「いいか、絶対に望美は言うな。そしてこの部屋にも近づけさせるな」
眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔つきでヒノエは弁慶に言った。
「『あの』望美さんですよ? それは無理というものではないですか?」
「だから、不本意ながらお前に頼んでるんだ」
「大事な甥の頼みです。出来得る限りのことはしましょう」
弁慶はどこか楽しむかのようににっこりと微笑んだ。
絶対信用ならない笑みだと思うものの、今更それに対して突っ込む気にはならない。
「ヒノエ、いいですか、ちゃんと用意した薬は飲むのですよ?」
「わかってる! もういいからさっさと出てけ」
ヒノエは弁慶の背中を押して廊下に押しやると、ぴしゃりと襖を閉めた。
静かになった一室で、ヒノエは褥に身体を投げ出した。
額に手を当ててみれば、自分でわかるほどに熱さを感じる。
体調が悪くなることなどめったにないことなのだが、どうやら風邪をひいたらしい。
体力には自信はあるし、頼みたくはなかったが弁慶の薬もある。だから1日寝れば回復するだろうとヒノエは考える。
とにかくさっさと治さなければならない。
ヒノエは身体を無理矢理起こして弁慶が用意した薬湯を口にする。
「……なんて味だ。嫌がらせかってんだ」
一口飲んだ瞬間、あまりの苦さに一瞬薬湯を捨てようかと思ったが、どんな味でも弁慶の薬は良く効く事を知っているヒノエは意を決して一気に飲み干した。
余計気分が悪くなりそうだったが、とにかく再び褥に横になる。
やがて、意識は深い眠りへと落ちて行った。
◇ ◇ ◇
額にひんやりとした感触。
ヒノエはゆっくりと瞳を開けた。
「気がついた?」
鈴を転がしたかのような心地よい声がヒノエの耳に届く。
声のした方へ首を向けると、一瞬ヒノエは目を見開いた。
「……の、ぞみ?」
「あ、ダメだよ、起きちゃ」
望美に止められながらも、ヒノエは身体を起こした。
「お前、どうしてここに……?」
「弁慶さんに聞いたの。ヒノエ君が風邪で寝込んでるって」
「あいつ……。絶対言うなって言ったのに……」
金輪際もうあいつには頼みごとなんかするもんか。
ヒノエは眉根を寄せて心の中でつぶやいた。
「弁慶さんは悪くないの。私が無理矢理聞き出したの」
「無理矢理?」
「ヒノエ君、昨日の夜赤い顔してたからずっと気になってたの。今日になって姿が見えないし、もしかして具合悪かったんじゃないのかなって。それで具合が悪いならきっと弁慶さんに薬の調合をお願いしたと思ったの。最初は全然教えてくれなかったけれど、しつこく聞いたら『仕方のない人ですね』って言って教えてくれたわ」
どうやらあの弁慶も『望美のお願い』には弱いらしい。
いや、もしかすると、弱っているオレを望美に見せたかっただけかもしれない。
たかが風邪で寝込むなんて、そんなカッコ悪いところを惚れた女に見せるのは恥でしかない。
「ヒノエ君、どうかした?」
黙ってしまったヒノエに望美は声をかける。
「やっぱりまだ具合悪いんでしょう? 弁慶さんの薬は飲んだ? 湯のみがカラってことは飲んだって事よね。それなら、あとは額を冷やして……。ヒノエ君、身体は寒くない? 汗はかいた? 着替え持ってこようか?」
望美は甲斐甲斐しく看病し始める。
心配の色の濃い瞳は、嘘偽りなく自分を心配しているのだとヒノエは強く感じる。
他でもない望美が気にかけてくれるのは嬉しい事だ。
けれど、今はそれを素直に受け入れられはしなかった。
「姫君がオレを気づかってくれるのは嬉しい。でも、今すぐ出て行ってくれ」
「どうして? 病人を放っておけないよ」
「理由はいいから早く出てけ」
「いや。行かない」
強い意思表示を望美はする。
「頼む、望美」
「い、や。理由言ってくれなきゃ出てかないから」
ちょっとやそっとではその場からは絶対に動かないという感じでその場で正座し、望美はヒノエを見つめた。
そんな望美に、ヒノエは小さくため息を漏らしながら言った。
「お前に……、風邪を移すわけにはいかないだろう?」
「えっ、ヒノエ君、そんなこと気にしてたの? 大丈夫、大丈夫。私が健康なのは知っているでしょう?」
軽くあしらうように望美は笑う。
ヒノエの言葉を気にすることなく、望美は手際よく手ぬぐいを水で浸して絞る。
「今日は私の言う事聞いて、大人しくしていなさいね」
「望美、頼むから……」
今すぐ目の前からいなくなって欲しかった。
ズキズキと痛む頭にヒノエは手を当てる。
今ならまだ間に合う。取り返しがつかなくなる前に、望美を自分から遠ざけたかった。
風邪を移したくないというのは本心だ。しかし、本当の理由は別にあるのだ。
口に出せない思いが、さらに頭痛をひどくさせるようだった。
「熱、あるんでしょう? 大丈夫?」
望美はすっとヒノエの前髪をかきあげると、自分の額をヒノエの額にくっつけた。
「やっぱり熱いね。こういう時はまずは冷やさないとね」
望美は額を離すと手に持っていた手ぬぐいを額に乗せやすい大きさにたたむ。
「ほら、横になって」
手ぬぐいを左手に持った望美は、空いた右手をヒノエの右肩へと伸ばす。
