ひとりじめ


  

 陽が西に傾きかけた頃、一隻の船が港に着いた。
 いつものように無事に到着した旨の先触れが、別当屋敷にいる望美のもとへと届く。
 望美はその先触れにホッとしつつ、港まで出迎えたい気持ちを抑えて大切に思う二人の帰宅を屋敷で待っていた。
 しかし、無事だという先触れがあったにもかかわらず、望美は落ち着かない様子で出入り口先で行ったり来たりとうろうろしている。
 その様子を見ていた望美付の侍女の凪乃は、少し苦笑しながら声をかけた。
「望美様、少しは落ち着いてくださいませ」
「でも到着遅くない? もう屋敷に着いても良い時間でしょう? もしかして何かあったんじゃない?」
「そうご心配なさらずとも大丈夫ですわ。何かあれば真っ先に連絡が来る筈でございます」
「でも……」
「もう間もなくお帰りになられるはずでございますよ」
 いつもよりも過剰に心配する望美に、凪乃は笑顔を向けた。
 今日は、ヒノエだけでなく、ヒノエに連れられて初めて海に出たカナタが帰って来る日である。
 ヒノエがついているのだから何事もおこらなかったと思うものの、初めての航海でカナタは大丈夫だったのか、自分の目で確かめるまでは心が落ち着かない望美であった。
「やっぱり私ちょっと外まで迎えに……」
 そう望美が言いかけた時だった。
「ただいま!」
 元気の良い大きな声が望美の耳に届く。
 ハッとして声の方を見てみれば、ヒノエとヒノエの腕に抱かれているカナタの姿がそこにあった。
「ははうえ、ただいま!」
 望美の姿を見るなり、カナタはヒノエの腕から飛び出した。
 そしてそのまま望美のもとへと走り、母の胸の中へ飛び込む。
 元気な姿で無事に戻ってきた我が子を望美はキュッと抱きしめ、そしてホッとしたように微笑んだ。
「お帰り、カナタ。元気にしてた?」
「うん!」
「父上の言う事、ちゃんと聞いてた?」
「うん! ね、ちちうえ?」
 カナタは後ろを振り返り、ヒノエに訊く。
「そうだな。オレの言う事は守ってイイコにしてたな」
 ヒノエが微笑みながらそう答えると、父のその言葉にカナタも満足して笑顔になる。
「ね、ボクちゃんとイイコだったんだよ」
「そうね、イイコね」
 望美はカナタの頭を撫でてあげた。
 3日ぶりの再会を喜ぶ母子の姿。その微笑ましい様子がヒノエの瞳に映る。
「あのね、ははうえ、うみってこぉ〜んなにおおきくって、ひろいの!」
「そう。海は綺麗だった?」
「うん! あおくて、なみがざぶ〜んてなって、それから、それから……」
 カナタは頬を上気させながら、この3日間にあったこと一気に望美に伝えようとした。
 それを望美は柔らかく微笑みながら聞いている。
 目をキラキラと輝かせながら話す姿は、よほどカナタは海で過ごした時間が楽しかったのだ見て取れる。
 望美は嬉しそうにカナタの話を聞いていた。
 その様子をヒノエは無言で見つめていた。
 カナタが楽しげにしている様子は、ヒノエにしても嬉しい事である。
 初めての航海がカナタにとって良い思い出となったのなら、これから先の航海、ひいては水軍頭領の後継としての第一段階を無事通過した事になる。
 父親としても、現水軍頭領としても、満足のいく結果であった。
「それでね、ははうえ、よるはおほしさまをみながらねたんだよ!」
 カナタの話は一向に終わりを見せようとはしなかった。それどころか、話の熱はあがるばかりである。
 楽しかったことを母に伝えたいという気持ちはヒノエにもよくわかっていた。
 しかし、いつまでも出入り口先で話し込んでいては落ち着かない。
 それに。
 航海の後、望美の両手が広げられて迎えられるのは、いつもヒノエであった。
