それは望美がヒノエの許に嫁いだばかりの頃のお話。
「ヒノエ君! あれ、ここにもいない?」
望美がヒノエを探しにきたのは、日常使われることの少ない、屋敷の奥の一室だった。
「どこ行ったのかなぁ。今日は一日お屋敷にいるって言ってたのに」
二人で使っている一室をはじめ、屋敷の中をずいぶんと探しているのだがどこにもヒノエの姿はなく、最後の場所でも見つけることができなかった。。
望美は小さくため息をつき、その場に腰を下ろした。
毎日顔を合わせているとはいえ、逢いたい時に逢えないとなるとなんだか心に淋しさが募る。
「ヒノエ君」
そこにはいない想い人の名を呼ぶ。
その瞬間、ぽっと胸の奥が暖かく感じてきた。
片想いの時、想いが届かないと思っていた時なら、その名前を呼ぶだけで苦しさを感じた。
名を呼ぶことさえしてはいけない気がしていた。
しかし、今は違う。
「ヒノエ君」
もう一度繰り返す。
秘めなくても良い名を呼べるのは、しあわせなこと。
望美は嬉しさに、表情をほころばせた。
「そういえば、結婚したんだから、旦那様に君付けで呼ぶのも変かなぁ」
ふと何気なく望美はそう思った。
「えっと、ヒノエさん? ヒノエ様? なんかしっくりこないし」
う〜ん、と望美は首を傾げて考え込む。
「じゃあ、ヒノエ? ……いやん、ヒノエだって。呼び捨てなんて照れるし!」
望美は顔を赤く染めて、何故か畳をバシバシと叩く。
「えっと、気を取り直して。やっぱり本名で呼ぶのが良いのかな。湛増君、湛増さん、湛増様……」
ひと呼吸置いて。
「湛増……」
さらに望美は顔を赤くする。
「だから呼び捨ては照れるってば! 湛増……、湛増だって! そんな、湛増なんて呼べないよ〜」
呼べないというわりには連呼していることに、望美は気づいていない。
一人照れながら、ほてった顔を手を扇代わりにして仰ぐ
「やっぱりヒノエ君が一番だよね」
いろいろ考えた末に、その結論に落ち着いた。
「なんかいろいろ考えてたら暑くなっちゃった。お水でももらってこよっと」
望美は立ち上がって、その場を離れた。
その場から望美が姿を消してすぐのこと。
部屋の奥に立てかけていた几帳が揺れる。
「まったく、一人で何を言ってるんだか」
誰もいないと思ったその部屋。
実は几帳の裏側にヒノエがいたのだった。
まさかヒノエがいるとは思わずに一人つぶやいていた望美の言葉は、全てヒノエの耳に届いていた。
「お前がオレを呼んでくれるなら、何でも構わないけどね」
ヒノエはさらりとつぶやいた。
しかしその頬は、珍しくほんのりと赤く染まっていた。
終
<こぼれ話>
ヒノエ君、実は嬉しくて照れてたり(笑)
望美ちゃんはずっと『ヒノエ君』って呼んでそう。
ヒノエ「今度からオレのこと呼び捨てで呼んでくれる?」
望美「えっ、呼び捨てで? それは無理」
ヒ「どうして?」
望「どうしてって……(呼ぶ度に顔真っ赤になるのは困るし)」
ヒ「ダメ?」
望「『ヒノエ君』のが良いよ、うん、ね、ヒノエ君」
ヒ「そこまでいうなら強要はしないよ。ま、夜になれば呼び捨てになるんだし」
望「よ、夜って、何のこと?!」
ヒ「夜は『夜』さ」
望「えっ?! え〜〜〜っ?!」
果たして、本当に『夜』は呼び捨てで呼んでいるのでしょうか?!
ヒノエ君のみぞ知る?(笑)
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