それは、ある晴れた春の日のこと。
温暖な気候に恵まれ、さまざまな産業や文化が発達している豊国レンスター王国では、王家・国民を問わず、国中をあげて盛大に盛り上がっていた。
この日は、レンスター王国唯一の王子キュアンの婚礼の日だった。
レンスター王国の西にあるグランベル王国シアルフィ公国から迎える花嫁を一目見ようと、挙式を行う神殿から城までのパレードが行われる沿道は、人々であふれかえっている。
そして神殿では、レンスター側とシアルフィ側の親族、そして諸国から招待された客人達が、今か今かと挙式の時間が来るのを待ち望んでいた。
誰もが喜びに満ちた中、神殿の一室では一人の少女が緊張のために表情を強ばらせていた。
今日の主役である花嫁エスリンだった。
春色の髪を綺麗にまとめて結い上げ、純白の衣装を身につけている。耳もとには白銀の小さな宝玉、胸元にも同じく白銀の宝玉を連ねたアクセサリーで飾られていた。
支度は全て済み、後は挙式の時間が来るのを待つばかりであった。
「ふぅ」
エスリンは小さく深呼吸をした。
「エスリン、入っていいかい?」
ノックの後に、豪奢な扉を開けて入ってきたのは、シアルフィ公子シグルドだった。
花嫁の兄であり、花婿の親友だけあって、今日の正装は気合いの入ったものだった。
兄の普段見なれない正装姿に、やればできるのに、とエスリンは思った。
母が亡くなってから、公務以外のことに無頓着な父と兄の世話は自分がしてきた。この先二人がきちんと出来るのか、少しだけ不安だった。しかし、このシグルド自身が選んだ正装姿を見て、少しだけ安心できた。
「どうかしたのか?」
「別に何も。兄様こそ、どうかしたの?」
「うん? 誰かさんのものになる前の、たった一人の妹の顔を見に来たんだが……。
なんだか表情が冴えないな? 結婚が嫌になったのか?」
「そんなこと!」
兄の質問にエスリンは思わず大きな声をあげた。
大好きな人との式に、誰が嫌だなどというのだろうか。表情が冴えない様に見えるのは、ただ緊張しているだけ。一人で待っているのが嫌なだけだったなのだ。
「それだけ元気なら大丈夫だな。しかし」
「何?」
「ただちょっと思い出したんだ。お前がキュアンと初めて会った時のこと」
「初めて会った時のこと?」
「あの頃はまさかキュアンと結婚するなんて思いもしなかったからなぁ」
そう言ってシグルドは小さく笑った。
「やだ、兄様。そんなこと思い出さないで」
照れて頬を紅く染めながら、エスリン自身もその当時のことを思い出していた。
エスリンが初めてキュアンと出逢ったのは、2年ほど前のことだった。
やはり今日と同じく晴れた春の日のこと−−−−−−。
◇◇◇
シアルフィ城の中庭の一角に設けられた練習場で、エスリンは人形相手に一人剣の練習に励んでいた。
公女とはいえ、『一応の』護身術は身につけておくというのが目的であるのだが、エスリンの性格上それだけに留まらなかった。細身の剣を器用に操っている様子から、同じ年頃の少年にはひけをとらない、いやそれよりも上の技術を持っているように見える。
一通りの基礎練習を終えた時、エスリンはふと近くの茂みから人の気配を感じた。
「誰? 誰かそこにいるの?」
そう声をかけるとと同時に、茂みから一人の人物が出てきた。
少年というには逞しく、青年というには少し目もとが幼いくらいの、兄と同じ年頃の長身の人物だった。
「あなたは誰? そんなところで何をしていたの?」
言いながら、エスリンは持っていた剣をしっかりと握り締めた。服装から見ると金品を狙った侵入者には見えなかったが、見知らぬ人物に警戒は怠らなかった。
「……女の子なのか……?」
ふとその人物が言葉を小さくもらした。それをエスリンは聞き逃さなかった。
カッとなったエスリンは、つかつかと歩み寄り、そして。
パンッ、と小気味よい音が響いた。
少年とも青年ともいえない感じの人物は一瞬何が起こったのかわからずあっけに取られ、そしてそれからゆっくりと自分の左の頬に手を伸ばした。