 けれど、今日一番にその両手に抱かれたのはカナタである。
 初めての航海の帰宅ということで、望美の腕に一番に抱かれるのをカナタに譲っても良いという気持ちはある。
 とはいえ、いつまでも望美の視線さえこちらに向かないのでは、それはそれで気分が悪くなるというものである。
「コホン」
 ヒノエはわざとらしく咳払いをした。
「あ、ヒノエ君、おかえりなさい」
 その言葉は、まるでヒノエの存在に今気づいたかのような感じだった。
「ん、あぁ、ただいま」
「ね、ね、ははうえ。うみでね、こ〜んなおおきなサカナをみたんだよ!」
 母の視線を一時でも放すものかと、再びカナタは母に話しかける。
 もちろんカナタに悪気はないのだが。
「……まぁ、初めて3日も離れていたんだ。母親に甘えたくなるのもしかたがないか」
 まるで自分に言い聞かすかのようにヒノエはつぶやくのだった。
「ところで、うちの大事な蕾姫の姿が見えないな? 普段なら真っ先に出迎えてくれるのに」
 ヒノエはあたりを見渡してみる。
 ただの外出後でさえも、ヒノエが帰宅すれば望美と一緒に真っ先に出迎えてくれる一人娘の姿が何故か今日は見えない。
「はるひなら今はお義父様のところへ行っているわ」
 カナタとの話を中断させて望美はヒノエに告げた。
「何? 親父のところだと?」
 予想外の言葉にヒノエの左の眉尻がぴくりと上がる。
「ええ。ヒノエ君とカナタが家を出てすぐにお義父様がこちらに来たの。それで、『たまには一人でのんびりと過ごしなさい』ってはるひを預かってくれたのよ」
 ヒノエの父・湛快にしてみれば、はるひは可愛い孫娘である。親馬鹿ならぬ祖父馬鹿ぶりを発揮して、別当屋敷に入り浸り、度を越しているのではないかとばかりに可愛がった。その様子にヒノエは一時は会う事さえも禁止したことがあるほどだった。
 そのせいなのか、湛快はヒノエの留守を見計らって遊びに来てははるひを可愛がっていたが、今回はついに自分の屋敷に連れて行ってしまったらしい。
「何が『一人でのんびりと』だ。望美を気遣うふりして、実はただ単に孫娘と遊びたかっただけのくせに。おい、今すぐ別邸に迎えを出せ!」
 近くに控えていた部下にヒノエが指示を出そうとしたので、望美は慌ててそれを止める。
「あ、待って、ヒノエ君。さっき、お義父様から手紙が届いたわ。明日には連れて来るって」
「信用ならない」
 ヒノエは即座に言い切った。
「そんな事言わないの。別にお義父様ははるひをいじめてるわけではないんだから、たまには一緒に過ごしていただいても良いんじゃない?」
「親父の可愛がりぶりは尋常じゃない」
 ヒノエはこう言うが、望美にしてもれば、湛快もヒノエもその可愛がりぶりは大差ないように思える。
 ともかく、明日連れて来るとの連絡があった以上、こちらから迎えを出すのは失礼である。望美はそう判断して今回はヒノエに諦めてもらう事にした。
「はるひに会いたいとは思うけれど、今日は我慢してね? あ、夕食の用意してあるの。ヒノエ君の好きなお酒も用意してあるから。そっちに行きましょう。ね?」
 可愛らしく首を傾けてお願いされれば、それに否を口にすることはヒノエにはできない。
 ヒノエは諦めて小さくため息をもらした。
「わかっ……」
「ボク、おなかすいた!」
 ヒノエが望美の言葉に『わかった』と承諾するよりも早く、カナタは言った。
「ははうえのつくるごはん、ボクだいすき!」
「そう? カナタの好きなものもあるわよ」
「わーい!」
 喜ぶカナタを抱き上げると、望美は夕食が用意されている部屋へと向かって歩き出した。
 結局望美とまともな会話ができず、そして微妙な疎外感を感じながら、ヒノエは仕方なく2人の後へと続いた。

