いつでもそばに


   

 ヒノエと望美の間に待望の子どもが生まれて早半年。
 別当屋敷には元気な泣き声と、そして明るい笑い声がいつも響いている。

「困ったなぁ、どうしてそんなに泣くの?」
 望美はさきほどから泣き止まない娘のはるひを抱きながらつぶやく。
「おしめも換えましたし、お腹もお空きでないはずですのに、姫様は一体どうなさったのでしょうか」
 隣にいた凪乃も心配そうにしながら、はるひの顔を覗き込む。
「今、帰ったぞ」
 望美が困り果てていたその時、港での仕事を終えたヒノエが屋敷に戻って来た。
「あ、お帰りなさい、ヒノエ君」
「大きな泣き声だな。向こうまで聞こえて来ていたぞ」
 ヒノエは望美の隣に腰を下ろし、娘の顔を覗き込んだ。
 何が原因なのか、はるひは顔を赤くして泣くばかりである。
「なかなか泣き止まなくて困ってるのよ」
「どれ、はるひ、何泣いてるんだ?」
 ヒノエは望美からはるひを受け取り、抱き上げた。
 すると、それまで大声で泣いていたのが嘘のようにぴたりとはるひは泣き止んだ。
 それどころか、笑顔を見せ始める。
「ご機嫌治ったようだぜ?」
 手慣れた様子でヒノエははるひをあやす。
「不思議よねぇ。はるひってヒノエ君に抱かれるとどんなに泣いてても泣き止むんだもん」
「ま、はるひにはわかってるんだろ。最愛の男が抱いてるって。なぁ、はるひ」
 ヒノエははるひに微笑む。
 目を細め、口元を緩ませたその表情はいつになく優しい。
「ヒノエ君、変な言い方しないでよ。最愛の『男』じゃなくて『父』でしょう」
 言葉の意味に間違いはないけれど、受け取り方次第ではとんでもない台詞である。
「ご丁寧に訂正するなんて、もしかして妬いたとか?」
「ば、ばかなこと言わないでよ! 『父』だからそう言っただけじゃない。それがどうして妬くことになるわけ?!」
 望美はそう言って否定する。
 しかし、実のところ、そういう気持ちがなかったわけではなかった。
 ヒノエがはるひに見せる微笑みは優しすぎる位に優しく、自分の知らない微笑みだと感じてしまう。
 娘に向けられているのだとわかっていても、そんな微笑みを見せて欲しくないと思ってしまう。
「じゃあ、拗ねてる?」
 そんな望美の気持ちを知ってか知らずか、ヒノエはさらにそう続ける。
「拗ねてません!」
 望美はそう言うと、ぷいっとヒノエから視線をはずして反対方向を向いてしまった。
 何を考えているのかわからないけれど、そうしてムキになって否定するところが可愛いとヒノエは思う。
「望美、こっち向いて」
「……」
「望美」
 返事をしないでいると、再び名前を呼ばれる。
 そっぽを向いていた望美だったが、ゆっくりとヒノエの方を向く。
 望美の瞳に映るのはとびっきりの優しい笑顔。
 いつもそうだ。
 どんなに機嫌を損ねるような事を言われても、この笑顔ひとつで許してしまえる気持ちになってしまう。
 本当にヒノエには敵わないと思う。
 だから、自分に向けられる笑顔が一番優しいものであって欲しい、と望美は思う。
「機嫌なおして。ね、望美……」
 ヒノエは望美に顔を近づけていく。
 あと少しで互いの唇が重なろうかとしたその時。
 それまで大人しく寝ていたと思っていた息子のカナタが泣き始めた。
「な、なんだ、カナタ、いきなり泣くな!」
「どうしたの? 泣かないで、カナタ」
 望美はカナタを抱き上げると、なだめるようにあやした。
 するとその途端、カナタは泣き止んだ。
「びっくりさせるな、まったく」
「ホントに、どうしたのかしら?」
 二人で息子の顔を覗き込むが、カナタに異変は感じられない。
「変な夢でも見たんだろ。気にするな、望美」
 そう言うと、再びヒノエは望美に口づけようとする。
 しかし。
 さきほどと同じように大きな泣き声が響き出す。
「またかよ」
 どういうわけか、ヒノエが望美に口づけしようとするとカナタは泣くのだった。
「コイツ、まだ赤子のくせにオレの邪魔をしようってのか?」
 ヒノエはカナタの小さな鼻をツンと軽くつまむ。
「カナタにはわかるのかもよ? ヒノエ君が、カナタの大事な『女』に近づく『悪い男』だってことが」
 クスクスと笑いながら、望美は言った。
「『女」じゃなくて『母』だ。それに『イイ男』の間違いだろう?」
 ヒノエは訂正する。
 そう言いながら、先ほど望美が言った台詞を思い出す。
 ヒノエと望美は互いに目を合わせると、楽しげに笑い合った。
 そうして、ヒノエははるひを、望美はカナタを抱きながら二人は肩を寄せ合い、しばらく家族揃っての和やかな時間を過ごしていた。
 やがて望美が大きなあくびをした。
「ふあぁ」
 初めての子育ての上に、子が二人もいるのだから疲れているのだろう。
「適当に乳母にまかせろよ」
「うん、わかってるんだけどね」
 望美は少し苦笑いしながら答えた。
「さて、そろそろチビ共はお寝むの時間だ。はるひ、ゆっくり寝ろよ」