「失礼にもほどがあるわ! そりゃあこんなカッコでとても公女には見えないかもしれないけれど! だけど、侵入者ごときにそんなこと言われたくわないわ! どこから入り込んできたかしらないけれど、さっさとこのシアルフィ城から出ていって!!」
まくしたてるように、エスリンは一気に言い放った。その間、彼はぽかんとした顔で左頬を押さえたまま、彼女を見ていた。
「キュアン、ここにいたのか」
城と中庭をつなぐ回廊から、のんびりとした口調のシグルドが二人に近づいてきた。
「兄様!」
「シグルド!」
二人の声が重なった。
「ああ、エスリンも一緒だったのか。紹介するよ。彼は士官学校での友人でレンスター王子のキュアン。これは俺の妹でエスリン」
シグルドは自分の肩よりも低い位置のあるエスリンの頭をくしゃくしゃっと撫でた。エスリンの肩よりも短い髪が乱れる。
「……い」
「エスリン?」
「兄様の友人でもなんでも、あなたなんて大嫌い!」
エスリンはキッとキュアンを睨み、シグルドが通ってきた回廊へ駆け出していった。
「お、おい、エスリン? キュアン、あいつと何かあったのか?」
訳がわからないシグルドは、エスリンの後ろ姿とキュアンの顔を見比べながら、不思議そうな表情でキュアンに聞いた。
しかし、キュアンはそれには答えず、ただエスリンの後ろ姿を目で追っていた。
◇◇◇
大嫌い!
確かに練習着で、髪も短くて、ばあやからは男のコのようだから止めなさいと言われたことがあるけれど。
だけど! だけど初対面なのにあんなにはっきり言わなくてもいいじゃない!
大嫌い!
あんな人、大嫌い!
エスリンは自室で枕を壁に叩き付けながら暴れていた。
◇◇◇
「エスリン、どういうことだ?」
「どういうことって、どういう意味?」
中庭の花壇が見える、南向きの眺めのよい一室でお茶を飲みながらくつろいでいたエスリンのところに、シグルドはやって来た。
「お前、キュアンから贈られてきたものを全部送り返しているそうだな」
「そうよ。それがどうしたっていうの!」
キュアンの名が出た途端、エスリンは不機嫌になった。キュアンとの事件から3ヶ月たった今も、エスリンの機嫌は直っていなかった。
「どうしてそんなことしたんだ?」
「どうしてって……。じゃあ、聞くけれど、どうしてあの人から何かもらわなきゃいけないの?」
「そ、それは……」
「ほら、もらう理由なんてないじゃない! それにあんな人から何かもらうなんてイヤだわ」
ぷいっとシグルドから顔をそらす。
「でもな、エスリン。せっかくあいつがお前のためにと思って贈ってきたものだぞ。それを見もしないで送り返すのは失礼だと思わないか?」
「思わない!」
考える間もなく、即答だった。
そんな妹の頑な態度にシグルドは困り果てていた。
キュアンから、どうしてもエスリンに受取ってもらえるようにしてくれ、と頼まれている以上、何としてでもエスリンを説得するしかなかった。
「……言うつもりはなかったが、仕方がない。エスリン、いいこと教えようか?」
「何よ! あの人の話だったら聞きたくないからね!」
エスリンは頬を膨らませながら、そっぽを向く。
「エスリンの誤解だぞ」
「だから、何が?!」
シグルドの遠回しな言い方に、エスリンはイライラし始めた。
「お前がそんなに機嫌が悪くなった原因だよ」
「だから! 回りくどい言い方はしないで。兄様はいつもそう。もっとはっきりと言いたいことを相手に伝えないと、聞いている方は何を言いたいのか全然わからないの! だから兄様は彼女の一人もできないのよ。伝えるべきことをちゃんと伝えないから、いつの間にか別の人とくっついちゃったりされるし。そういえば、この間の休暇の時に話していたあの人とはどうなったの? 今だに何も話がないところを見ると進展なしというところかしら? それなら……」
いつの間にか話題がシグルドのことに変わっていき、エスリンは止まることなく話を続けていく。
そんな言いたい放題言う妹に、渋い顔をしてシグルドは止めに入った。
「ちょっと待て、エスリン。話題が変わってきているぞ。今の話題はお前の不機嫌の原因の話だろ?」
