その夢はつかむことができるのだろうか。
いつまでも幻のままで終わってしまうのではないだろうか。
一度だけでいいから触れたいと思うけれど、決して触れることのできない美しい花。
今はただ、その花がいつまでも美しく咲いていることだけを願うのみ……。
◇ ◇ ◇
バーハラ王家を中心に、6公爵家が要(かなめ)となるグランベル王国。王国の西に位置するユングヴィはその6公爵家のうちのひとつであった。
現在の当主リング卿はイザ−ク討伐隊に参加しており、今、城をあずかっているのは、その娘エーディンであった。
19歳になったばかりの彼女は、金色の波打つ長い髪、色白な肌、ほんのりと薔薇色に染まった頬、少し濃い琥珀色の瞳が印象的な、ほっそりとした面持ちの美しい少女であった。
プリーストとして修業中の身であり、あまり表には出ることはなかったが、『ユングヴィの金の花』と呼ばれるほど、世間ではよく知られた美姫だった。
当主や主要部隊が出撃中のイザ−ク討伐は、すぐに終わるであろうと思われていた。その間女性一人を当主代理としていても、何も問題はなかった。国交間で友好条約は結ばれていし、憂いは何もない。誰もがそう思っていたし、信じきっていた。
ユングヴィ城の上階、城下を見渡すことのできるテラスにエーディンはいた。
遠くイザ−クへと続く東の方角を見ながら、エーディンはそばにいた若い騎士に声をかける。
「お父様はいつ戻られるのかしらね、ミデェ−ル」
「そうですね、それほど先のことではないと思いますが」
エーディン付きの若い弓騎士ミデェ−ルはそう答える。
エーディンよりも2つ年上のミデェ−ルは、その弓の腕を買われ、公女エーディンの護衛騎士として1年ほど前から仕えていた。
争いを好まぬ性格ではあったが、真面目な分弓の訓練は怠ることなく、その腕はなかなかのものだった。
「……ミデェ−ル、あの煙は何かしら? 城下のあちこちで上がっているようだけど……」
あたたかな風に、長い髪をふわりとなびかせながら城下を見ていたエーディンが、ふとその表情を曇らせる。
「煙、ですか?」
不信そうにミデェ−ルはエーディンが指し示す方を見る。
黒い煙があちこちから立ち上っている。
そして次に瞳に入ってきたのは赤い色。
「あれは炎? 城下が燃えている?!」
遠くに見える光景に、ミデェ−ルはつぶやく。
「ミデェ−ル?! それはどういうこと?」
顔を見合わせる二人のところに、一人の警備兵が慌てて駆け込んできた。
「エーディン様! ミデェ−ル隊長!」
「どうした? 何事だ?!」
「ヴェルダンの攻撃です! ガンドルフ率いるヴェルダン軍が城下に火を放ちました。そして多数の兵が城門に押し掛け、この城を侵略しようとしています!」
「なんだと?!」
ミデェ−ルはすぐさまそばに置いてあった鉄製の弓を持つ。
「こうなるまで誰も気づかなかったのか?! とにかく状況をもっと詳しく確認するんだ。出撃できる者はすぐに準備しろ。とにかく矢を放ち、城門へは近付けるな。一歩たりとも城への侵入を許してはならない!」
「はっ」
警備兵はミデェ−ルに返事をし、すぐさま戻っていった。
ヴェルダンの侵略。
こともあろうに友好条約を結んでいるはずのヴェルダン王国が攻撃を仕掛けてきたのである。
ユン川を境に、東がグランベル王国ユングヴィ領、西がヴェルダン王国。
ユングヴィの要である弓騎士部隊バイゲリッタ−をはじめ、グランベル領内の主要部隊がイザ−クへ遠征中なのを好機と思ったのだろうか。
ユングヴィがグランベル王国に属している以上、これはユングヴィとヴェルダンだけの問題ではない。グランベル王国への叛旗である。
しかし、ヴェルダン国王はグランベル王国との友好を強く主張していた。その国王が侵略を指示するとは考えにくい。ということは、第一王子であるガンドルフの独断か。
とにかく、何故ヴェルダンがユングヴィ侵攻を始めたのか、その原因を調べている時間はもはやなかった。
ミデェ−ルは今すぐにしなければならないことを考えた。
「とにかくエーディン様はお逃げください。地下室の隠し部屋から城を出られて、シアルフィにお行きください」
