月夜の音色


 

 その夜、望美はなかなか寝ることができず、ひとり寝所を出て簀子縁に座っていた。
 聞こえるのはかすかな虫の音。
 やがて何故かその音も聞こえなくなる。そうすると、この世に自分一人しかしないような心細さが襲ってくる。
「こんな時間に一人でお月見かい?」
「えっ?!」
 ふいの呼びかけに振り向いてみれば、木の影から姿を表したのはヒノエだった。
「ヒノエ君?! ヒノエ君こそどうしたの、こんな時間に」
「そう聞くのは不粋だよ。姫君に逢いたくて忍んで来たに決まっているだろう?」
「えっ、し、忍んで来たって」
 何をされたわけでもないのに、ただそれだけで望美は慌てる。
「すぐ赤くなる。姫君はホント可愛いねぇ」
「もう、からかわないで」
「からかってなどないさ。可愛いから可愛いって言ってるのさ」
 にっこりと微笑みながら言われると、何も返す言葉は浮かばない。ただ一層望美の頬は紅に染まる。
「このまま姫君を抱き上げて奥へと連れて行って、秋の夜長をゆっくりと過ごしたいところだね」
「ヒ、ヒノエ君?!」
「でも、ま、今日のところはここで一緒に月見をするだけにしておこうかな。隣、座っていい?」
 そう言いつつも、ヒノエは望美の返事を待たずに隣に腰を下ろした。
「まだ返事してないのに」
 望美は顔を赤くしたままちょっと拗ねたように反論するが、拒絶はしなかった。
「ほら、ご覧よ。今夜の月は見事だ」
 漆黒の帳が降りた空には真円の満月が浮かんでいた。
「うん、綺麗だね」
「そう、綺麗だ」
 月を見上げていた望美だったが、ふいに視線を感じる。
 横を向いてみると、一緒に見上げていると思っていたヒノエがこちらを見ていた。
「ヒノエ君? 月、見ないの?」
「月にも勝る美しい花が目の前にあるからね」
「花? この季節は花より紅葉だと思うけど」
「紅葉でも構わないかな。紅く染まるところは同じだからね」
「?」
 ヒノエは望美の髪を一房手に取り、そこへ口づけた。そして愛おしげな瞳を望美に向けた。
 視線が絡まる瞬間、望美の心臓が高鳴る。
「ほら、紅く染まった」
 急にヒノエの口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「えっ? あ、やだ、紅葉って私のこと?!」
「月よりも美しい紅葉だ」
「ヒノエ君ったら、どうしてそう次から次と言葉が出てくるのかしら……」
「オレは見たままのことを口にしているだけさ」
「そんなに見つめないで」
 直視するヒノエの視線に望美は恥ずかしくなって、紅く染まった頬を両手で隠すようにしながらヒノエから視線をそらした。
 ヒノエの言動は慣れなくて、いつもドキドキさせられる。少なからずの好意を持つ相手からのそれは、心臓に悪いと思いながらもどこか心地よく感じられた。
 しかし、ふいに望美の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「えっ、やだ。どうして涙なんか……」
 涙が流れている事に気づいた望美は慌てて袖で涙を拭う。
 何故涙が流れたのか自分でもわからない。
「ごめんね、ヒノエ君。びっくりしたよね」
 ヒノエは驚いた様子もなく、優しげな瞳で望美を見つめていた。
「泣きたい時は泣いた方が良い。ただし、オレの側でだけでね」
 柔らかな微笑みが望美に向けられる。
 ヒノエは自分の肩にかけていた薄手の衣を望美の頭に被せた。
「少しの間だったら、見ないことにしてあげるよ」
 ヒノエの言葉につい甘えたくなる。
 心の片隅から離れない不安。
 涙を流せば少しは気持ちがラクになりそうだと思った。
 顔を隠すように膝を抱える。
 ヒノエの言葉に甘えて少しだけなら……、そう思う気持ちが浮かび上がる。
 しかしそれは一瞬のことで、望美はしっかりと顔を上げた。
「ありがと、ヒノエ君。でも、大丈夫。まだ、大丈夫」
 望美はしっかりとした口調でそう言った。そして、ヒノエの上着を返した。
「そう? ならいいけど。泣きたくなったらいつでもコレを貸すからね」
 ヒノエは望美から上着を受取ると、ふわりとなびかせて自分の肩に羽織った。
「そろそろ寝所に戻った方が良いんじゃないかい? 風が冷たくなってきた」
「そう、だね」
 ヒノエの言葉を肯定しつつも、望美の返事は歯切れが悪かった。
「どうしたんだい? 寝所には行きたくない理由でもあるのかい?」
「そうじゃないけれど……」
「もしかして、寝所で横になっても眠れない、とか?」
「えっ、どうしてわかるの?」
「姫君のことならなんでもわかるのさ」
「ヒノエ君ったら……」
 いつもの望美ならもっと気軽に笑うところなのだが、その表情は沈んだものだった。
「話してごらん。姫君の憂いの訳を。オレが必ず対処してあげるから」
 ヒノエは片目をつむって合図する。
「ヒノエ君だったら話しても良いかな。あのね、最近、イヤな夢を見るの」
「イヤな夢?」
「怨霊が襲ってくる夢。怖くて飛び起きて夢だったんだと安心した途端、今度は声が聞こえてくるの。言葉にならない苦しみが伝わってくるような……」
 望美はそこで言葉を区切る。ヒノエは黙ったまま望美の次の言葉を待った。
「私に封印された怨霊が恨んでいるのかしら……」
「まさか。逆だろ」
「逆?」
