君に誓う約束


『オレにまかせておきな』

 そう言われて見送ったのが半月前。
 ほんの少しの別れだと思ったけれど、半月というこの期間は、ひと月にも半年にも一年にも思われるくらいに長く感じた。
 まだ戻る筈のない、旅立った翌日から海を眺めては思いを馳せる。

 早く戻って来て。

 毎日毎日同じ事を思いながら、そしてため息をつく。
 あの人の姿が見えないだけで、声が聞こえないだけで、心が沈む。

 早く逢いたい。

 想いだけが繰り返される。
『今日こそは』『明日はきっと』と毎日思い、時間だけがただ流れていく。

 

◇ ◇ ◇

 

「そんな事言う弁慶さんなんて大嫌い!」
「嫌いで結構。戦は好き嫌いで動くものではありません。今の状況を冷静に見極め、正確に判断しなければなりません。感情で動いては命を落とします」
「そんなのわかってるわ!」
「いいえ、貴女はわかっていません。機会を失えばどうなるか、貴女は現実を知らない」
 きっぱりと言い切られて望美は返す言葉を失う。
 今、源氏軍がどのような状況にあるか、望美もわかってはいる。
 もう猶予はない。
 どうするのが一番良いのか、望美だって考えている。
 だからこそ、ヒノエに見切りをつけて陸にいる兵だけで平家を討つという弁慶の意見には賛成できないのだ。
「今、軍を動かしたらヒノエ君の計画はどうなるの?! ヒノエ君が戻らないうちに動けばそれこそ全滅だわ!」
「約束の刻限は過ぎました」
 望美の反論を弁慶は冷ややかに打ち砕く。
 ヒノエが言い残した約束の期限は『半月』。 
 確かに、約束の日はとうに過ぎている。
 『半月』までは軍の士気は上がっていた。けれど、『半月』を過ぎた今は軍内には不信な雰囲気が流れが始めている。怨霊による被害も一向に減らず、兵は疲労するばかり。受け身でいるのはもう限界の域に来ていた。
「期限が守られなければ、どんなにすばらしい計画も意味がありません。我々は個人で動いている訳ではありません。兵を率い、命を下す立場にあるのです。いつまでも命を下せないでいては、ついてくる兵はいなくなります。兵がいなくなる事が何を意味するか、貴女にもわかりますね?」
「……」
「総大将としての九郎の立場もわかってください」
 弁慶の言っていることはもっともである。
 約束の刻限を守れないでいるのはヒノエの方。批難されても仕方がない。心無いものがヒノエは逃げたのだと噂しても反論できる言葉がない。
 けれど、望美はヒノエを疑うことだけはできなかった。

『何があっても待っていてくれ』

 そう言ったヒノエの言葉だけが望美の真実だった。
「ヒノエ君は必ず来る。私と約束したもの。必ず帰ってくるわ!」
 望美は唇を噛み締め、涙を堪える。
 不安はいつも心にある。けれど、それを表に出してはいけない。
 ここで泣いてはいけない。
 泣いてしまえば、彼を信じる気持ちが崩れてしまう。それだけは絶対にイヤだと、望美は強く思った。
 いつになく感情的な望美に、弁慶は驚く。
 一点の曇りない純粋な瞳。強い意志のある望美の視線は、弁慶の胸に突き刺さり、そして心を動かした。
「そんなに唇を噛み締めては切れてしまいますよ。仕方のない人ですね。わかりました。もう少しだけ待ちましょう」
 弁慶は厳しい表情をやわらげて言った。
「弁慶さん……、ありがとう」
「お礼を言うのは早いですよ。今度状況が変わったら、ヒノエが帰ってこようがこまいがもう譲りませんから」
「……」
 承知はしたくない。でも戦は今も続いているのだ。判断を間違えれば、軍は総崩れとなる。
 弁慶の言いたいことがわかるだけに、これ以上は何も言えなかった。
 
 お願い、早く、早く戻って来て……。

 視線を移した先の海は穏やかに波打っている。
 戦など何の関わりもないとばかりに静かだ。
 広がる紺碧の海には、波以外何も見えない。
 来るはずの熊野水軍の船影が見えない。
 ヒノエが見えない。
 望美はひたすら海を見つめながら、ただただヒノエの帰還を願った。

