もうすぐ太陽が天頂に登りつめる時刻。
友雅は突然思い立って土御門を訪れた。
今日は土御門の屋敷内にあかねも藤姫もいるはずである。
姫君2人が相手とあれば、退屈な午後も楽しめるというもの。そんなことを考えながら、友雅は女房が案内するというのをやんわりと断り、友雅は勝手知ったる藤姫の部屋へと入ろうとした。
「藤姫、御機嫌いかがでしょう?」
「友雅殿〜!」
声をかけた途端に、室内にいた藤姫は友雅にすがりついてきた。
「おや、どうしましたか? 今にも涙がこぼれそうだ」
「神子様が、神子様が……」
「落ち着いて。はい、深呼吸」
大粒の涙を瞳に浮かべた藤姫は、友雅に従って2度大きく深呼吸した。
友雅は袖でそっとこぼれ落ちそうな藤姫の涙を拭い、藤姫が落ち着くのを待った。
「それで、神子殿がどうしたと?」
「朝から行方がわからないのです!」
その言葉に友雅は納得した。藤姫が取り乱す時はいつだってあかねがらみである。それもあかねが屋敷脱走をした時がほとんどである。
あかねの脱走……それは藤姫の配慮が逆効果なのかもしれない。
毎日怨霊封印やらお札探しだと忙しく過ごしているので、たまには休息をと1日中予定を何も入れない日を作るのだが、あかねはじっと屋敷に留まってはいなかった。
あかねにしてみれば、屋敷でじっとしているのは性に合わないらしい。もっとも屋敷にいても特別することがないのだから、仕方がないと言えばそうなのかもしれないのだが。
好奇心旺盛なあかねには、京の世界で見ておきたい事、知っておきたい事がたくさんあるのである。
「また行方をくらませるとは、懲りない姫君だ」
友雅は小さく笑みをもらす。
「友雅殿! 笑い事ではありません!」
「あぁ、すまなかったね。それで神子殿は今度はどちらに足をお運びなのかな?」
これまで屋敷を脱走したあかねは、どこどこへ行くという書き置きを一応残していた。だからと言って脱走を認めている訳ではないのだが、あかねは書き置きしておけば問題ないだろうと考えている。
「それが分かっているのなら、とっくに誰かを迎えにやっております」
藤姫大きくため息をつく。
「……なるほど。それはもっともだ。ところで頼久はどうしたんだい? 彼なら神子殿の行方に心当たりがあるのではないのかい?」
いつも付き従っている頼久には、あかねも心を許しているのか何でも話しているようである。
「頼久は父君の供で朝からでかけております。何か知っているのであれば、父君の供などせずに神子様のお側を離れないでしょう」
こうなっては本当に誰もあかねの行方は知らないという事である。
「書き置きもなく、頼久も知らないとあれば、これは困ったことだ」
さすがに心配になったのか、友雅の顔にも心配の色が浮かぶ。
「ともかく、この周辺でも見て来よう。もうしばらくしても帰って来ないのであれば、他の八葉にも連絡を」
「わかりましたわ」
友雅はいつになく真面目な顔で藤姫の部屋を出て行った。
◇ ◇ ◇
書き置きもないままあかねが遠くへ行ったとは考えにくい。そう考えると、ふらりと土御門の内かその周辺を散歩でもしているのではないかと思えてくる。あのあかねのことである。好き勝手に歩き、迷子になってしまったかもしれない。
友雅は屋敷内の捜索を屋敷の警備の者に任せると、自分は屋敷の周辺を重点的に探し始めた。
果たして、友雅の勘があたったとでもいうのか。
のんびりと前方から歩いてくるあかねが瞳に飛び込んで来た。
「神子殿!」
「あ、友雅さん。こんにちは」
あかねは笑顔で友雅に挨拶をする。その途端、友雅は呆れた顔になる。
「挨拶している場合ではないだろうに」
「えっ?」
「屋敷を抜け出してどこへ行っていたんだい?」
「私、屋敷を抜け出してなんていませんよ?」
あかねは不思議そうな顔で友雅を見た。
この返事には一瞬友雅の方が驚いて目を見開いた。そして、大きくため息をつく。
「神子殿はここがどこだかわかっているのかい?」
「えっ? ここって、お屋敷の庭じゃ……」