「怨霊とは、死者が平家の奴らに無理矢理に怨霊にさせられたものだ。本来は地に還るべきものなのに。そんな哀れな怨霊を、姫君は封印する事で救っているんだ」
「私が救ってる?」
「そうだろう? 姫君の封印の力は理を正すためのもの。怨霊が姫君のところへやってくるというのなら、それは姫君に救いを求めてのことだ。封印されることは平家の束縛から解放されることと同じなんだ」
「本当に、私の封印は救いになっているの?」
「オレが嘘を言っていると思う?」
 ヒノエの質問に望美は首を振る。
 いつだってヒノエはその場限りの言葉を言ったりはしない。
「わかっただろう? そんな夢、もう気にする事はないさ。でも、もしまだその怖い夢が気になるって言うなら、怖い夢なんて見ないようにオレが添い寝してあげるよ」
 息がかかるくらいのくらいのところまで顔を近づけられ、再び望美の顔が赤らむ。
 ヒノエに添い寝などされたら別の意味で緊張して眠れなくなりそうである。
「いつでも呼んで。すぐにそばに行くから。ね、約束だよ、姫君」
 望美は顔を赤らめたまま、ただ小さくうなずいた。
「今日からでも、と言いたいところだけど、今日のところは、っと」
 ヒノエは身軽な感じで庭に降りると、そこにあった一枚の葉を手に取り口に当てる。
 その葉から小さな音が流れた。
「草笛?」
「笛は敦盛のお得意だけど、これくらいならオレもね」
 ヒノエは望美の隣に戻ると、再び葉を口に当てて音を奏でた。 
 どこか懐かしく、そして心地よい音の流れが耳に届く。
「優しい音ね」
「そうかい? 少しは姫君の慰めになると良いんだけど」
 そう言って、ヒノエは再び草笛を吹き始めた。
 月明かりの中で聴く草笛は心に染みる。
 言葉ではないヒノエの励ましが心に響いた。
 望美はそっとヒノエの肩にもたれかかる。
 ほんの一瞬草笛は途切れたが、また同じように静かに吹き続けられた。
 草笛を聴いているだけなのに、気持ちが落ち着いてくる。不安だった気持ちはいつの間にか消え去っていた。
 望美は瞳を閉じて草笛を聴き入った。
 いつまでも聴いていたい気持ちになる。しかし心地の良い音は次第にに眠気を引き寄せる。
 あれほど眠るのに苦労しているのに、すぅっと意識が深いところに落ちて行きそうになる。
 まるで子守唄のようなヒノエの草笛。
 望美はゆっくりと誘われるまま深い眠りにつく。
 ふいにヒノエの肩に重みが増す。
「姫君?」
 ヒノエは草笛を止めて呼び掛けてみた。しかし返事はない。その代わりに、望美の頭がゆっくりとヒノエの肩から滑り落ちる。そのまま望美の頭はヒノエの膝の上に乗った。
 すぅすぅと穏やかな寝息を立てて望美は眠っていた。
 ヒノエは少しだけ驚きながらも静かに笑みを浮かべる。
「膝枕はしてもらう方が好きなんだけど。でも姫君に寝顔が拝めるなら、これも悪くないかな」
 絹糸のように艶やかな望美の髪を指ですきながら、ヒノエはつぶやく。 
 見上げた月は天頂を少し通り過ぎた位置にある。夜明けまでにはまだ時間がある。
 寝入った望美を寝所に運んだ方が良いのかもしれないが、動かして起こしてしまうことも考えられる。
 もっと深い眠りにつくまで、もうしばらくこのままでいた方が良いだろう。
 ヒノエは自分の薄手の上着を望美の身体に掛ける。
「あんまりいろいろと抱え過ぎるなよ。オレが、いつでも側にいるんだから、さ」
 ヒノエの瞳が愛おしげに望美に向けられた。その時、望美の唇がほんの少し動く。
「ヒノエ……く……ん」
 まるでヒノエの言葉に返事をしたかのように望美は名前を呼んだ。
 寝言でも名前を呼ばれたことに、たったそれだけのことなのに、ヒノエは嬉しくなる。
「まいったな。このオレが……」
 これだけのことで喜ぶような男だったのかと、少しだけ自嘲する。
 望美に元気がなければ、自分の事以上に不安になる。笑顔が消えないように、力になりたいと思わずにはいられない。
 これほどまでに感情を左右される存在になるとは思いもしなかった。
 いや、初めて出逢った時の、凛とした美しい横顔に視線を奪われたのと同時に心も奪われていたのかもしれない。
 だから、いつでも側にいられる存在になりたいと思う。
 ヒノエは右手の人さし指を自分の唇に押し当てると、その指を今自分の名前を呼んだ望美の唇へと押し当てる。
「おやすみ、姫君。良い夢を……」
 願わくば、夢の中でも姫君の側に……。 

                                   終


<こぼれ話>

翌朝。
望美「……」
ヒノエ「おはよう、姫君」
「……」
「姫君?」
 (反応がないので望美の目の前で手を振る)
「……まだ眠るのぉ……」
 (寝ぼけている望美はヒノエの首に抱きつく)
「の、望美?!」
「(すぅすぅ)」
「なるほど。姫君は朝が弱いのか。まさか姫君から抱きつかれるとはね。これは思わぬ特典だったな」

あ、こぼれ話のヒノエ君、望美ちゃんを寝所に連れて行って、そのまま添い寝?

戦いに身を置いて、ちょっと弱気になった望美ちゃんと励ますヒノエ君を書いてみました。

 

    

   

 

 

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