 

◇ ◇ ◇

 

 望美が弁慶と言い争った翌日。
 太陽が上る前から望美は浜辺で海を見つめていた。
「先輩! こんなところにいたんですか!」
 砂浜に足を取られながらも急いで駆けてきた来たのは譲だった。
「譲君? どうしたの、そんなに慌てて」
「怨霊が出ました。先輩、早く来てください!」
「怨霊?! こんな朝早くから……」
 望美はその時ふいに弁慶の言葉を思い出した。

『今度状況が変わったら』
『もう譲りませんから』

「譲君、弁慶さんは? 弁慶さんは何かしようとしていた?!」
「……」
 譲は望美の質問に応えなかった。しかし、それは無言の肯定だった。
「止めなきゃ……。弁慶さんを止めなきゃ! まだヒノエ君が帰ってきてないもの!」
 慌てて駆け出そうとした望美の腕を譲は掴む。
「もう限界ですよ! ヒノエは戻ってきませんよ!」
「譲君までそんなこと言うの?!」
「ギリギリまで待ったじゃないですか! それでも間に合わなかったんだ。諦めるしかないでしょう。それに、源氏の軍を動かすのは僕達じゃない。弁慶さんや九郎さんが決めることなんです。僕達はそれに従うしか……」
「いや! 絶対にいや!」
「先輩!」
 今すぐ陣に戻って止めなきゃ、と強く思う望美を譲が引き止める。
 なんとかして譲の手を振りほどこうとする望美だったが、譲はそれを許さなかった。
 その時、水平線の向こうに朝日が顔を出し始めた。
 まばゆい光が漆黒を切り裂き、夜が明ける。
 ふいに視線を海へと向けた時、望美の動きが止まった。 
 海の色が黒から濃紺へと変わり始めた時、望美の瞳に彼方から近づく影が映る。
 次第に増えるその影こそが、待ち望んでいたもの。
 ついに、望美の願いは叶えられたのだった。
 

 ◇ ◇ ◇

 

 海峡を封鎖されたのにも関わらず、熊野水軍の船団を引き連れてヒノエが戻って来た事で、戦況は一転する。
 当初の打合せ通り海と陸からの一斉攻撃を開始し、平家軍はなす術もなく大敗した。

