土御門邸の庭。
藤姫の使いを終えた頼久は、見事に手入れされた花や植木が並ぶその庭の小道を歩いていた。
行く先はあかねのところである。
今日の役目を終えた頼久に、藤姫はあかねは部屋にいると伝えた。この後特に予定のなかった頼久は、一目お顔だけでも拝見を、と思い訪れてみることにしたのだった。
その途中でのことである。
突然小道の脇の茂みから、うす紅色の水干を身に付けたあかねが飛び出して来た。
「み、神子殿?」
「頼久さん!」
「神子殿、どうなさったのですか、そんなところから。今、お伺いしようかと思って……」
「しっ! お願い、ちょっとここに立ってて!」
あかねは口元に人さし指を伸ばして添え、頼久の言葉をさえぎると、頼久の背後に回り、ぴたりと寄り添う。
「み、神子殿?! 何をなさって……」
背中に感じるぬくもりに、頼久は困惑する。
「お願いだから、私がここにいるって言わないでくださいね」
「あかね! どこだ?!」
頼久が向かっていた方向から、二の腕をあらわにしたいつもの姿の天真が走って来たのである。
「天真?」
「おう、頼久。こっちにあかねが来なかったか?」
「神子殿……か?」
一瞬答えるのに間があく。
きょろきょろと天真があたりを見回す様子から、どうやらあかねの姿は、身体の大きな頼久にすっかり隠れてしまい、天真側からは見えないようである。
「どうかしたか?」
「い、いや……」
ふいに、頼久は上着が引っ張られるように感じを受けた。それはあかねがギュッと握りしめているせいである。
きっと背後では『お願い、頼久さん!』とでも心の中で必死に唱えているのだろう。ぬくもりがさらに近くに感じる。
そして頼久は、あかねのお願いを裏切ることなくこう言った。
「神子殿ならここを駆け抜けて、向こう側へと行かれた」
「そうか、わかった」
天真は頼久が示した方へと向かおうとした。
「待て、天真。神子殿がどうかされたのか?」
呼び止められた天真は振り返ると、腕を組んで呆れたように大きくため息をついた。
「あいつ、また一人で屋敷を抜け出したんだぜ。大豊神社のあたりでうろうろしてたらしい。いつになったらあいつは自分の立場というものを理解するんだ? もういいかげん自覚して欲しいもんだぜ。それに、龍神の神子だっていう立場以前に、女一人で町中に出たらどういうことになるか何度言ったらわかるんだ。無事に帰って来れたからいいようなものの、今度と言う今度はとっつかまえて説教してやる。じゃ、急ぐから、またな」
一気にそう言うと、天真は再び勢いよく駆けて行った。
あの様子では相当怒っているようである。つかまったら正座でもさせられてそれこそ延々と説教が続きそうであった。
頼久は、天真の姿が見えなくなるまでそのままその場に立っていた。
そして背後のあかねも同じように、頼久の背中にしがみついたままでいた。
やがて足音が小さくなり、消えていくと、あかねはホッと息をついた。
しかし、ホッとしたのもつかの間だった。
「神子殿」
頼久の声音にあかねはドキリとする。
声音は静かだが、これは確実に怒っているのが感じられた。
もしかすると天真以上に知られてはいけなかったのかもしれない。
頼久が怒る理由はもちろん天真と同じである。一人で屋敷を抜け出すなときつく言われているのに、こっそりとそんなことをするのだから、怒るのも当然である。
あかねはまさか頼久が天真に理由を聞くとは思わなかった。
一難去ってまた一難とでもいうのだろうか。
天真に続いて頼久にも怒られるのかと思うと、あかねは頼久の背中にしがみついたまま身動きできなかった。
「神子殿、天真はもう去りました。もう御隠れにならずとも大丈夫です」
言葉の裏に、隠れずに出て来なさいと言われているようで、あかねはますます立場が悪くなる。
「神子殿」
返事をしないでいると、再び名前を呼ばれた。
隠してもらった手前もあり、こうなっては、あかねが頼久に逆らえるはずもなく。
おずおずと頼久の上着から手を放す。
さかさず頼久は振り返り、あかねと向き合った。
「神子殿、天真の言ったことは本当ですか? またお一人で屋敷を抜け出したのですか?」
「えっと……」
真剣な瞳の前では、ごまかそうにも言い訳のひとつも出て来ない。
「抜け出したのですね。それでは天真が怒るのも無理なきことです」
「……頼久さんも、怒ってる?」
言いづらそうにしながらも、あかねは頼久に訊く。
「私は神子殿を怒れる立場にはありませんが、心外でございます」
「心外?」
思っていなかった返事に、あかねは不思議そうに首を傾げる。