エスリンはふいっと横を向く。どうやらわざと話題を変えていたようであった。
「じゃあ、言うけどな、キュアンはお前の事を精霊かと思ったんだそうだ」
「精霊?」
剣の練習をしていただけで、どうして精霊かと思うのか、エスリンにはわからなかった。
「キュアンが言うには、軽やかな動きのお前はまるで踊っているかのようにきれいに見えたんだそうだ。太陽の光に輝いて、とても人間には見えなかったんだと。それですっかり見とれていたら急に振り返られて、驚いて『人間の』女の子なのかと口から出たんだそうだ」
「そ、そんなこと言われても……」
シグルドの言葉をどう取ってよいのか、エスリンは戸惑った。
あの時『女の子なのか』と言う言葉しか聞こえなかった。それにつながっていた言葉、そしてその意味は当然知らない。
今さらそう聞かされても、どう対応していいのかわからない。
「一体あいつがお前に何をしたのか、事と次第によっては、大切な妹を傷つけたとして、何か考えなければいけないと思ったが……。まあ、とにかく、キュアンはお前が誤解するような意味のことは言っていないということだ」
「……」
「ということで、これを受取ってくれ」
シグルドは細長い箱をエスリンに差し出した。
「わかっているとは思うけれど、キュアンからだ。返礼はきちんとするんだぞ」
「……」
「エスリン、返事は?」
「……はい」
しぶしぶエスリンはシグルドから箱を受取り、返事をした。
受取った手前、エスリンは仕方なくその場でリボンを外して箱のふたを開けた。
「これ……」
箱の中身を見て、エスリンは驚いた。
どうせドレスやアクセサリーの類いだと思っていた。しかし、それとは違っていた。
箱に入っていたのは、一振りの細剣。造り自体はシンプルだが、ところどころにある飾りはかなり手の込んだものであり、そして実用性のある剣だった。
「女のコに贈るようなものじゃないよなぁ」
そっとエスリンは細剣を手に取ってみる。エスリンの細い手にしっくりとくるちょうど良いものだった。
「気に入ったのか?」
「……」
返事はなかったが、剣を見る瞳がそれを語っていた。
エスリンにとっては意外な贈り物だった。今まで、女のコなのだからとドレスやアクセサリーをもらったことはあっても、剣をくれるような人はいなかった。
エスリンはなんとなくキュアンのことが知りたくなった。
「ねぇ、兄様。お返しに、何を贈ったらいい? あの人の好きなものとか、知っている?」
エスリンのキュアンに対する気持ちが興味へ、そして好意へと変わり、それから恋に変わるのに時間はほとんどかからなかった。
◇◇◇
「そろそろお時間です」
侍女がエスリンを呼びに来た。
それを聞いて、エスリンは一度大きく深呼吸をした。
「幸福(しあわせ)になるんだぞ」
シグルドがぽんっとエスリンの頭に手を乗せる。
「当たり前じゃない。キュアンと一緒なのよ。幸福にならない筈がないでしょう」
これ以上はないというくらいの笑顔を見せる。それに安心したかのように、シグルドは目を細める。
「そうか、そうだな」
「兄様も早く素敵な人をみつけてね」
「余計なお世話だ。お前こそ、お転婆が過ぎて、キュアンに嫌われるなよ」
「キュアンが私を嫌いになるなんて絶対にないんだから! それこそ余計なお世話というものよ」
二人は目を合わせて、朗らかに笑い合う。
「じゃあ、兄様。今までありがとうございました。これからはキュアンと幸福になります」
エスリンは頭を深く下げた。そしてもう一度シグルドに笑いかけ、部屋を出ていった。
シグルドはしばらくエスリンが出ていった扉を見ていた。
「花嫁かぁ。こんなに早く結婚するとは思わなかったな。しかも親友に妹を取られるとは……」
シグルドは窓の外に視線を向ける。
ガラスの向こうはあたたかな陽射しが差し込む春の午後。
「幸福になれよ」
シグルドはそっとつぶやいた。
Fin
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