ヴェルダンには名もない小さな森がいくつも点在している。
背の高い木々が生い茂る視界の悪いの森が多いことは、逃げる2人にとって好都合であった。しかし足場が悪いため、その道行きは簡単なものではなかった。
マーファ城を抜け出し、人目を忍んで道ならぬ道を夜通し駆けてきたエーディンとデュ−。
どれだけ進んだのだろうか。
天上の月はかなり西の方角へと傾いていた。
右手前方にほのかな明かりが見えていた。このあたりに詳しいデュ−が言うには、たぶんジェノアの城下街の明かりだろう、とのことだった。
ジェノア城はヴェルダンの第2王子キンボイスが城主である。長兄と組み、グランベル侵攻に
関わっている。ここで見つかっては再び捕われマ−ファ城へと連れ戻され、そして今度こそもう逃げられなくなるだろう。それどころか命の方も危ないかもしれない。それではジャムカの好意が無駄になってしまう。ジェノア城の付近にはあまり近づくわけにはいかなかった。
しかしこのままもうひとつ大きめの森を越えなければシグルド達のいるエバンス城へは辿り着けない。まだまだ長い道のりであった。
「エーディンさん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ、デュ−。早く行きましょう」
そう言ったものの、エーディンの疲労はピークに達していた。ただでさえ歩きにくい森を進み、しかも人の通らない道を選んでいるために足場はかなり悪かった。普段こんな道を歩いたことのないエーディンにはさぞやつらい筈である。それでも歯を食いしばり、エーディンは先へ急ごうとする。
長衣の純白のローブはすっかり汚れ、木の枝にでも引っ掛かったのかあちこち破れていた。
「やっぱり少し休もうよ? 近くに街もあることだし、納屋か馬小屋でも借りて少し足を休めた方がいいよ」
エーディンを気づかい、デュ−はそう言う。危険ではあるけれど、エーディンの様子があまりに痛々しく、これ以上無理をさせたくはなかった。
しかし彼女は首を横に振った。
「だめよ。あれを見て」
今来た道をエーディンは指差す。闇の向こうにかすかに見えるいくつもの明かり。わずかながらも移動いているそれはたいまつの明かりである。マ−ファ城を抜け出したことがばれたのであろう。ガンドルフが追っ手を差し向けたに違いなかった。いつの間にかこんなにも近づいてきていたのである。
「今休んでいたら追いつかれてしまうわ。ただでさえわたくしが遅いばかりに……。ごめんなさい、デュー」
「そんなこと気にしないでよ! おいら、エーディンさんには感謝しているんだ。あのまま捕まっていたらガンドルフの野郎に殺されるところだったんだから。エーディンさんの仲間のところまで、おいらがきっと連れて行くから! がんばろうよ」
「ありがとう、デュ−」
そしてエーディンは傷づいた足をもう一度前へと踏み出したのである。
◇ ◇ ◇
ジェノア城周辺の、あるひとつの森を数人の一行が歩いていた。
アゼル、ミデェ−ルを中心とした見回りの部隊である。ジェノア城を制圧したものの、まだその残党が残っている可能性があり、夜を徹しての見回りであった。
暗い夜空も今は白々となり、朝を迎えようとしていた。しかし森の中はまだまだ薄暗い。
もう城へ戻ろうかとした時だった。静かな森の中を、突然足音が響いてきた。
「アゼル様、誰かやってきます」
「うん。ジェノアの残党かもしれない」
足音はどんどんと近づいてきた。
「止まれ!」
「うわぁ!」
木々がうっそうと生い茂った場所を抜けてすぐのところで、ミデェールとアゼル達は待ち伏せていた。
兵士の1人に槍を突き付けられ、驚いて尻もちをついた少年は、見たところまだ歳若かった。特に武器は持っている様子はない。顔も服も泥だらけのうえ、転びでもしたのか膝や腕から血が流れている。なりふり構わず、息を切らせてとにかく急いで走ってきたらしい。
「こんなところで何をしている? まさかとは思うけれど、ジェノアの残兵ではないだろうな?」
兵士が槍で脅しながら訊く。少年は怯みながらも、ジェノア兵に間違われたのを不快に思って強気に言い返した。
「お、おいらがジェノアの兵なんかになるもんか! って、あんた達もジェノア兵じゃないのか?」
少年は赤い髪の青年に問いかける。
「そうだ。僕達は……」
「た、助けてくれよ! おいら達追われてるんだ。ここまで来て、まさかジェノアの兵がいるなんて思わなくて……」