「遅くなって悪かったな、弁慶」
 船を降りたヒノエが、船着き場で待っていた弁慶に声をかける。
「本当にそうですよ。ギリギリのところでした」
「お前のことだからもしかしたら別の策でも進めてたんじゃねぇかと思ったけど?」
「えぇ、私はもう待てないと進言したのですが、望美さんが『絶対に戻って来る』と断言しましてね。無理矢理事を運ぼうとしたら、望美さんに『大嫌い』と言われましたよ」
「姫君がお前を嫌う理由はそれだけじゃねぇんじゃないか?」
「そうでしょうか? 約束を守らない男の方が嫌われると思いますが」
「約束の日に戻れなかったのは悪かったって。急な大雨にはオレだってどうしようもない」
 船を運ぶのに陸路を使うというヒノエの大胆な案。しかし、雨で地盤がゆるんだところでは、その作業も慎重にならざるを得ない。急な天候の変化でその分遅れを取ってしまったのだった。
「理由はどうあれ、約束の日に帰れなかったのは事実です。望美さんがどんな思いでいたかを思うと胸が痛みますよ」
「お前の胸の痛みなんてどうでもいいぜ」
 2人は軽口を叩きながらしていた会話をふいに中断させる。
 いつになく真面目な表情でヒノエはつぶやいた。
「……姫君は?」
「あちらにいますよ」
 弁慶が視線で示した方に、望美はいた。
 ヒノエが戻って来たとわかってすぐに戦は仕掛けられたため、陸にいる望美と船上のヒノエは逢えずにいた。
 一通り怨霊の封印を済ませ役目を終えた望美はすぐにでもヒノエに逢いたくて、ヒノエの船が停まったこの場所まで来たのだった。
 陣で待っていれば船を降りたヒノエが来るはずだったが、ただじっと待つ時間さえも惜しかったのだ。
 半月ぶりに見る鮮やかな赤い髪が瞳に飛び込む。
 そして、ヒノエの視線がこちらを向いた。
 ヒノエの姿を認めた瞬間、望美の足が止まる。
 その場にただ立ち尽くす。
 そして、ヒノエを見つめる瞳には、今にもこぼれ落ちそうなほどの涙が浮かんでいた。
 望美の姿を見つけたヒノエはゆっくりと歩き出す。望美の方へと真っ直ぐに。
 そして、望美の正面に立つと、いつものように笑いかけた。
「ただいま、姫君」
 望美は何も言えずにただヒノエの顔を見ている。その時、涙が一筋流れた。
「『お帰り』とは言ってくれないのかい? 長いこと離れてやっと逢えたのに、だんまりなんて淋しいな。それに、姫君は泣き顔も可愛いけれど、久々に見るなら笑顔の方が良いんだけど」
 ヒノエの指が望美の頬をつたう涙を拭う。
「声、聞かせて?」
「……い」
「ん?」
「遅い!遅いよ!私、心配したんだから!途中で何かあったんじゃないかって。夜になる度にイヤな夢を見て、何度も飛び起きて。もう胸が苦しくて……」
 今まで我慢していたものがあとからあとからあふれてくる。
「考えたくないのに悪いことばかりに考えが行って……。ついて行けば良かったって何度も思って、でも、私が残らなきゃ源氏軍はどうなってたかって考えて、もうどうしていいのかわからなくて……」
 望美は自分でも何を言っているのかわからなかったが、もう止められなかった。
「約束の日は過ぎてるのに帰ってこないヒノエ君なんて……、ヒノエ君なんて!」
 激しい言葉は愛情の裏返し。
 ヒノエは、自分が思う以上に望美が自分のことを心配してくれていたのを強く感じた。
 そんな望美を見て、ヒノエは彼女を愛おしく思う。
「待たせてごめんな」
 ヒノエは望美の前髪をそっと分けると、その額に軽く唇を落とす。そして望美の頭を抱え込み、自分の胸へと引き寄せた。
「もうどこにも行かないから」
「ヒノエ君……」
「もうお前を不安にさせやしない。オレがずっと側にいる」
 望美を抱き締める腕に力がこもる。
 ヒノエのぬくもりが望美に伝わる。
 そのぬくもりは夢でも幻でもなく、現実のもの。
 今、本当にヒノエがそばにいるのを直接感じる。
「ヒノエ君……」
 望美は自分の腕をヒノエの背中に回す。自分を抱きしめてくれているヒノエを、今度は望美も抱き締める。
 もう何も言えなかった。
 ただ、感じるぬくもりに心がほっとする。
 泣きたくもないのに涙があふれてくる。
 望美はヒノエにしがみついて子供のように泣きじゃくった。
 ヒノエは何も言わずにただ何度も望美の髪を撫でていた。 

 

◇ ◇ ◇

 