 

◇ ◇ ◇

 

「それでね、それでね」
 夕食の最中でも、カナタの話は尽きなかった。
 一口食べては望美に一言、それを何度も繰り返し、望美もその都度カナタの話に耳を傾ける。
 勢いのついたカナタの話はとどまる事を知らず、その間を割って入るのはヒノエといえど難しいものだった。
 はるひがいれば心は和むのだろうけれど、そのはるひは今夜はいない。
 ヒノエは憮然としながら、望美とカナタと楽しげな様子を見つつ、一人手酌で酒を飲むのだった。
 とはいえ、ヒノエが疎外感を感じたのはそれほど長くはなかった。
 よほど興奮して話をして疲れたせいか、それとも単純に子供の寝る時間が来たのか、カナタのまぶたは次第に重くなってく。
 眠気はどんどんと襲って来て、こっくりこっくりと船をかきだした。
 そしてついに望美の膝の上で寝入ったのだった。
 ヒノエは片手に持っていた杯を置くと、すやすやと気持ち良さげに眠るカナタの顔を覗き込んだ。
「やっと寝たか」
「そうね、しゃべり疲れたのかしら。あんなにしゃべるカナタは初めて見たわ」
 そっと静かにカナタの髪を撫で、望美は微笑んだ。
 ヒノエはもう一度カナタの顔を覗き込み、すぐには目覚めそうにないのを確認すると小さく口笛を吹いた。
「お呼びでしょうか」
 すぐさま気配が感じられて応えが聞こえて来た。
 その場に姿を見せたのは、ヒノエの部下でありカナタの守役の鷹夜だった。
 片膝をつき頭を下げて、ヒノエの指示を仰ぐ。
「カナタを寝所へ連れて行け。起こさないよう気をつけろよ」
「御意」
 鷹夜はそっと望美の膝で眠っているカナタをそっと抱き上げた。
「それから」
 その場を離れかけた鷹夜にヒノエは声をかけた。
「明日はカナタを連れて別邸へ行け。はるひを迎えに行くんだ」
「えっ、でもお義父様は明日連れて来るって……」
 ヒノエの出した命令に、望美は不思議がる。
「そんな言葉、当てになるものか。そう言っておきながらなんとかはるひを留めようとするに決まってるんだ。いいか、明日中に必ずはるひを連れ戻せ。急ぎはしないが、必ず明日中にな。以上だ」
「仰せの通りに」
 そう言って頭を深く下げると、鷹夜はカナタを抱いてその場を出て行った。
「わざわざ迎えに行く事ないのに。それもカナタまで連れて行けなんて」
「我が息子でも、これ以上は邪魔されてくはないからね」
「邪魔?」
「あぁ、邪魔だったね。今のこの時間まで望美をひとりじめしたんだ」
「ひとりじめって、そんなこと……」
「あるだろう? 今日は出迎えのの口づけさえもまだしてない。それどころか、会話さえほとんどできなかったじゃないか」
「それはそうだけど……、あっ……」
 2人っきりになった途端、ヒノエは素早く望美の隣に移動したかと思うと、すかさず望美に口づけた。
「このオレが寛大な心でこの時間まで望美を独占するのを許したんだ。これから先の時間はたとえカナタでも邪魔はさせない」
 そう言ったヒノエの表情は、どこかまだ不機嫌さを残しているように見えた。
 少しばかりの違和感を望美は感じ、ふとその違和感の原因を思いつく。
「ねぇ、ヒノエ君、もしかして……」
「ん?」
「カナタに妬いてるの?」
「オレが、カナタに、だと?」
 否定も肯定も口にはしないけれど、一瞬動揺したように、望美の目には映った。
 大の大人が子供相手に何を思っているのかと、望美は小さく笑う。
「こんなことじゃ、次の航海はどうなることやら。3日以上長くなったらカナタの話はもっと長くなりそうだもの」
 近い将来のことを考え、クスクスと笑う望美だった。
 それに対してヒノエはこんなことを言い出す。
「望美の言う通りだな。こんなふうになるんなら、当分は海に連れて行けないな」
「ヒノエ君ったら」
「望美を独占していいのはオレだけだからな。目の前で独占されるくらいなら、その原因を作るような事はしない」
 本気でそうするわけではないとわかってはいるけれど、そんなことを口にするヒノエが望美にはなんとなく可愛く思えた。
「妬きもちやき」
「何とでも言え」
 ヒノエは望美の肩を抱き寄せて自分の腕の中に閉じ込めると、先ほどよりももっと深い口づけを望美に与える。
 息する事さえ許さないとばかりの深い口づけを受けながら、望美はヒノエに愛されていることを心から感じる。