「敵は何人いるんだ?」
「わかんないよ。でもおいら達を追ってきたのは2……、3人かな」
「ミデェール、何人か連れて僕が先に行く。君はそのコの手当てが終わったら来てくれ」
「わかりました」
アゼルは手際良く指示をすると、供を連れて少年が通ってきた森の中へと入って行った。
残されたミデェ−ルは、少年の腕を取りさっと怪我の具合を見た。
「さほど大きな怪我はないようですね」
ミデェ−ルは小さな布袋から携帯用の傷薬等を取り出し、手当てをしようとした。しかし少年はミデェ−ルの手を振り切った。
「怪我の手当てはあとでいいよ。おいら、戻らないと……」
「戻る? そういえば、先ほどから『おいら達』と言っていましたが、君の他に誰か一緒だったのですか?」
「……お兄さん、ホントに味方だよね?」
少年の瞳に疑いの色が一瞬浮かぶ。そう簡単に人を信じてはいけないと、少年は今までの経験から身にしみてわかっている。
「私達はシアルフィのシグルド公子指揮下の者です。君がヴェルダンを敵だと言うのなら、私達は味方です」
「シグルド?! 良かったぁ。じゃぁ、お兄さん、早くこっち来て!」
少年は強引にミデェ−ルを森の中へと導いて行った。
◇ ◇ ◇
「確かにこのへんなのですか?」
「ちゃんとおいらの目印が続いているし、間違いないんだけど……」
目印と言われても、まわりは同じ木が立ち並ぶだけで、ミデェ−ルにはそれがわからなかった。
迷いそうになりながら、ミデェ−ルは少年の後をついて行く。さすがに身を隠した場所だけあって、そろそろ馬で行くには困難な道に差し掛かってきた。
デュ−と名乗ったその少年は、連れと一緒にマーファ城を逃げ出してきたという。なんとかしてその連れをシグルド公子のところまで送り届けるのが使命らしい。しかしその途中の森で、こともあろうにジェノア兵の残党に見つかり、追われることとなった。その場はなんとか逃げるも、このまま逃げ切ることができないと判断したデューは、連れの身を隠して救援を求めようと森を駆けていた。そこで幸運にもシグルド軍一員であるミデェール達と出会ったのであった。
「あった!」
デューは急に駆け出す。幹の太い1本の木のところへ行くと、根元の方に寄せてあった枯れ木を退かして行く。
「もう出てきても大丈夫だよ」
そしてデューの呼び掛けに応えてゆっくりと木のうろから出てきた人物は、白い布を頭からすっぽりとかぶり顔は見えなかった。動いた瞬間に、フードから長い髪がこぼれる。薄暗い中でもわかる輝かしい金色の髪。
「ほら、あのお兄さん、シグルドって人知ってるって……」
そう言ってデューが見上げた時、味方だと思ったその人物は弓を構えていた。
「え、ちょ、ちょっと?!」
「エーディン様!」
ミデェールは大きく叫んだ。そしてその一言のあとすぐに、金の髪の人物はデューを抱きかかえるようにして身を伏せた。
それと同時にミデェールの矢が放たれる。
勢い良く放たれた矢は、金の髪の白いローブの人物……エーディンのすぐ後ろにいたジェノア兵の胸へと突き刺さる。
恐る恐る身を起こしたデューは、それを見て言葉も出なかった。
エーディンがどうして伏せたのかもわからないが、一歩間違えればミデェールの矢はエーディンに刺さるところだった。
「エーディン様!」
ミデェールは矢を放った後、すぐに馬を降りて駆け寄った。
ただ一人の守るべき女性(ひと)の元へ。
「ミデェール!」
エーディンもまた真直ぐに走り出す。
ミデェールはエーディンの前に来たかと思うと、片膝を地につけた。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、わたくしは大丈夫。ミデェールこそ、怪我は?」
「私の身などエーディン様が気にされることはありません。それよりも御身お守りできず申し訳ありませんでした」
「何を言うの?! あなたはわたくしを助けようとその身をていしてくれたではないの。ほら、この顔の痣。わたくしをかばってガンドルフに殴られた証拠ではないの」
エーディンはそっと両手を伸ばし、まだ治りきっていない痣のあるミデェ−ルの頬を包み込む。
「エーディン様、よくぞ御無事で……」
「ミデェール!」
エーディンは思わずミデェールに抱き着いた。
離れている間、どれだけ心配だったか。
自分の為に殴られたせいで命を落していないかと、心が締めつけられるほどに心配だった。
