夕方の露店街は人であふれていた。夕食の買い出しに来たのであろう大人の女性が、露店に集まっている。
ナンナも父フィンに頼まれて買い出しに来ていた。
言われたものは全部買い、ナンナはまっすぐ宿に戻ろうとした時だった。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん。そこの金髪のお嬢ちゃん」
「えっ、私、ですか?」
ナンナはまわりをきょろきょろと見た。他に金髪の女のコはいない。
「そうだよ。お嬢ちゃん、お使いかい? こっちの品も買って行かないかい?」
声をかけてきたのは顔全体に深いしわのある老婆だった。
その老婆が指差す商品は甘い香りのするお菓子。
「うわぁ、美味しそう」
クッキーやマフィンなどの焼き菓子や新鮮な果実で作られた果汁など、ところ狭しと並んでいた。
甘いものは最近食べていなぁ、とナンナはついその菓子を眺めていた。
「今日のおすすめはこのトリュフだよ」
老婆は丸く成形されたチョコレートをナンナの前に差し出した。
「お嬢ちゃんには好きな男のコいるのかい?」
「えっ?」
突然訊きかれ、思わずナンナの頬が赤く染まる。
「そうかい、そうかい。好きな男のコいるんだね。知ってるかい? 今日はバレンタインデーといって好きな男のコにチョコレートをあげる日なんだよ。お嬢ちゃんもこのチョコあげてみないかい?」
にっこりと笑いかけながら、目の前にチョコレートが差し出された。
なめらかな表面のきれいなチョコレート。
どんな味がするのだろうと気になった。
甘いものが好きなリーフ様にあげたいな、とナンナは思った。
そして老婆が差し出すまま、そのチョコレートに思わず手を出そうとした。しかしナンナは慌ててすぐに手を引っ込めた。
「ごめんなさい、私、もうお金持ってないから……」
フィンから預かったお金は頼まれた物の品代ちょうどであった。余裕はもうなかった。
「それじゃ……」
ナンナは残念そうに肩を落として立ち去ろうした。
「ちょっとお待ち、お嬢ちゃん」
老婆は歩きかけたナンナを引き止めた。そして、ナンナの手を取ると、その手のひらに白い紙に包まれた小さな丸いチョコレートを乗せた。
「持ってお行き」
「えっ、でも……」
売り物をタダでもらうわけにはいかない。ナンナはチョコレートを返そうとしたが、老婆は首を横に振った。
「いいんだよ。形が悪くて売り物にならないチョコレートだから。好きな男のコにおあげ」
そう言われながらもナンナは戸惑った。しかし老婆に笑顔でうなずかれる。
ナンナの表情が明るいものに変わっていく。
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げて礼を述べた後、ナンナは急いで宿屋に戻った。
「リーフ様!」
「あ、ナンナお帰り」
部屋で本を呼んでいたリーフがナンナを迎えた。
「どうしたの? そんなに慌てて。町で何かあった?」
ナンナは早くリーフにチョコレートをあげたくて、ずっと走って戻ってきたのだった。上気した頬が赤く染まっている。
「あのね、これリーフ様に」
ナンナは小さな白い包みを差し出した。
「何、これ?」
リーフはナンナが差し出した白い包みを開けた。中身はほんの少し解けかかったチョコレート。
「リーフ様、食べてください」
「でも、これ1コしかないの? ナンナの分は?」
リーフに気づかわれながらもナンナは首を横に振る。
「私の分はいいんです。これ1コしかないし、リーフ様が食べてください」
「でも」
「これはリーフ様に食べて欲しいんです。はい、口開けて」
そう言ったかと思うとナンナはチョコレートをリーフの口の中にポイッと入れた。
リーフの口の中いっぱいに甘さが広がる。
「どうですか? 美味しい?」
「うん、美味しいよ。ありがとう、ナンナ」
「良かった」
ナンナは嬉しそうに微笑んだ。
明日もう一度あのお菓子屋さんのところへ行こうと思った。もらったチョコレートを美味しそうに食べて喜んでもらえたと、伝えてもう一度お礼を言いたかった。
「あ、ナンナ、ちょっとこっち見て」
「えっ?」
突然リーフがナンナの頬に口づけた。
「リ、リーフ様?!」
ナンナは驚いて思わず飛び退く。
あまりに突然のことで、ナンナの心臓がドキドキと高鳴る。
それを知らないリーフは少しいたずらっぽい瞳をしながらナンナを見た。
「ナンナのここについてたんだ、チョコレート」
リーフは自分の頬を指差して答える。
さっきナンナがリーフにチョコを食べさせた時にチョコレートが指についていて、それがいつの間にかナンナの頬についてしまったのだろう。
「美味しいチョコだったから、つい舐めちゃった」
リーフはぺろっと舌を出した。
その途端ナンナは大きく息をはいた。
特別な意味があって口づけたわけではなく、ただチョコレートがついていたから、だったんだ。
そうわかっても、ナンナ心臓はまだ高鳴っていた。
リーフの唇が触れたところが熱くなっている気がした。
「今度僕がナンナにチョコレート買ってあげるね」
楽しそうな無邪気な笑顔でリーフはそう言った。
「はい、ありがとうございます」
ナンナも笑顔でそう応えた。
◇ ◇ ◇
あの頃は料理なんて出来なくて、もちろん腕もだけど食材も手に入らなくて、もらった小さなチョコレートをプレゼントした。
あれから何年がたったのだろう。
今はどこのお菓子屋さんにも負けないくらい上手に作れるようになったと思う。
でもやっぱりあの時もらったチョコレートにはかなわないかな、とちょっぴり思う。
それでも、大好きな人が一番喜んでくれるチョコレートを、自分で用意できるようになった。
「ナンナ、何作ってるの?」
「トリュフですよ。リーフ様、チョコレートお好きでしょう?」
「ナンナの作るトリュフが一番好きだよ」
リーフはにっこりと昔と変わらないあたたかな笑顔をナンナに見せた。
「あ、ナンナ」
リーフはナンナが返事をするよりも早く、ナンナの頬に口づけた。
「リ、リーフ様?!」
「そんなとこにチョコつけてるんだもん、もったいないだろう?」
ぺろりと舌を出すリーフにナンナが苦笑する。
「リーフ様、昔とちっとも変わらないんだから。あ、ダメですよ! まだ食べちゃ!」
ちょっと油断した隙にリーフは作りかけのトリュフを口に入れたのだった。
「リーフ様ったら、まだ味見してないのに食べちゃダメですよ」
「だったら味見する?」
リーフはそう言ったかと思うと、今度は本当にナンナに口づけたのだった。
Fin
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