「もう泣き止んでくれるかい?」
 しばらく泣き続けていた望美もやっと落ち着きを見せた時、抱き締める手を緩めたヒノエが望美の顔を覗き込むようにして訊く。
 望美は、残りの涙を自分の袖で拭いながらコクッと小さく頷いた。しかしそれでもまだ涙はまた流れそうになる。
「戦女神とまで言われる姫君が、こんなに泣き虫だとは思わなかったよ」
「ヒノエ君が悪いんだから。ヒノエ君が……」
 再び大きな涙が瞳に浮かびはじめる。
「あぁ、もう泣くなよ。可愛い顔が台なしだぜ」
 ヒノエはそう言うと、望美の目もとに唇を寄せて涙が流れる前にそれをなめ取った。
 その瞬間、望美は驚いて呆然とする。
 ふいにさきほど同じように額に唇を落とされた事を思い出す。
 あまりにも自然な流れだったから受け入れていたが、ヒノエの唇が落とされた事に急に照れが生じる。 
「泣き止んだ?」
「う、うん」
 望美は照れてしまってヒノエの顔を見られずに視線をそらす。
 そんなふうに照れた顔を見せられると、ヒノエの胸には一層望美に対する愛しさが込み上げる。
「望美」
 泣き止んだのを確認したヒノエは、望美の耳もとへ口を近づける。
「今夜、二人っきりになったらもっと慰めてやるからな」
「ヒ、ヒノエ君?!」
「半月前に言っただろ? 『帰ったらたっぷり慰めてやるから堪忍な』って。まさか、今の抱擁で満足したなんて言わないよな?」
「で、でも……、そ、そんな……」
 望美は真っ赤になって慌てる。
「半月も離れていたんだ。オレだって姫君に逢いたくて逢いたくて仕方がなかったんだぜ。1人で頑張り過ぎてやしないかと、お前が怪我でもしていないかと心配だった。だから、お前がちゃんと無事でいるのかオレ自身の手で確かめさせてくれないかい?」
「た、確かめるって……」
「それに、オレが連れて来た熊野水軍のおかげで戦況は好転したんだ。ご褒美をくれたっていいだろう?」
「も、もちろん全てヒノエ君のおかげだってわかってるわ。でも、その……、ご、ご褒美って?」
「そりゃぁもちろん……」
 ニヤリと口元に笑みを浮かべたそのヒノエの表情から、望美はヒノエが何を言い出そうとしているのか感じ取る。
「い、いい! やっぱり言わなくていいから!」
「言わなくてもわかってるってかい? 姫君はオレの事をよくわかっているってことかな? 嬉しいねぇ」
「ち、違うわよ。ヒノエ君のことなんてわかんないってば」
「そんなつれないこと言うなよ。でも、わかんないっていうなら言わないとね。オレが欲しいのは……」
「ヒ、ヒノエ君、その先は……」
 望美はヒノエの言葉を必死でさえぎろうとするものの、一歩及ばなかった。
 するりとヒノエの手が望美の髪に触れたかと思うと、その耳もとで甘くささやいた。

「欲しいのは、お、ま、え」

 一気に望美の顔が、耳までもが真っ赤になる。
 自分の言葉ひとつでくるくる表情の変わる望美が愛しい。
 可愛くて可愛くて仕方がない思いがわき起こる。
 ヒノエは望美の様子を見て嬉しくなった。本当に望美の元へと帰って来たのだと実感する。
 離れている間に思い知らされた。
 どんなに望美のことを愛しく思っているかを。
 もう離さない。
「じゃ、この続きは今夜、観客のいない二人っきりの時にな」
「えっ? 観客?」
 ヒノエの言葉にふいに望美はハッとする。
 慌ててまわりを見渡してみれば、まずなんとも言えない不思議な微笑を浮かべる弁慶の姿が見えた。少し離れたところには、船から降り始めた熊野水軍の仲間もいた。
 今のヒノエとのやりとりを見られていたのかと思うと、望美は急に恥ずかしくていたたまれなくなった。
「ヒノエ君なんて知らない!」
 望美は怒ったふうに頬を膨らませた後、ヒノエに背中を見せる。
 ヒノエはその様子を見てこっそりと楽しげに顔をゆるませる。
「もう泣かせやしないからな。そういう顔の方が可愛いんだから」

                                   終


<こぼれ話>

 ヒノエ帰還後、知盛との戦闘シーンがありますが、ここでは省略(^^;)

 さて、この日の夜二人っきりになれて続きができたかというと……当然無理でしょう。
 何故なら、2人のやりとりを弁慶さんが見ていたから。彼がきっと2人っきりにはさせなかったことでしょう(笑)

 

ヒノエ「なんで邪魔すんだよ! そういうところが嫌われる要因だってわかんねぇのかよ!」
弁慶「嫌われる要因……そうでしょうか? 望美さんの身の安全を考え、彼女にとって一番良い
 行動を取ったつもりですが? あぁ、言い忘れましたが『大嫌い』は撤回してもらえましたよ」
「お前なんか大嫌いだ……」
「ヒノエに嫌われたところで痛くも痒くもありませんよ」