細い指先がヒノエの肩に触れようとした、その時だった。
「きゃっ」
突然ヒノエは望美の手を掴むとそのまま望美を自分の胸元へと引き寄せた。
「……熱のせいか、我慢きかないんだ。お前がそばにいると押し倒したくなる」
そう言ったかと思うと、あっという間にヒノエは望美を仰向けに組み伏せた。
「だから出てけって言ったんだ。出て行かなかったお前が悪いんだからな」
「え?」
望美はあまりに突然のことで今の状況がすぐに理解できなかった。
ヒノエを横にさせるつもりが、いつのまにか自分が横になり、そして被いかぶさるかのようにヒノエが自分の上にいた。
この体勢がもたらす意味を、望美は悟る。
「ヒ、ヒノエ君?!」
慌てる望美がヒノエを見る。
ヒノエが寝間着代わりに着ていた白い単衣の襟元は大きく乱れ、普段は見えない素肌の胸元が望美の瞳に映った。
思わず、望美は頬を赤らめ、視線をそらした。
「あ、あの、こ、これじゃ看病できないし、だから……」
「望美」
ヒノエが静かに望美の名を呼ぶ。
その声に操られるかのように望美はヒノエの顔を見た。
一瞬2人の視線が交わる。
その途端、望美の心臓はトクンと大きく跳ね上がった。
「望美」
もう一度名を呼んだヒノエは、突然望美との距離を縮めてきた。
ゆっくりとだが距離はどんどん近くなる。
「ヒノエ君! ちょ、ちょっと待って!」
望美は逃れようとするのだが、その場から逃げ出すことなど出来ない。
熱が出て弱っているとはいえヒノエは男である。両手を押さえつけてしまえば、望美がいくら抵抗したところで抵抗になどなりはしなかった。
熱い吐息が感じられるまでにヒノエの顔が近づき、あとわずかで唇と唇が触れ合いそうになる。
これ以上抵抗できないと思った望美は思わず瞳をきつく閉じた。
しかし。
触れ合うと思っていた唇は、いつまで経っても何も触れはしなかった。
望美は恐る恐る瞳を開けてみる。
すると赤い顔をしたヒノエが目に映る。
「のぞ……み……」
一言つぶやいたかと思うと、ヒノエはそのまま望美の上に伏し倒れてしまった。
「ちょ、ちょっとヒノエ君?! ヒノエ君!」
名を呼んでもヒノエは返事をしなかった。
「ヒノエ君!」
やはり無理をしていたのだろう。
急に動いて一気に熱でもあがったのか、ヒノエは気を失っているようだった。
「ヒノエ君ったら、無理するから……」
仕方ないなぁと思いながらも、まだ心臓はドキドキしていた。
ヒノエが気を失わなければそのまま口づけられ、そしてさらに……。
「わ、私ったら何考えてんのよっ!」
一瞬すごい事を想像してしまい、望美は赤面する。
「そ、そんなことより、ヒノエ君の看病しなきゃ」
思わず浮かんでしまった想像を振り払い、望美は身体を起こそうとした。
しかし。
「あ、あれ?」
じたばたと動いてみるが一向にヒノエの下から逃れることができなかった。
「どうして動けないのよっ」
もう一度身体を動かしてみるがやはり動けない。
望美はしばらくじたばたしてみて、やっと何故動けないのかに気づいた。
意識はないはずなのに、いつの間にかヒノエの腕は望美の身体を抱きしめていたのだ。
「ヒノエく〜ん、放してくれなきゃ看病できないってば〜」
望美は訴えてみるが、気を失っているヒノエの耳には届く様子はない。
抱き枕状態になってしまった望美は途方に暮れる。
「ヒノエ君、重いよ〜。お願いだから放して〜」
いくら言ってもヒノエの腕は望美をしっかりと抱きしめて放す様子は見られない。
それどころか、望美の胸を枕にして心地良いのか、寝息が落ち着きを取り戻しつつ
あるように聞こえる。
「もう、こんなんじゃ風邪治らないから〜」
望美は再度逃れようとしばらく頑張ってみたのだが、結局自力ではどうすることも
できなかった。
それでもなんとかごそごそと動き、布団の代わりの厚手の衣の裾を掴むと、自分と
ヒノエの身体にかけた。
この体勢ではこれが精一杯である。
望美は小さくため息をつく。
「風邪治らなくてもしらないからね」
望美は唯一動かせる手でヒノエの頭を撫でる。
ふわりと柔らかい髪に触れながら、望美は小さく微笑んだ。
終
<こぼれ話>
弁慶「望美さんは風邪をひいてしまったようですよ」
ヒノエ「だからオレの所に望美を来さすなって言っただろうが」
弁「そうですねぇ。誰かさんが悪さしたみたいですからね」
ヒ「だ、誰が悪さだ!」
弁「それはともかく、望美さんが風邪をひいたその責任は取りますよ」
ヒ「責任だと?」
弁「ええ。望美さんの看病は僕一人でやりますから。
ヒノエはまたぶり返すといけませんから望美さんには近づかないように」
ヒ「お前、まさか……(最初からこれを狙ってたんじゃ……)」
うわ〜、ヒノエ君が望美ちゃんを襲ってます(笑)
未遂(?)に終わってますが、目が覚めた時、ヒノエ君はどうしたでしょうね?
弁慶さんの薬を飲むヒノエ君。きっと小さい頃に何だかんだ言いつつもお世話になったんでしょう。
こぼれ話の弁慶さん、望美ちゃんをヒノエ君のところへ行かせた時点で、こうなると思っていたに違いない(^^;)
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