「神子殿は私の言葉をお忘れですか? 神子殿がお出かけなさる時は必ず私がお供つかまつるとお約束した筈です。神子殿がお望みなら、私がどこへでも連れて参ります。どうしてお出かけになりたいならなりたいで、この頼久に一言おっしゃってくれないのですか?」
「そ、それは……」
まっすぐに見つめる瞳に、あかねは罪悪感を覚える。確かにそう約束をしたし、忘れてはいない。けれど……。
「それほどに私を信用なさっておられないのですか?」
「ち、違います! そんなんじゃないんです!」
今まで口ごもっていたあかねが急に顔をあげて言った。
「私が頼久さんを信用してないなんてこと、絶対にありません! 誰よりも私は頼久さんを頼りにしているんです! 今だって天真君から逃げて来た時、頼久さんなら絶対に黙っててくれると思いました」
「天真から逃げて来た理由を先に知っていれば、天真に嘘はつきませんでした」
そう言われ、あかねはしゅんと肩を落とす。
「いいですか、神子殿。貴女は私にとってかけがえのない大切な方なのです。もしも私の気づかぬところで貴女に大事があったらと、そう考えるだけで胸が締めつけられる思いをいたします」
「……」
「この京をお一人で出かけることがどんなに危険なことか、神子殿はおわかりになられていない」
「そ、そんなつもりはないんです。今回出かけたのだって、ちょっと行って戻ってくるだけだから大丈夫かなって……」
「そのちょっとした油断が大事を招くことがあるというのです。お側にいれば守ることができます。怨霊でも、それ以外でも、貴女に危害を加えようとする輩がいれば、私がどんなことをしてでもお守りいたします。私は神子殿がお出かけになりたいと申すのであればそれを止める気はございません。ですから、黙ってお一人で出かけるのではなく、必ず一声おかけください」
必死な瞳の頼久に、あかねは本当に自分が悪いことをしたのだと感じる。
ここは現代なのではない。
それは事実としてわかっているだけで、本当は何一つわかっていなかった。
考えてもいない危険がここにはあるのだ。
頼久がこんなにも心配する理由を自分は理解していなかった。
いつも軽く考え、いらない心配をさせてしまった。
どんな理由であっても、頼久には心配はかけたくないと強く思う。こんな表情の頼久はもう見たくはなかった。
「ごめんなさい。もう絶対に一人で屋敷を抜け出したりしません」
あかねは静かに頼久に告げる。
「本当ですか?」
念を押されるように、見つめられる。
「本当です。本当にもうしません。どこかへ行く時は必ず頼久さんに伝えますから、一緒に行ってください」
あかねがそう言うと、やっと頼久は信用したのかやわらかい笑みを浮かべた。
目もとの優しさに、あかねの心があたたかくなる。
この瞳にいつまでも見つめてもらいたいと思う。
この時のあかねは、頼久に心配されてすまないと思うのと同時に、少し嬉しく感じていた。
それは、頼久が自分のことをこんなにも心配し、そして『誰よりも大切な方』だと言ってくれたから。
特別な意味はないのかもしれない。八葉と龍神の神子という立場だから言ってくれたのかもしれない。けれど、その言葉だけでも嬉しいと思う。
頼久がそばにいると、ほんわかと心があたたかくなって嬉しくなる。
微笑むと同じように微笑み返してくれる。そういう時があかねにとってしあわせな瞬間だと思う。
あかねは、頼久と一緒にいる時が一番好きだと感じていた。
穏やかな雰囲気が流れ始めたその時、ふいにあかねは自分の服のポケットに大切なものが入っているのを思い出した。
「あ、肝心なこと忘れるとこだった」
「神子殿?」
「頼久さん、ちょっとしゃがんでもらえますか?」
「こうですか?」
頼久は視線をあかねと同じくらいになるように身を低くする。
「あのね。はい、これ」
あかねは水干の下に着ている制服のポケットから何かを取り出して頼久の首にかけた。
「神子殿、これは……?」
あかねが首にかけたのは、あかねの手のひらよりも少し小さいくらいのお守り袋だった。うす紅色の地に、桜の模様が入った布地を使っている。そして、紐の部分が少し長くなっていて、首から下げるとお守り袋がちょうど頼久の胸のあたりに来るようになっている。
「いつも守ってくれるお礼です。袋の方は私が作ったからちょっと見栄えが悪いかもしれないけど。で、でも中には大豊神社のお札がちゃんと入っていますから御利益はありますよ」
「大豊神社のお札? 神子殿、もしやそのために……」
「えっ? あ、えっと……」
本当は黙って渡そうと思っていたのに、ペラペラと話さなくてもいいことまで話してしまい、あかねは口を押さえる。しかし、今さらごまかそうとしても無理である。
