あなたは風の娘。
風に乗って大空を舞い、風の導くままに生きなさい。
やさしい風がいつもあなたのそばにあるから。
忘れないで。
風はいつもあなたの味方。
あなたは風の娘なのだから。
◇ ◇ ◇
「母さま、母さま」
少女の呼び声に母は瞳をゆっくりと開けた。2、3度まばたきをした後、声の主を確かめて静かに微笑む。
「フィー? どうしたの、そんな泣きそうな顔をして」
母であるフュリーは細い指先を娘の頬に伸ばした。
頬に触れた母の手は、どこかひんやりとしていた。
「なんでもない、大丈夫だよ」
フィーは無理に笑顔を作った。
このところ母は目が覚めている時間が少なくなってきていた。
苦しんでいる様子はないが、眠ったままもう目が覚めないのではないかと不安になる時がある。
今も、声をかけたが返事がなく、ふいに不安に襲われ、何度も母を呼んでしまった。
母が病を得たのは父が旅立ってすぐのことであった。しかしフィーも兄のセティもそれに気づかなかった。徐々にその身体は病に蝕まれ、気づいた時にはもう治る見込みはないと医者に言われてしまった。
父が旅立った後、きっとかなりの無理をしていたのだろう。子供達に心配をかけまいと我慢していたのだろう。
自分は何も気づかず、母に無理ばかりさせてしまったことがフィーは少し悲しかった。
母のペガサスに乗る姿を見るのが大好きだった。自分がペガサスに乗るよりも好きだった。
大空を舞う母は強くて凛々しくて、家にいる時は誰よりも優しくあたたかい。
母はいつも憧れの存在であった。
しかしいつしか母はペガサスに乗ることも、立ち上がることさえもできなくなっていた。今はもうほとんど寝たきりの状態である。
たった一人の兄は父を探しに旅立った。
母に父を逢わせたいという思いもあったし、もっと腕の良い医者に巡り会うかもしれないと思ったからでもあった。もしかすると父自身が良い医者を知っているかもしれない。このシレジアだけでなく、他の国々についてもよく見知った父なら。
母と2人っきりになるのは淋しかったが、『必ず父を見つけて連れ帰る』という兄の強い言葉を信じて見送った。
旅立った兄に対し、フィーにできることは母のそばにいることだけだった。それがフィーにはもどかしかったが、毎日一生懸命に祈り、兄の、父の帰りを待っていた
「フィー? 本当にどうしたの? さっきから黙ったままで」
母の声にフィーはハッとした。今は自分がしっかりしなきゃいけないのだから、母に余計な心配をかけてはいけない。
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい、ぼんやりして。それより母さま、なんだか嬉しそうだね」
目覚めた母の表情はどこかいつもよりも明るい気がした。顔色も良いようである。
「あのね、夢を見ていたの」
「夢? どんな?」
フィーは枕元で身を乗り出すようにフュリーに訊いた。
フュリーは娘の顔を見ながら静かに微笑む。
「父さまの夢よ。今のフィーよりもちょっと幼かった時の父さまと母さまの夢」
「父さまと母さまは幼なじみだったんだよね?」
「そうよ。小さい頃から父さまは無茶ばかりしていたの。勉強の時間になるとさぼって遊び歩いていたわ。探しに来た私に見つかると、強引に私までつき合わすの。そしてマーニャ姉様に2人して怒られたわ」
当時のことを思い出し、フュリーは口元に笑みを浮かべる。楽しかった思い出はいつまでも心の中に残っている。
「ねぇ、母さま、父さまのこと好き?」
「好きよ。フィーは?」
「私も大好き。でもそばにいてくれないから今はちょっと嫌い」
素直な思いをフィーは口にする。
「フィー、父さまを嫌いにならないであげて。父さまが旅立ったのは仕方がないことなのよ」
「でも、母さまは淋しくない? お兄ちゃんも父さまを追って行っちゃって。父さまさえここにいてくれたら、バラバラにならなかったのに」
フィーは淋し気にため息をひとつついた。娘のそんな様子を見たフュリーもまた一瞬淋し気な表情になる。それでもフュリーは微笑みを娘に向ける。
「父さまは風だから。風はひとつところにいるものではないの。風は流れてこそ風。父さまはあらゆる場所であらゆることを見て進まなくてはならない人なの。だから止めてはいけないの」
「でも、やっぱり父さまに会いたい」
普段は口に出さずにいたのだが、ついフィーはその一言を口からこぼれてしまう。
父を恋しがる娘にフュリーは何と言っていいのかわからなかった。レヴィンの旅立ちを仕方がないと一言で済ませられることではないと、フュリーもわかっている。
しかし古き神の血を継ぐレヴィンには、やらなければならない役目がある。
同じ時を過ごし、同じものを見て来たフュリーにはわかっても、それを説明し、理解させるにはフィーは幼すぎた。
「フィー、ごめんね……」
考えてもこの言葉しか口にはできなかった。
そのフュリーの言葉を聞いた途端、フィーは大きく頭を振った。
「母さまが謝らないで。わたしの方こそごめんなさい。母さまが困ること言って」
母の細い指を握りしめてフィーは謝る。
「フィーはいいコね」
フュリーは娘の頭を撫でた。
「ねぇ、フィー、窓を開けてくれる?」
「うん」
フィーは南側の窓のひとつを開けた。
どこからか花の香りを含んだあたたかな風が通り過ぎて行く。
「気持ちの良い風ね」
「母さま」
「フィー、あなたはペガサスの娘だけど、風の娘でもあるの」
「えっ?」
突然思ってもみなかった話を切り出され、フィーは驚く。
「フォルセティを継いだお兄ちゃんの方が風の申し子として言われているけれど、父さまの娘であるあなたにも風の加護があるのよ。だから忘れないで。あなたは大空を自由に羽ばたいていける。そして風のように自由でいなさい。父さまのように」
大切な娘に望むことは、何事にも捕われず、自由でいること。
それはある意味大変な苦労をするかもしれない。けれど、どんな苦労にも負けない強さがあると思う。
この子は風に愛された娘だから。
「忘れないでね」
「うん」
フィーは大きくうなずく。
母の言った意味の全てを理解したわけではないけれど、うなずかずにはいられなかった。
「ありがとう、フィー」
「やだ、突然どうしたの?」
「フィーがいいコでいてくれるからそう言いたかったの」
優しく微笑むその表情があまりにも綺麗で、そして今にも消えてしまいそうなほどに儚く見えて、フィーは涙が出そうになった。
「そ、そうだ。母さま、のど乾かない? 今美味しい香草茶いれてきてあげるね」
フィーは自分は泣いてはいけないのだと、母に涙を見せてはいけないのだと、そう思って我慢しながら笑顔で部屋を出ていった。
「ありがとう、フィー」
フュリーはもう一度娘の名前を呼んだ。
その時、ふわりと白い薄地のカーテンが揺れた。
穏やかな風がフュリーの頬を通り過ぎていく。フュリーは視線を窓の方へと向けた。
レヴィン様。
あなたは今も風の中にいるのですね。
どうか、この先私が見られない分、そばにいられない分、セティとフィーのことを見守ってあげてください。
特にフィーはあなたに似て無茶することが多いから、気をつけてあげないと。
あなたと私の大切な風の娘を見守っていて……
フュリーはそっと静かに瞳を閉じる。
今もその姿を鮮やかに思い出すことのできる、一番愛しい人の姿を思い出しながら。
Fin
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