんのこと好きになっちゃうよ。
私はなんだか急に恥ずかしくなって手足をバタバタさせて頼久さんの手から逃れようとした。頼久さんが思わず手をゆるめたすきに私はダッと頼久さんから離れた。
落ちてた衣に駆け込んで身体を隠しつつ、でも頼久さんが気になって顔だけを出してそちらを見た。
やっぱりまだ頼久さんは微笑んでいて。
ずるい!
ネコにはそんなふうに笑うなんて。
ネコに妬くのも変だけど、『あかね』にももっと笑顔を見せて欲しい。
「……さ、頼久」
小さいけれど聞こえて来たのは藤姫の声。
「藤姫様のお呼びだ」
頼久さんは私に視線を向け、もう一度私に微笑んで、そちらへと向かって行った。
そして、足音が聞こえなくなった頃。
ちりり、と鈴の音が聞こえて、私は元の姿に戻った。
結局、どうして私がネコになったのかはわからず。私がネコになった理由はあったのだろうか。ぼんやりと考えていると、どこから現れたのか、本物のネコが私に身体をすり寄せて来た。
「私、負けないからね、ネコ」
ネコを見た瞬間にそう思った。
頼久さんの笑顔を一人占めさせない。ネコよりもどんな女性よりも、私は頼久さんの近くに行くんだから。
そう決意した私の言葉に、ネコは返事をする代わりに、大きくあくびをしていた。
終
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