頼久の顔色がさっと変わる。
あかねの手作りのお守り袋と大豊神社のお札。
天真はあかねが大豊神社のあたりでうろうろしていたと言った。それから判断すれば、どう考えてもあかねが出かけた理由は大豊神社へお札をもらいに行ったとしか考えられない。
この時、自分のためにあかねが屋敷を抜け出したことを頼久は知った。
「神子殿は私のために……。それなのに事情も知らず、私は神子殿を責めるようなことを言ってしまい……」
お守り袋を握りしめながら、頼久は頭を下げる。
「き、気にしないでください。頼久さんのせいじゃないの。私が勝手にお守り袋を作りたかっただけなの。だから、そんな顔しないで」
危険をかえりみずに守ってくれる頼久が、怪我をしないようにとあかねは祈りを込めてお守り袋を作ったのだった。
頼久は自分のために、こんなことをあかねがしてくれていたのかと思うと、嬉しくて仕方がなかった。
「神子殿、この守り袋は生涯肌身離さず持ち続けます。ありがとうございます」
「生涯、だなんて大袈裟ですよ。だって、縫い目なんてぼろぼろなんですよ」
あまり裁縫が得意とはいえないあかねの言うように、縫い目は少し曲がっていた。しかしそれも手作りの良さとでもいうのだろう。
「いいえ、神子殿が私のために作っていただいたものです。どんな守り袋よりも、いえ、どんな物よりも私にとっては大切な物でございます。これを胸に、なお一層力を尽くして生涯神子殿をお守り続けることを、この頼久、神子殿にお誓い申し上げます」
「頼久さん……」
頬を赤く染めながら、あかねは微笑んだ。
2人は見つめあい、さきほどよりもさらに良い雰囲気が流れ始める。お互いがお互いの方へと手を伸ばし、触れあうかと思ったその時。
「いた! あかねぇ!」
突然2人の耳に飛び込んできた声。
「えっ?! て、天真君?!」
探しても見つからなかったためか、天真が再び戻って来たようである。
条件反射とでもいうのだろうか、すごい形相で駆けてくる天真を見て、あかねは思わず後ずさり、そしてさっと駆け出した。
「じゃ、じゃ、頼久さん、またね!」
「逃げるな、あかね!」
「ごめんなさ〜い!」
脱兎のごとく素早く駆けて行くあかねに、頼久は声をかけられないままだった。
「あかね!」
「ま、待て、天真」
目の前を通り過ぎていこうとした天真の腕をひょいと頼久はつかむ。
「なんだ、頼久! お前にかまっている暇はねぇんだ!」
「い、いや。神子殿も無事に帰って来られたのだし、そう叱らずとも良いのではないか?」
「ああ? お前だってあいつが一人で出かけたなんて聞いたら腹立つだろうが。お前も何度も注意しただろう?」
「それはそうだが……。いや、神子殿も反省している御様子だったぞ」
まさか自分のためにあかねは一人で出かけたのだとは、頼久は言えなかった。
天真は何かを言いかけたが、それよりも先に頼久の胸元に視線を向けた。
「……なんだよ、それ」
突然天真は頼久の首から下がったお守り袋を指差す。
「こ、これは、なんでもない」
頼久は慌ててお守り袋を胸元にしまう。
「なんかずいぶんとかわいらしい色だったな? お前って意外に少女趣味なのか?」
「なっ?! ば、馬鹿なことを言うな。これは……」
そこまで言いかけて、頼久はハッとする。
このお守り袋をあかねからもらったと天真が知れば、何を言われるかわからない。
「なんだよ、言いかけて止めるのか?」
「お前には関係のないことだ」
無表情にふいっと横を向く。
「ふぅん。俺はあかねと何か関係があるかと思ったんだけどな。違うか?」
「関係ないと言っている」
不機嫌そうにする頼久に、天真は訝しく思う。
「ま、どっちでもいいけどな。それより、お前、さっきあかねをかばって俺に嘘ついただろ? 何だかんだ言ってもお前はあかねに甘いからな。やっぱり俺がちゃんと言い聞かせてやる!」
「天真!」
頼久の手を振り切り、天真はあかねが駆けて行った方へと追いかけて行った。
一瞬頼久もその後を追おうとしたのだが、これ以上自分が関わってはさらに話がややこしくなるのではないかと思い、足を踏みとどめた。
天真は天真なりにあかねを心配していたのがわかるだけに、そう強くも言えないのだ。
頼久は立ち止まったまま、あかねが走り去った方を見つめる。そして胸元に収めたお守り袋を衣の上からそっと触れた。
願わくば、あかねが天真につかまらないように。
そう思いながら、頼久は口元にそっと笑みを浮かべた。
終
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