あかねはきょろきょろとあたりを見回した。
「いくら土御門の庭でも、ここまで広くはないと思うが? それに、川が流れているのは変だと思わなかったのかい?」
あかねが歩いて来た道の脇には、橋が架けられるほどの幅のある川があった。
「だ、だって、私、門を通ったり、塀を乗り越えたりとかしてませんよ?! 川だって、お屋敷はとっても広いからそれくらいあるんじゃないかなぁって……」
あかねはびくびくしながら友雅に訊く。
「まったく、この姫君は……」
友雅は呆れたように頭に手を置いた。
「と、友雅さん?」
あかねを見るその瞳はどこか怖く感じる。あかねは何故か身の危険を感じる。
「姫君には少しお仕置きが必要らしい」
「お、お仕置き?」
「神子殿には少々身を持って知る必要があるね。毎回こうでは、そばにいるこちらの方が大変だ」
「ご、ごめんなさい。でも、ホントに今日は抜け出す気はなかったんですよ?」
身を小さくして見上げられる様子はあまりにも愛らしく友雅の瞳に映る。
思わず友雅はあかねに触れたくなり、その頬に手を伸ばした。
「痛っ」
突然友雅の右手の指先に痛みが走る。
「あっ! 大丈夫?」
あかねは友雅を気遣うのかと思ったのだが、視線は自分の胸元にあった。
水干の襟元から、ひょいと小さな子猫が顔を覗かせた。
「びっくりしたね。ごめんねぇ」
あかねは子猫の頭を優しく撫でた。
「神子殿、それは……?」
友雅は憮然とした表情で指をさすっていた。
「迷い猫みたいです。庭をうろうろしてたから捕まえようと思ったら、意外にすばしっこくって、追いかけてやっとつかまえたんです」
「なるほど。神子殿は猫のように、猫の通り道から抜け出したらしい」
「だから、わざとじゃないんですってば! このコが放っておけなかっただけなんです!」
あかねは子猫を抱きしめながら一生懸命友雅に反論した。
「ところで、神子殿。子猫がお気に入りなのはわかるが、私はその子猫のせいで怪我をしたのだが?」
友雅の右手、人さし指の指先に猫がツメを引っ掛けられたせいで血がうっすらとにじんでいた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?!」
あかねは慌てて友雅の手を取った。
「これくらいなら大丈夫ですよね」
そう言ったかと思うと、あかねは友雅の指をペロッと舐めた。
「!」
思わぬ行動に友雅は慌てる。まさか、あかねがこうするとは思っていなかった。
「うん、血は止まっているし大丈夫ですよ。でも、後でちゃんと手当てしたほうがいいかもしれませんね」
にっこりと笑った後、あかねは子猫に言う。
「もう友雅さんの手を引っ掻いちゃダメだからね」
子猫は、みゃうと1回鳴いて、自分の足を舐めた。
「……友雅さん?」
少しの間ではあったが、立ち尽くしていた友雅にあかねは不思議な顔で訊いた。
「神子殿は……」
友雅は下を向いてため息をついた。口元に少しだけ笑みを浮かべたことはあかねには気づかれてはいない。
「な、何ですか?! 私、何かまた友雅さんに怒られるようなこと、やっちゃいました?」
あかねはびくびくしながら訊く。
「神子殿と一緒だと本当に退屈しない。だが、これと脱走の件は別だ」
何を思ったのか、友雅はひょいとあかねを抱き上げた。
「と、友雅さん?!」
「神子殿はまるで子猫のようだからね。ちゃんと捕まえておかないとどこへでも行ってしまう」
「も、もうどこへも行きません! だから下ろしてください!」
手には子猫を抱いていたので、あかねは足だけをばたつかせて友雅の腕から逃れようとした。
けれど、どうがんばっても力の強い友雅からは逃げることは叶わず。
「藤姫も待っているからね。たっぷり藤姫にお仕置きされるといい」
「藤姫のお仕置き?! 藤姫、怒ると怖いのよ! いやぁ!」
あかねがどんなに焦っても、友雅は動じずに藤姫の部屋へと向かって行った。
◇ ◇ ◇
「こうしておけばそう簡単には抜けだせないですわね」