 ヒノエの腕の中にいたはるひは、いつの間にかすやすやと寝入っていた。
 そばで控えていた乳母にはるひをそっと渡すと、ヒノエは望美の耳元に顔を近づけた。
「望美、向こうで待ってる」
 短くそう言った後、望美の頬に口づけた。
 その途端、何かを感じたのかカナタは一度大きく泣くのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 別室に移ったヒノエは、しばらく一人手酌で酒を飲みながら寛いでいた。
 一本二本と酒を入れていた器が空になっていく。
 待てどもなかなか望美は来ない。
「別当殿」
 やっと人の気配が近づいたと思ったが、それは望美ではなかった。
「凪乃か。望美はどうした?」
「それが、若君をあやしているうちに、ご一緒にお休みになられてしまって……」
「……またか」
 ヒノエは小さくため息をついた。
 今日はカナタで昨日ははるひ、一昨日ははるひ、その前はカナタ、その前の前もカナタだっただろうか。
 夜になると、望美は子供達を寝かしつけているうちに自分も寝入ってしまっていた。
 二人の子供にはそれぞれ専任の乳母をつけている。
 信頼できる乳母なのだからまかせておけば大丈夫なのだ。
 けれど、望美はなるべく自分で育てたいと言い、乳母にまかせっきりにすることなく出来る限り二人の世話をしていた。
 やっと授かった子なのだから、可愛いのはわかる。
 もちろんヒノエも、どんなに望美との口づけを邪魔されようとも実の息子なのだから愛しい。
 娘にいたってはそれこそ目に入れても痛くないほどに可愛い。
 しかし、こうも毎夜望美と過ごせない夜が続くと、我慢できるものもできなくなるというもの。
 昼は仕事で屋敷を離れ、顔を合わせられるのは朝と夜。
 朝ではゆっくりしている余裕はあまりないから、せめて夜は一緒に過ごしたいと思う。
 それなのに、こうして一人で過ごしているのが現状だ。
 夫婦なのに会話すらまともにできなくて良いというのだろうか。
 否。
 それは絶対にありえないし、あってはいけない。
「凪乃、早急に宿の手配をしろ」
「は? 宿でございますか?」
 突然のヒノエの命令であり、その内容に凪乃は一瞬戸惑う。
「そうだ。近場で構わない。温泉があって二人っきりで過ごせる宿だ」
「二人っきりと申されますと……」
「オレと望美に決まっているだろう! 望美は子育てに疲れているんだ。このへんで休養しないと望美が倒れてしまう。違うか?」
「そ、そうかもしれません。望美様は頑張りすぎるところがおありですから」
 日頃の望美を見ているだけに、ヒノエの言い分はもっともだと凪乃は思う。
「そうだろう。だから、『望美のため』に少しゆっくりできる場所に連れて行きたいと思う」
「わかりました。早急に手配いたします」
「子供達を置いて行くのはしのびないが、乳母とお前にまかせたいと思う。できるか?」
「もちろんでございます! どうぞ私めにおまかせくださいませ。乳母のお二人とともにお世話いたします」
「そう言ってももらえると嬉しいよ」
「そんな、当然のことでございます」
「それから、この休養の件、お前から望美に伝えてもらえるか?」
「はい、お伝えいたします。では、私は準備に入らせていただきます」
「ああ、頼んだぞ」
「おまかせください!」
 凪乃は一礼するとすぐさまその場を離れて行った。
 再び一人になったヒノエは酒を杯に注ぐとぐいっと一気に飲む。
 そしてにやりと笑う。
 望美と二人っきりになれないのなら、なれる状況を作れば良いのだ。
 子供達には悪いが、それは一時のこと。
 毎日朝から夜まで四六時中ずっと一緒にいるのだから、少し位は我慢しても良い筈だ。
 それに、実際本当に望美に休養は必要だし、これからのためにも夫婦の時間は必要なのだ。
 凪乃の協力があれば、この計画は成功したも同然。
 望美も凪乃の言葉なら断る事はできないだろう。
 夜が明ければ二人っきり。
 誰にも邪魔される事なくゆっくりと二人の時間を満喫できる。
「独り寝した分は取り戻すからな」
 ヒノエはそう言うと、再び杯に酒を注ぎ、飲み干した。
 

                                      終    



<こぼれ話>

  

望美「ただいま〜」
凪乃「おかえりなさいませ。あ、あの望美様、ご気分でもお悪いのですか?」
「ううん、大丈夫。ただ、眠いだけ……」
「は?」
「ヒノエ君が寝かせてくれないんだもん……。ちょっとだけ向こうで寝てくるね」
「の、望美様?」
ヒノエ「凪乃、ご苦労だった! 子供達は?」
「あ、あちらに……」
「そうか。はるひ、カナタ、留守にしていた分、今日は遊んでやるぞ!」 

はたして、望美ちゃんの休養になったのかどうか……(^^;)
確実にヒノエ君は満足のようですが(笑)

   

 

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