「でも今のわたくしはこの城を預かる身です。代理とはいえ、わたくしが皆よりも先に逃げ出すことは出来ません」
「お気持ちはわかります。しかし、エーディン様を危険な目に合わせるわけにはまいりません。もしも貴女様が敵に囚われでもしたら、それこそ指揮にかかわります。バイゲリッタ−のいない今、残っているものだけでなんとか防ぎたいとは思いますが、とにかく、今は危険な状態となるこの城を離れてください」
すでに城下に敵は入り込んでいる。城門が突破されるのも時間の問題かもしれない。手勢の少ない今、城を守りきることができるかわからない。それならエーディンだけでも逃がすことを第一に考えるのはあたりまえだった。
「でもミデェ−ル!」
「時間がありません。早く」
ミデェ−ルは先に行き、扉をあける。
「エーディン様!」
その有無を言わさぬ呼びかけに、エーディンは納得できないながらもミデェ−ルのあとへと続いた。
限られた者しか知らされていない地下室の隠し部屋。ミデェ−ルは途中で兵士達に指事を出しながら、そして逃げ遅れた侍女とともに、エーディンとそこへ向かった。
薄暗い地下通路を通り、一見倉庫ふうな一室に辿り着く。奥の壁の向こうに、城外への通路に続く隠し部屋があった。こちら側からは扉があることはわからない。
ミデェ−ルは壁に細工した箇所を探し、扉の取っ手を見つける。
「ここから外へ出てください。外には馬を用意して待っている者がいます。その者とすぐにここから離れてください。シアルフィのシグルド様にはすでに伝令を走らせていますから、途中で迎えがあるはずです。いいですね?」
「わかりました。でもミデェ−ルも一緒に……」
不安そうな表情でミデェ−ルをみつめる。
「私は……」
言いかけた時、地下室へと降りる階段から足音が聞こえてきた。
「どうやら敵にここが見つかったようです。エーディン様、お早く!」
ミデェ−ルは隠し部屋の扉を開ける。侍女がなかなか行こうとしないエーディンの手を引き、部屋に入る。
「御無事で」
「ミデェ−……」
エーディンの言葉を最後まで聞かずに、ミデェ−ルは扉を閉めた。
それからほんの少し遅れて、目つきの悪い屈強な男が地下室に入ってきた。
「こんな場所におまえ一人か?」
男は腰に銀の斧を、そして手には少し小さめの手斧を持っていた。
「何者だ?! 何故この城を攻める?!」
「俺か? 俺はヴェルダンのガンドルフだ。この城はいただいた。悪く思うなよ」
「大将自らこんな地下室まで入り込むとは。ここでお前を倒せば城は守られる」
「それができればな。ところで定番だが、誰かここから逃げたんじゃないのか? 確かこの城にはお姫さんが一人いたと思うが?」
ガンドルフはにやりと笑う。
「なんのことかわからない。ここには私一人しかいない。それにこの城を侵攻するものは誰であっても許さない!」
ミデェ−ルは矢をつがえ、続けざまに射る。
「馬鹿め! そんなおもちゃみたいな矢で俺様を倒せるとでも思っているのか!」
ミデェ−ルの射る矢を難なく交わし、ガンドルフは手斧を投げ付けた。それは正確にミデェ−ルの弓を持つ手に当たる。手斧に弾き飛ばされた弓が床に転がった。
「まったく邪魔な奴だ。さっさと息の根を止めてやる」
ガンドルフは武器を失ったミデェ−ルに近づくと、両手でぎりっとミデェ−ルの首を締め付ける。
いくら弓の腕に優れていても、その弓がない今、ミデェ−ルには為す術がない。
「くっ……」
見た目通りの頑強な腕を振りほどくことができない。あまりにも体格の差がありすぎる。このままではミデェ−ルが絞め殺されるのも時間の問題であった。
「その手をお放しなさい!」
その時、隠し部屋から様子を伺っていたエーディンが現れた。
毅然と向かう瞳には強い力がこもっている。
「エーディン様! 何故?!」
逃げたとばかり思っていたエーディン。それなのに何故わざわざ自分から危険な場所に入り込んだししたのか、ミデェ−ルは混乱した。
「こりゃ……、いいものを見つけたぜ」
興味の対象を変えたガンドルフはミデェ−ルから手を放すと、獣のような瞳でエーディンの全身睨(ね)めつけた。