「怨霊退治以外の時はこの姿でいてもらうのが一番だ。神子殿、よぉく似合っているよ」
友雅があかねを連れ帰ってからしばらくの後。
藤姫と友雅はあかねの正面に座って、お互いに満足そうに微笑んでいた。
当のあかねは今にも泣きそうな感じである。
「ふぇ〜ん、衣裳が重くてきついよぉ〜」
「それくらい、普通の姫君は着こなしておいでです」
泣き言を言うあかねに、藤姫はぴしゃりと言い放った。
今あかねが身に着けているのは、藤姫と同じような十二単姿である。
確かに京の貴族の姫なら着こなせて当然かもしれない。けれどあかねはこんな幾重にも衣を重ねた十二単は写真でしか見たことがない。着こなすことなど到底できるはずがなかった。
「では、友雅殿。わたくしは席をはずしますので、あとはよろしくお願いいたします」
「はい。おまかせを」
にっこりと笑顔を交わす藤姫と友雅の様子を、あかねはただ見つめるしかできなかった。
室内にあかねと友雅は2人っきりになる。何か会話をするでもなく、友雅はあかねをただじっと見つめていた。
あまり良い感じのする雰囲気ではなく、どこか息苦しくて、あかねから言葉をかけた。
「友雅さん……」
「何だね? 神子殿」
「あの……、コレ脱いじゃダメですか?」
「もう我慢できなくなったのかな?」
着替えてからまだ少ししか経っていない。現代の時間でいえば30分ほどである。
「もう、いいですよね? 藤姫もいないし」
すがるようなあかねの瞳に、友雅は口元に笑みを浮かべる。
「そう神子殿にお願いされては……、と言いたいところだが、まだダメだよ」
「友雅さ〜ん」
甘えた声で名を呼ぶけれど、それくらいでは友雅には通じない。
「そんなふうに呼ばれると、まるで誘っているようだよ?」
「さ、誘ってる?!」
あかねは真っ赤になって慌てる。それを見た友雅は楽しそうに笑った。
からかわれているのだと気づいたあかねは、頬をふくらませて怒った。
「う〜、友雅さんのいじわる!」
「藤姫のお仕置きだ。藤姫が戻るまでそのままでいなさい」
反論の余地はない、と言わんばかりの言葉にあかねは言葉を詰まらせた。
藤姫のお仕置きと言われれば、大人しく従わなければならない。彼女に心配かけたのは事実なのだから。
「あの……」
「今度はなんだい? 神子殿」
「この格好は我慢します。でも、せめて、そんなに見つめないでください。友雅さんに見られると、なんかこう落ち着かないというか……」
友雅の視線はどこか熱っぽく、ただでさえ重ね着で苦しいのに、さらに息が詰まりそうである。
「今日の私は監視役だからね。神子殿がどこかへ出かけてしまわないように見張っていなければならない。しかし、どうしてもというなら考えてもいい」
「ホントですか?」
「嘘は言わないよ」
そう言ったかと思うと、何故か友雅は両手を広げた。
「見ない代わりに、この腕の中に居てもらおう。瞳を閉じていてもこの手でつかまえておけば、神子殿がいなくなる心配はなくなるからね。子猫を抱くように優しくするよ。さ、神子殿、こちらへ」
「え、遠慮します! 遠慮させてください!」
あかねは真っ赤になって頭を左右に何度も振った。
「遠慮することはないのに。あぁ、着物が重くて歩きにくいのかな? それなら私がそちらに行こう」
友雅はすっと優雅に立ち上がる。
「ダ、ダメです。友雅さんはそこにいてください!」
「そうかい? つまらないねぇ」
友雅は残念そうにつぶやくと、もう一度座り直した。
あかねは横を向いて深呼吸した。
ただでさえ友雅の視線に耐えられそうにないのに、抱きしめられでもしたら鼓動は思いっきり跳ね上がってしまい、心臓がもちそうになかった。
ドキドキする心臓を押さえながら、射るような友雅の視線にあかねは耐えなければならなかった。
あかねの衣裳の裾の上では、拾った子猫が気持ちよさそうに昼寝していた。
終
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