しかし、今しがみついた胸のぬくもりを感じることができたことで、その不安は消え去っていく。
間違いなく、ミデェールは生きてここにいる。
エーディンはそれがたまらなく嬉しかった。
それに対し、ミデェールは戸惑っていた。
自分にしがみつき、泣かれるなど、主たる者が仕える者に対する行為ではない。いくら従者思いだとしても、許されるはずはない。
離れなくてはならない、そう理性では思う。しかしミデェールの腕はいつの間にかエーディンの背に回されていた。
そっとその腕に力をこめる。
ミデェールもまた、エーディンと同じように、その細い身体のぬくもりを感じながら、エーディンの無事を確かめる。
自分の命を賭して守るべき女性。誰よりも大切な女性。
従者という立場にいることがわかっていながらも、それとは違う感情が沸き起こる。
ずっと否定し続けた想いが、それだけが心を占める。
この腕の中にあるぬくもりを放したくはない、そう心に強くミデェ−ルは感じていた。
エーディンとミデェールがお互いの無事を確認している時、ミデェ−ルをエ−ディンのところへと案内した少年デューは言葉もなくただ呆然と座り込んで2人を見ていた。
◇ ◇ ◇
エ−ディンはゆっくりと瞳を開ける。まず目に見えたのは陽光に照らされた明るい室内。気がつけばふんわりとしたやわらかなベッドの中だった。
「ここは……」
「あ、エーディンさん、目が覚めた?」
声のした方へ視線を移すと、ホッとした顔のデュ−が目に入った。一瞬の間があいた後、何かを思い出したかのようにエ−ディンはガバッと急に身を起こすと、デュ−の腕をつかんで揺すった。
「ミデェ−ル……、ミデェ−ルは?!」
「だ、大丈夫だよ。報告に行ったあと、ここにくるって」
「そう」
驚くデュ−から手を放し、ホッと安堵の息を漏らす。
「デュ−、ここはどこ? わたくし、どうしてここへ……」
「覚えてないの……って言ってもそうだよね。エ−ディンさん、ミデェ−ルさんに逢った後、気を失ったんだよ。ここはジェノア城の中。この城ってもうシグルド公子が制圧していたんだってさ。エバンス城まで行かなくてよかったよ」
無駄な努力をしなくて良かった、とデューは喜ぶ。
シグルドが制圧したジェノア城。
思っていた通り、シグルドは自分を追ってここまで来てくれていた。そしてミデェールも自分を追って来てくれた。
さきほどの温もりは夢ではなかったのだと、改めて感じていた。
そんな時、デューがふとたずねてきた。
「エーディンさん、ひとつ訊いてもいい?」
「何かしら? デュ−」
「どうして、ミデェールさんがエーディンさんの名前を叫んだ時、伏せたりしたの?」
「あぁ、あの時のことね。以前に同じようなことがあったの。その時は森の中で大きな獣に襲われそうになった時だったけれど。ミデェールは私に向かって弓を構え、そして叫んだの。『エーディン様、伏せて!」と。気配を消して背後に近づく獣に私は気づかなくて驚いたけれど、伏せた後、ミデェ−ルの矢はわたくしの頭上を通って獣の急所に当ったわ。わたくしはそれで獣に襲われることなく助かったの」
エーディンは思い出の一つであるかのように穏やかに説明する。
「でも今回ミデェ−ルさんは『伏せて』とは言わなかったよ」
「そうね。でもわたくしにはわかったの。もしかすると他の方にはミデェールがわたくしに向かって矢を放とうとしているように見えたのかもしれないけれど、彼が狙っていたのはわたくしの背後に近づく敵だったということを」
そう説明されてもまだデューには納得ができなかった。
「でも一歩間違えれば、矢はエーディンさんに刺さるかもしれなかったんだよ?!」
「ミデェールはちゃんとわたくしの名を呼んでくれたもの」
「それだけでわかった……?」
エーディンは答える代わりに微笑んだ。
たった一言名前を呼ばれただけで、全てがわかるというのだろうか。
「すげぇなぁ。エーディンさんとミデェ−ルさん、よっぽど信じあってるんだね」
「デュ−ったら、そんなこと……」
エーディンの頬が軽く赤く染まる。
その様子に、デュ−は何かをピンと感じた。
「あ、もしかして、エーディンさんってミデェ−ルさんのこと好きなわけ? そっか、だからか! じゃなきゃ、いくら従者とはいえ弓を向けられて平気なんてことないもんなぁ。そっか……」
うんうんとうなずきながら、ひとり納得するデュ−に、エーディンは頬をさらに真っ赤する。
「ね、ねぇ、デュー、何か勘違いしていないかしら? わたくしは……」