ぞっとするような視線に、エーディンの全身が粟立つ。
しかしエーディンはそれをこらえ、ガンドルフに立ち向かっていった。
「私はこの城を預かる者です。誰の許しを得てこの城を襲ったのですか?! このようなこと神がお許しになるはずがありません!」
「へっ。誰の許しを得てだって? かわいいこと言うお姫さんだ」
ガンドルフが嘲るように笑う。
「この状況をよく考えるんだな。自分がどんな立場にいるのかわかっているのか?」
ガンドルフが一歩エーディンの方へ歩き出した。
ミデェ−ルは慌ててガンドルフの前に立ちふさがり、エーディンを背にかばう。
「どきな。おめぇに用はない」
「エーディン様に近寄ることは許さない!」
「うるせぇな。とっととどきな!」
ガンドルフがミデェ−ルの腹部を一発殴る。
「あぅ!」
ミデェ−ルの身体がくの字に曲がる。
「けっ。力もねぇのに、バカな奴だ」
「…だめだ。エーディン様には触れさせない!」
ミデェ−ルはガンドルフの足にしがみつき、歩みを止めようとする。
「しつこい野郎だ。邪魔だと言っているだろう、が!」
再びガンドルフの拳がミデェ−ルを殴り付ける。
「エーディン様! 早くそこからお逃げください!」
「でもミデェ−ルが……」
瞳を潤ませ、エーディンは彼を見つめる。
「私のことは気にせず!」
「うるせぇんだよ!」
何度も何度も殴られるのをミデェ−ルは必至で耐える。ここで気を失ったりしては、エーディンに危険が及んでしまう。なんとかエーディンが逃げられるだけの時間を稼ぎたかった。
ミデェ−ルはエーディンへの想いだけを力に、ガンドルフの攻撃を耐えていた。
しかし容赦なく殴られるその姿を見るのに耐えられなかったエーディンは、逃げるよりも先に、思わずガンドルフの腕にしがみつく。
「いや! やめて! ミデェ−ルをこれ以上殴らないで!」
「だ……めです、エーディン……様。逃げて……ください」
ガンドルフはミデェ−ルを殴る手を止めたかと思うと、ぐいっとエーディンのあごをつかみ顔を近づける。
「近くで見るとますますいい女だな。よし、決めた。お前を俺の妻にしてやるよ」
「放しなさい! 誰があなたとなど!」
エーディンはガンドルフの頬に平手打ちをしようとした。しかしそれは、易々とガンドルフがエーディンの右手をつかまれてかなわい。
「その気の強いところも気に入ったぜ」
ニヤリと笑いながら舌舐めずりをする。
「ガンドルフ様、ほぼこの城は占拠できました」
手下と思われる一人がガンドルフを呼びに来た。
「よし、わかった。あとの始末はデオジマの指示に従え。俺は一旦城に戻る。じゃあ、お姫
さんはもらっていくぜ!」
そう言うと、ガンドルフは思いっきりミデェ−ルの顔をなぐりつけた。その勢いでミデェ−ルの身体は壁に叩き付けられる。
そしてガンドルフはエーディンを軽々と肩に抱え上げた。
「エーディン様!」
「ミデェ−ル! ミデェ−ル!!」
ガンドルフに抱きかかえられたエーディンが必至になってミデェ−ルの方へと手を伸ばす。
ミデェ−ルも散々痛め付けられた身体を無理して、同じように手を伸ばす。
しかし。
二人の手は届きはしなかった。
そして、すぐにエーディンの姿は見えなくなった。ミデェ−ルを呼ぶ声だけが響き、やがてそれも聞こえなくなった。
為す術もないままミデェ−ルは立ち上がることもできず、急に静まり返った地下室で、身体を床に横たわらせた。
エーディン様……。
お許しください……。
命に代えても貴女を守るとお約束したのに……。
神よ。
どうか彼女をお守りください。
誰も汚すことなどできない、美しい花を……。
どうか……お守りください……。
ゆっくりと意識が遠くなっていく。
エーディンを守るという使命を果たすことなく、ここで朽ち果てるのか。
力なく伏し倒れたミデェ−ルにできることは、ただエーディンの無事を祈ることだけだった。
そして……。
「ミデェ−ル!」
ほとんど意識を手放していたミデェ−ルの耳に、聞き覚えのある青い髪の青年の声が届いた。
Fin
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