シグルド軍はヴェルダン城の手前の森まで進軍していた。
様子を見て数日中にでもヴェルダン城へと乗り込むところであった。
少し薄暗い感のあるその深い森に、シグルド軍は天幕を張り、ヴェルダン城の現状を探りに行った情報隊が戻るのを待っていた。
その天幕のひとつで、エーディンはエスリンとともにくつろいでいた。
「もうすぐヴェルダン城ですわね。戦でみなさん怪我をなさらないといいのですけれど」
エーディンは香草茶を一口飲んだ。
「そうね。でも兄様も結構無茶するところがあるからなぁ。指揮官がそれじゃねぇ。ホント心配する方の身にもなって欲しいわ。少しはキュアンみたいに慎重になってくれないかしら」
エスリンも香草茶を飲みながら、少し呆れた感じでそう言った。
落ち着いているように見えて、そうでないのが兄シグルドである。ひとつのことに夢中になると、脇目も振らずに突き進む性格は、良く言えば真面目で実直、悪く言えばただの無鉄砲である。
そして、そんなシグルドの性格は、兄妹の幼なじみでもあるエーディンもよくわかっており、エスリンの言っていることがよくわかっているだけに、くすくすと楽しい笑いをもらした。
「あ、私そろそろ調理場に行かなくちゃ」
「えっ?」
突然カップをテーブルに置いて、エスリンは立ち上がった。
「今日、夕食当番なの」
「あ、じゃぁ、わたくしも……」
エーディンもエスリンと同じく調理場へ向かおうと立ち上がる。しかし、それをエスリンは制する。
「いいわよ。エーディンは昨日も今日の朝食も昼食も当番じゃないのに働いてたんだもの、夕食の時くらい休んでいて」
「で、でも……」
「美味しいスープ作ってくるから、待っててね」
エスリンはエーディンにひとつウインクをしてその場を後にした。
「エスリン……」
ひとり残されたエーディンはどうしようかと思った。
彼女の気持ちは嬉しいが、今は1人になりたくなかった。
とりあえず誰かを探して一緒にいてもらおうと思い、シグルドのところかあるいはその周辺にでも行けば、誰か時間のある人がいるだろうと考えたのだった。
エーディンはそう決めると、カップに残っていた香草茶を飲み干した。冷めた香草茶はひどく苦い感じがした。
◇ ◇ ◇
深い森の中では密集して天幕は張れない。エーディンがいた天幕からシグルドのところへ行くのも少し距離があった。
少し小走りになりながら先を進んでいたエーディンの足がふいに止まった。
「エーディン」
声をかけられドキリとした。
「ジャムカ王子……」
まるでエーディンがここを通るのを知っていたかのように、行く手にジャムカがいたのである。
幸か不幸か、まわりに人は他に誰もいなかった。
「ひとりか? それなら少し話をしたい」
「わ、わたくし行くところが……」
ジャムカから目をそらし、一歩後ずさった。
明らかに自分を避けている様子に気づいたジャムカは小さくため息を洩らした。
「あの夜以来、まともに話もしてくれないんだな」
「そんなつもりは……」
なかったとは言えなかった。
ジャムカが停戦を受け入れた日の、マーファ城でのあの夜、ジャムカに抱きしめられて想いを告げられた時からエーディンは彼を避けていた。
言い交わした人がいるのかと問われた時、答えられなかった。
あれからずっと考えていた。自分の心に誰がいるのかを。
そして気がついたのだ。心の中に誰がいるのかを。
それが恋愛の感情なのかははっきりとは言えない。ただ、他の誰でもない、彼がいつも心にいることを知った。
そばにいるのが当たり前だと思っていた彼。引き離された時、初めて気がついた。彼のことが自分以上に心配だったということを。そして、彼には自分のそばにずっといて欲しいと思った。
そう思えば、やはり彼への気持ちは恋愛のそれであると思う。
けれど、彼の気持ちはわからない。
彼の瞳に自分はどう映っているのかわからない。
特に何が優れているわけでもない自分に自信がなかった。彼が忠誠とは違う想いを持ってくれるかわからなかった。
彼の気持ちがわからず、それを確かめる勇気もなく、そして自分の気持ちを表に出すことができずにジャムカをはっきりと拒むことができない自分。
もっと時間をかけて考えたかったのだが、ジャムカは待ってくれそうにない。
このまま、今のままの自分は、ジャムカの強い想いに流されそうになりそうで恐かった。
だから2人っきりになるのを避けようとしていた。
「エーディン?」
「ごめんなさい」
エーディンは短い一言を残し、その場から逃げ出そうとした。
とっさにジャムカは追いかけてエーディンの右手首を握った。
「離してくださいっ」
「話を聞いてくれるまで離さない」
強引にエーディンを自分の方へと向けた。
強い意志のある瞳を向けられ、思わず顔を背ける。
ジャムカのそばにいると不安ばかりが心に広がっていくようだった。
「エーディン」
ふいに声が聞こえ、ジャムカはエーディンから手を離した。
エーディンは声の聞こえた方に顔を向けると、そこには赤い髪の青年が立っているのが見えた。
「アゼル!」
助けが来たといわんばかりにエーディンはアゼルのそばに向かう。