「照れなくてもいいって。いいなぁ。おいらもエーディンさんのような人とつきあってみたいよなぁ。うらやましいよ、ミデェ−ルさんって。ところで、ミデェ−ルさん、遅いね。おいら、ちょっと見てくるよ」
訂正しようとしたエーディンの言葉などまったく気にした様子もなく、デュ−は軽い身のこなしで廊下に駆け出していった。
部屋に残されたエーディンは一瞬呆然としながらもベッドから出ることはできなかった。
のちに、エ−ディンとミデェ−ルのこの息のあった行動は、大袈裟ともいえる言葉を付け足されながら、デュ−によってシグルド軍に広まることとなる。
それはまた後日のことであるが、デューが部屋を出て行ってから数刻後、シグルドに状況報告を終えたミデェールが部屋へ入ってきた。
「エーディン様、ご気分はいかがですか?」
「ミデェール!」
エーディンはミデェールの姿を見た途端、嬉しそうにベッドから出て、ミデェールの側へと寄った。
「ミデェールこそ、本当に大丈夫?」
「はい。私のことなどよりもエーディン様の方が大変だったはず。怪我等はされておりませんか?」
「ええ。わたくしは大丈夫。ミデェールがわたくしを助けてくれたから」
その言葉を聞いた途端、ミデェールは急にその場にひざまずいた。
「申し訳ありませんでした。もっと私に力があれば、エーディン様をこのような恐ろしいことにまきこませはしなかったものを」
ミデェールは悔し気に拳を握りしめうなだれる。そんな彼の肩にエーディンはそっと手をかけた。
「ミデェール、もういいのよ。あなたのせいではないですもの。あなたはわたくしを懸命にかばい、そしてちゃんと助けに来てくれた。わたくしはそれをとても嬉しく思ってるわ」
「もったいないお言葉です。しかし、本当にエーディン様が御無事で良かった……」
2人は穏やかに微笑みながら、見つめあった。
「そういえばシグルド様はどうされているの?」
「はい。エーディン様が無事戻られたことを大変喜んでおられました。のちほど参られるとのことです。それから、今後のことですが、まだヴェルダンはグランベル侵攻を諦めてはおらず、このままヴェルダン軍を鎮圧するために進軍するそうです」
「そう。まだ戦いは続くのね。ミデェール、これまでシグルド様のもとでよく戦ってくれましたね。これからもシグルド様の力になってさしあげてくれるかしら?」
「はい、もちろんです。ユングヴィ城とエーディン様を救っていただいた御恩を私は決して忘れません! ヴェルダンとの戦いに決着が着くまで、私はシグルド様の許で働きたいと思います。ですからエーディン様は安心して城へお戻りください」
「あら、わたくしは城へは戻らなくてよ」
「エーディン様?!」
思ってもみなかった言葉に、ミデェールは驚く。
「いかにシグルド様の軍がお強いとはいえ、戦には怪我がつきもの。この軍で回復の杖を扱える者は少ないはず。ですからわたくしのシスターとしての力が必要だと思うの。ミデェールもそう思うでしょう?」
「し、しかし、戦場にエーディン様を連れていくことは……」
確かにエーディンの使う回復魔法は戦場において大切な意味をもたらす。しかし、エーディンの双児の姉である第一公女が行方不明である現在、エーディンはユングヴィの大切な姫君である。例えどんなに戦場で必要であろうとも、命にかかわるような危険な戦場に連れて行くなどできるはずがなかった。そんなミデェールの考えとは反対に、エーディンは涼しい顔で話を続ける。
「大丈夫。わたくしが最前線へ出る訳ではないもの。後方部隊として力を尽くすわ」
「しかし……」
当たり前だが、なかなかミデェール首を縦には振らない。
「それにミデェールはわたくしを守ってくださるのでしょう? わたくしが怪我をするようなことは……」
「絶対にありません! この先、何が起ころうとも、私が何をおいてでも必ずお守りいたします!」
「ねっ、それなら問題は何もないわ。それにわたくしは遠くであなたのことを心配するのは嫌なの。あなたが怪我をした時は、近くにいてすぐに治してあげたいの。だから……」
懇願する瞳のエーディンに否やを唱える者などいないであろう。ましてや自分を気づかってくれる彼女に、ミデェールが逆らえるはずもなかった。
「わかりました。しかし絶対に前線に近づくようなことはなさらないでください」
「ありがとう、ミデェール」
優雅な女神のような微笑みに、ミデェールはいつも従うしかなかった。
Fin
|