ユグドラル大陸の西端にあるヴェルダン公国。
土地の8割が森と湖で占められ、まさしく森と湖の国と呼ばれていた。
その国の拠点であるヴェルダン城の南東に、精霊の森と呼ばれる静かな森があった。
不思議なことに、この森だけはめったに人が踏み入ることがなく、謎に包まれた森であった。
その森の奥には小さな湖もあった。
湖底が見えるほどの澄んだ水 。時折吹く やわらかい風が水面を揺らめかせている。
緑の木々に囲まれた名もなけれど美しい湖だった。
そんな湖のすぐ側の脇道を、一人の少女が駆けていく。
薄い紫がかった銀の髪の少女は、手篭にいっぱいの薬草を持って、さらに森の奥を目指していく。
太く大きな樹のそばに建つ、一件の小屋に辿り着いた少女は、その扉を勢いよく開けた。
「ただいま!おばあ様」
「ああ、おかえり。ディアドラ」
少女を迎えたのは、少女のこの世でたった一人血のつながった祖母であった。
母はまだディアドラが幼い頃に亡くなり、父は生まれた時からいなかった。
どうして父がいないのかといくら尋ねても、祖母は教えてはくれなかった。
外界との接触をほとんど絶ち、二人はこの森の奥でひっそりと暮らしていた。
何故こんな場所に住んでいるのかも、その理由をディアドラは知らない。
幼い頃から、「どうして?」を何度くり返しても優しい祖母は教えてくれなかった。悲しそうな笑みを浮かべ、困った顔になる祖母を見ているうちに、聞いてはいけないことだと思い、疑問を口にするのをやめてしまった。
両親も兄弟もいないディアドラだったが、優しい祖母がいつもそばにいてくれるので淋しくはなかった。
「ねぇ、おばあ様。今日は珍しい花を見つけたの」
よほど祖母に早く見せたかったのか、部屋に入った途端ディアドラは頬を紅く染めながら祖母の前に座った。
「おや、これはディールの花だね。こんな時期に珍しい」
篭の中から取り出した大きめな5枚の花弁の白い花。中心が淡い黄色のきれいな花だった。
「この花の花言葉を知っているかい?」
「いいえ、知らないわ。何というの?」
「この花は恋人に贈る花だと言われるもので、『あなたを想っています』というのだよ」
「へぇ……」
ディールを手に取って、ディアドラは瞳を輝かせてそれを見つめた。
「いつか私にもこの花をくれる人が来てくれるといいのに……」
ディアドラは小さくつぶやいた。
それを祖母は聞き逃さなかった。
ふと祖母と視線が合い、ディアドラは慌てたように立ち上がった。
「こ、この花水に入れてくるわ」
そう言って、ディアドラは部屋から出ていった。
恥ずかしそうに頬を染めて出ていったディアドラを見送りながら、何気なく花言葉を言ってしまったことに、祖母は後悔していた。
年頃の少女が思い描くような恋に、ディアドラも憧れているのだろう。物語に出てくるような王子様がいつか迎えに来るかのような期待を持っているのかもしれない。
しかし、どんなに思い描いたとしても、それは現実にはならないのである。
森の奥に隠れるように暮らす二人。実際ディアドラには言ってはいなかったが、彼女はこの森から出てはいけないのである。祖母以外の人と関わることを禁じられ、たぶんこの先も誰とも関わらずに一生を終えることになるのだろう。
何も知らずにいる、いや何も知らせずにいるために何も知らない少女。
運命というものがあるとするなら、少女に課せられた運命は重すぎるものである。
何も言わないけれど、ディアドラがこの森の外へと出たがっているのにも祖母は気づいていた。出せるものなら出してあげたかった。まだこんなにも若く、愛らしいのに、本来ならこんな森の奥で一生を送らせたくはなかった。
しかしそうは思っていても、禁忌の血を引く少女を表には出せない。
祖母にとっては娘にあたるディアドラの母シギュンが、そもそもの原因である。
出てはいけない森を出て恋をし、一人の子を為した。それだけならよかったのだ。しかし、夫の裏切りに耐えられなかったシギュンは、別の恋に落ち、そしてもう一人子を為してしまった。
シギュンは子を二人為してはいけないという一族の掟を破り、ディアドラを産んだ。
掟を破ったことで、この先どうなるかは祖母にもはっきりとはわからない。ただ、ディアドラの存在を誰にも知られてはいけないのは確かなのである。
もしもシギュンがこの森を出なかったなら、もしもヴィルトマー公爵に気に入られなかったら、もしも公爵の子供を産まなかったなら、もしもバーハラ王家王子との許されない恋をしなかったなら、もしも……。
考えてもしかたがないことなのに、もしもばかりが頭に浮かぶ。
苛酷な運命の流れに巻き込まれるかもしれない少女。
できることなら平穏な人生を歩んでもらいたかった。
このままこの森の中で静かに暮らして欲しかった。
だからこそ、母親の不義を話すことをせず、祖母はディアドラに何も教えずにいた。
何も知らないまま、静かに暮らして欲しい。
それがたったひとつの祖母の願いであった。
その夜、眠りの奥底にいたディアドラは夢を見ていた。
湖のそばにいたディアドラのところへ、青い髪の青年が白馬に乗ってやってくるのである。
自分は今よりも少し大人になっていた。
そんな彼女の前に、青いマントをなびかせながら、青年は近づいてくる。逆光で顔がよく見えなかったが、優しい笑みが向けられているのがわかる。
青年はディアドラに1本の花を差し出した。その花はディール。
ディアドラは驚き、戸惑いながらその花を見た。それからおそるおそるディアドラは花を受取った。
きれいに咲いたディールの花。
『あなたを想っています』
その時花言葉が思い出された。
もしかして私に逢いに来てくれたのだろうかと思った。
青年はさらにディアドラに手を差しのべる。
再び戸惑うディアドラだったが、そっと青年に手を延ばしだす。
大きなその手を取りたいのに誰かが取ってはいけないと言う。誰が呼び掛けているのかわからないけれど、青年に触れるな、すぐに離れろとくり返す。
しかしディアドラはその震える細い手を、ゆっくりと青年の手へと近づける。
触れそうになったその瞬間、弾けるような眩しい光がディアドラの目の前に広がった。
そして。
そこで夢は終わった。
その日を境に、ディアドラは同じような夢を見るようになった。
はっきりと顔のわからない若い青年が何度となく夢に出てくる。
「本当に来てくれればいいのに……」
ディアドラは夢の中のその青年が本当に迎えに来てくれないかと思い始めていた。
夢の中の青年を『聖騎士様』と呼び、いつか会える日が来るのを待ち望んでいた。
その手にはきっとディールの花を携えていると思いながら。
数年後、少しだけ目もとに幼さの残る美しい娘へと成長したディアドラは、思い掛けない場所で、一人の青年と出会うことになる。
そして--------。
運命の輪は動き始めるのである。
Fin
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