「わたくしに何か?」
にっこりと笑いかけるエーディンに、アゼルは一瞬眉を寄せた。
笑顔を見せてはいたが、その笑顔はどこかぎこちない。いつものアゼルが憧れるものではなかった。
アゼルはそう思いながら、ぼそっとつぶやいた。
「ミデェールが……」
「彼がどうかしたの?!」
エーディンの表情が一瞬にして変わる。
「いや、怪我をしたらしくて……」
「怪我?! どうして?! それより、怪我の具合はどうなの? ひどいの?」
「それは……」
どこか言いにくそうにするアゼルの口調に、エーディンは怪我がひどいのだと思い込んでしまった。
「ミデェールはどこにいるの?」
「あ、ああ、調理場に……」
「わたくし、調理場に行ってきます!」
そう言ったかと思うと、エーディンは急いで調理場へと向かって駆け出した。
ミデェールが怪我をしたと言うだけで、いつも落ち着いているエーディンが慌てて駆け出した。後ろを振り返りもせず。
その様子を、アゼルもジャムカも互いに何かを胸の奥で思いながら黙って見送っていた。
その場に残されたアゼルとジャムカの間には気まずい雰囲気が流れていた。
「ミデェールが怪我をしたって本当か?」
しばしの沈黙を破り、先に口を開いたのはジャムカだった。
「ぼ、僕が嘘を言っているとでも言うのか?!」
「別にそうは言っていない。怪我の治療ならエーディンにまかせるのが一番だしな」
ジャムカはため息をついて視線を下に落とした。
「それにしても絶妙なタイミングだな」
「別にタイミングなんて計った覚えはないよ。たまたまエーディンにミデェールのことを知らせようと思ったら、君達がいただけだ」
アゼルはきつい瞳でジャムカをにらんだ。しかし、ジャムカはそれを気にはしていないようである。
そんな態度がバカにされているような気がして、アゼルは思わず攻撃的になる。
「女性の手を乱暴に掴んだりして、あまりしつこくするのもどうかと思うよ」
「それは忠告か?」
「……」
「何もしないであきらめるよりはいいと思うが。どこかの誰かさんみたいにな」
ミデェールの怪我が嘘だろうと本当だろうと、エーディンと話す機会を失ったのは事実である。せっかくの機会だと思っていたのにアゼルが邪魔をしたのだから、彼に対して皮肉めいた言葉もつい口からこぼしてしまう。
「ど、どういう意味だよ?!」
「別に。たいした意味はない。俺に用がなければもう行くぜ」
ジャムカはそう言い残して歩き出した。振り返りもせず、森の奥へと入って行った。
「僕がいつ何もしないであきらめたっていうんだよ」
アゼルはジャムカの後ろ姿をにらみながらつぶやいた。
◇ ◇ ◇
「ミデェール!」
調理場に駆け込んだエーディンは緑色の髪の青年を見つけると、駆け寄った。
「怪我をしたのですって? 大丈夫なの? 一体どこを怪我をしたの?」
エーディンは心配そうな表情で、ミデェールの怪我を確かめようとした。
「あ、あの、エーディン様、何をそんなに慌てて……」
見るからにいつもと違う様子のエーディンに、ミデェールも戸惑った。
その時、エスリンがミデェールの左手を取り、エ−ディンの目の前へと持っていった。
「もう、すっごい重傷よ、ほら」
「え? これ……」
琥珀色の瞳に映ったのは、左の人さし指と中指と薬指の先にばんそうこうを巻いたミデェールの手であった。
「ミデェールって意外に不器用なのね。おイモ1個むくたびに指を1本切ってしまうのよ。それにほら見て、このおイモ。皮がこんなに厚いのよ。こんなんじゃ材料がいくらあっても足りなくなるわ」
エスリンはそう言いながら、右手に厚くて切れ切れになったイモの皮を持ち、エーディンに見せる。
「ミデェールはもういいわ。これからおイモはまだまだたくさんむかなきゃいけないのに、それじゃミデェールの指が何本あっても足りないわ。ここはフィンと私で十分だから。ねぇ、エーディン、その重傷の手当て、ちゃんとしてあげて。よろしくね」
「え、ええ……」
とても手当てを必要とするような怪我ではなかったが、エスリンの勢いに押されてうなずくしかなかった。
「申し訳ありません。私がふがいないせいで……」
ミデェールは情けなさそうな表情をしてエーディンに頭を下げた。
「あら、おイモくらい剥けなくてもミデェールは弓が上手なのですもの。大丈夫ですわ」
どんなひどい怪我をしたのかと心配だったエーディンは、それほど大した怪我ではなかったことに安堵した。
「ほら、邪魔よ、2人とも。いちゃつくならあっちでやって」
「エ、エスリン、わたくし達いちゃついてなんか……」
エーディンの白い頬がほんのりと赤く染まる。
「どっちでもいいわよ。フィン、そっちの鍋持ってきて」
「はい、エスリン様」
狭い調理場でエスリンとフィンが世話しなく働いていた。
そこにいてもただ邪魔にしかならないエーディンとミデェールは、お互いに顔を見合わせ小さく笑った後、一緒に調理場を出て行った。
Fin
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