 どんな理由であれ、ヒノエに独占されるのは心地良かった。
「望美」
「なあに?」
「やっと二人っきりになれたことだし、二人の時間を楽しもうか」
「ヒノエ君も私に話したい事たくさんあるのかしら?」
「そうだね。望美に伝えたい事はたくさんあるよ。言葉じゃなく、ね」
「えっ?」
「夜明けまでにはまだまだ時間はたっぷりあるんだ。カナタにつきあった分、オレにもつきあってくれるよね? 望美?」
 艶っぽく見つめる瞳に、望美はドキリとする。
「でも、その……」
「オレが眠るまででもいいからさ」
 こんなことを言い出したところでヒノエが望美よりも先に寝るなどありえない。ヒノエは限界を知る事がなく、言葉通りに済む筈がないのはこれまでの経験からわかりきっていることである。
「オレの想いを伝えられるのはイヤ?」 
「イヤってわけじゃ……」
「じゃ、いいね?」
 さらに色っぽい視線が望美を突き刺す。
 ここまで来てはもう抵抗はできない。
 もっとも望美にしてみても、本気で抵抗する気などないのだけれど。
 頬を赤く染め、うつむいて望美は小さくつぶやく。
「ほどほどにお願いします……」
 ついに望美の承諾を得たヒノエは、満足そうに笑みを浮かべるともう一度望美に唇を落とす。そしてサッと望美の膝裏に手を入れて抱き上げた。
「続きは向こうでね。でも……」
「?」
「ほどほどじゃなくて、たっぷりと、だろ?」
 そうして、二人は奥の間へと場所を移し、そして静かに襖は閉じられた。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌日。
 庭先でカナタは鷹夜と遊んでいた。
「ねぇ、たかや」
「なんですか? 若君」
「どうして、ははうえとちちうえはおへやからでてこないの?」
「そ、それはですね……」
 何と説明したものかと鷹夜は戸惑う。
「ボク、ははうえたちのおへやにいってこようかな」
「そ、それはダメです!」
 慌てて鷹夜はカナタを止める。
「どうしてぇ?」
「それは、あの……、そ、そうです! 父君は母君にお話があるのです! 昨日、若君はたくさん母君とお話されましたよね? 父君も若君と同じように、母君にたくさんお話することがあるのです!」
「そっかぁ。でももうおひるすんだよ。あさのごあいさつしてないのになぁ。ボクやっぱりははうえのところに……」
「わ、若君! 妹姫様をお迎えに参りましょう! 姫様もお迎えを待っているでしょうから!」
「あ、そうだ! はるひにもおみやげあるんだった。はやくわたしてあげなきゃ!」
「そうです。それが良いです」
「はるひ、ボクがいないあいだ、イイコにしてたかな?」
 カナタの興味が両親から妹へ移ったことに鷹夜は安堵する。
 もしあのままカナタが両親のもとへと向かっていたなら、あとでどんな咎めを与えられるのかわからない。
 ヒノエと望美の夫婦が二人だけで部屋にこもった場合、出てくるまで近付かないのが屋敷に仕える者達にとって暗黙の了解なのである。
 よほどの事がない限り、それも熊野の存続をかけるような一大事にでもならない限り、声をかけることすらしてはならない。もし他愛のないことで邪魔するようなことがあれば、ヒノエの機嫌が大荒れになることは必須。それだけはなんとしてでも避けなければならない事態であった。
「たかや? はやくいこうよ!」
「そ、そうですね。参りましょう」
 鷹夜はカナタの手を引いて、はるひのいる別邸へと向かうのだった。

                                      終    



<こぼれ話>


望美「ほどほどにって言ったのに〜」
ヒノエ「たっぷりと、に変更しただろう?」
「もうお昼過ぎてるんだから、そろそろ放して〜」
「オレが眠るまでって言っただろう?」
「ヒノエ君〜〜〜」

ヒノエ君に捕まった望美ちゃん、はるひちゃんが戻る頃には開放されるでしょう(笑)
カナタ君もヒノエ君も2人して望美ちゃんをひとりじめしたい様子。
ヒノエ君の息子ですから、カナタ君も相当独占欲は強いでしょうね(笑)

   

 

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