笑顔の時

 どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえる。
 高く澄んだ優しい声。 
 どんなに離れていようとも、決して忘れることのできないその声。
 あぁ、これは夢なのだ。
 ここに彼女がいるはずがない。
 自分を呼ぶこの声の持ち主は、旅立ったのだから。
 どうして同じ道を選ぶことがかなわなかったのだろう。
 我々は今はまだ小さな星々のために、己ができる限りの力を尽くさねばならない。
 それ故に、同じ未来を望みながらも、その場所へたどり着くための道は互いに違うものを選んだ。いや、選ばざるを得なかった。
 何もかも承知してのことではあるが、仕方がなかったと一言では片付けられない。
 どれほど時の運命を恨んだことか。
 しかし後悔はしない。
 それが彼女との約束であり、我々の運命なのだから。
 

◇ ◇ ◇

「……おきて」
 自分に呼び掛ける優しい声が耳に届き、フィンはハッとする。
 微睡みの中から意識を取り戻し、そして瞳を開けると、まぶしい金の輝きが飛び込んできた。
「ラケシス?!」
 思わずその色と同じ髪を持つ愛しい女性の名を呼び、身を起こしたその途端。
「きゃうっ」
 ころんと小さな身体が自分の胸のところから転がっていった。
 フィンは芝の上にひっくり返っている小さな娘の姿を認める。
「おとうさま、いたい」
 自分の頭を小さな手で撫でているのは、フィンの一人娘ナンナであった。
 フィンはほんの少しだけため息をもらす。娘には気づかれないように。
 そしてすぐにナンナを軽々と抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。
「悪かった。大丈夫か? ナンナ」
「だいじょうぶよ。ナンナ、つよいモン!」 
 くりっとした大きな瞳で父を見ながら、ナンナは笑う。
「あのね、おとうさま。こんなところでねてたら、かぜひくよ?」
 人けのないアルスター城の中庭。
 手入れの行き届いた芝生の上に寝転び、久しぶりに晴れ渡った青空を見ているうちに、フィンはいつの間にか眠ってしまったようである。
 自分を心配する娘に、フィンは微笑む。
「そうだな。私が風邪をひいてお前達にうつしてしまうわけにはいかないな。ところでナンナはここまで一人で来たのか?」
 その問いに、ナンナはうん!と大きくうなずく。
 アルスター城の敷地内とはいえ、ナンナが普段いる場所からここまではかなりの距離がある。
 小さな歩幅でここまで来るのは大変だったであろう。
「だってにいさまおひるねしてるから。おひるねのじかんだけど、ナンナ、おとうさまのこもりうたがないとねれないの。だからさがしにきたの」
 にいさま、とはレンスター王家の遺児であり、ナンナよりも1つ年上のリーフのことである。本来リーフはフィンが仕えるべき主にあたる。しかしこの時、リーフをはじめ、レンスター王家に関わる全ての人物が追われる身であった。もちろんリーフの父レンスター王太子キュアンに仕えていたフィンもその例にもれず、逃亡生活に身を置いていた。
 レンスター城を脱出し、アルスター城へ来るまでの間、素性を偽るために、フィンと妻ラケシスの実子ナンナとともに家族ということにして暮らしていたのだった。
 まだ事情の理解できない幼い2人は兄妹として育てられ、本人達もそう信じていた。しかしいつまでもそういうわけにもいかず、話す機会をフィンはうかがっていた。
「それじゃあ戻るとするか」
 フィンはナンナを片手で抱き、立ち上がって歩き出した。
 このところ雨続きであったが、今日はよく晴れていて気持ちがいい。
 2人は中庭の花壇を見ながら歩いていた。
「あのね、おとうさま」
 フィンの腕の中ではしゃいでいたナンナが、急に笑顔をやめて声をかけた。
「どうした?」
「おとうさまはおかあさまがいなくてさみしくないの?」
 思い掛けない突然の問いにフィンは息を飲む。
 ラケシスがイザークにいる夫妻の長子デルムッドを迎えに行ったのは1年ほど前のことだった。
 戦乱の混乱が続く中、本当は1人で行かせたくはなかった。
 しかし、1度決めたことをくつがえすことをしないラケシスの性格を、フィンはよく知っていた。
 家族一緒に暮らしたい、そしてたった一人の甥であるアレスの行方も確かめたい、ラケシスのこの2つの強い思いにフィンは反対することはできなかった。フィンもまた、同じ思いでいたからである。
 デルムッドはフィンがキュアンに従って一時レンスターに帰国している間にイザークで産まれた子である。その後、ラケシスは息子と2人で夫であり父親であるフィンのいるレンスターへと向かうつもりでいたのだが、突然の事態のために息子をエーディンに預けたまま、ラケシスは一人レンスターへと向かうことになったのであった。
 そのあとも、戦乱の最中ということもあってイザークへ行くことができず、フィンは息子の顔を見たことも抱いたこともなかった。
 離れて暮らすまだ見ぬわが子をいつも心に気にかけていた。
 そして義理の甥アレスについても、その父エルトシャンから生前自分の身に何かあった時は息子の力になって欲しいと直々に頼まれていた。
 そんな事情もあり、ラケシスと共に一緒に旅立ちたいと本心では思ってはいた。しかし、フィンはそれが出来なかった。
 フィンには家族の他に守るべき人物がいる。それはレンスター王子リーフである。
 フィンはリーフをレンスターから連れ出すことがどうしてもできなかった。
 帝国軍やフリージ軍がレンスターに攻め込んだこの混乱の中、一旦国を出てしまえばいつ戻ってこられるかわからない。いかなる理由があるにしろ、今レンスターを出るということは逃亡としか受け取れないだろう。王家の者が国外へ逃亡する、それは王家の者としての義務、そして国民を見捨ててしまったとみなされる。レンスター王家の生き残りであり、王家再興の希望であるリーフにそんな汚名を着せるわけにはいかない。
 フィンは自分の事情のために、リーフに祖国を捨てさせるわけにはいかなかったのである。
 苦悩の末、ラケシスは一人旅立つこととなったのであった。
「……ナンナは淋しいのか」
 フィンは自分では応えず、逆にナンナに訊く。
「んとね、おとうさまもにいさまもいるから、ナンナだいじょうぶなの」
 そう言ってナンナは笑いながらも、その小さな手でフィンの服にきゅっとしがみついた。
 馬鹿なことを訊いたとフィンは後悔した。
 強がってはいるけれど、夜中に何度も母を恋しがっては泣いたり、城内に野菜を届けに来る親子を見ては淋し気な瞳で見つめているのを、もちろんフィンは知っているのだ。
 母親を恋しく思わないはずがない。
「だいじょうぶだけど……、でもね、やっぱりおかあさまがいっしょだったらいいなぁっておもうの」
「……」
「だってね、ナンナ、ときどきおもうの。おかあさまがいたらもっとおとうさまはわらうのかなって」
「笑う?」
 黙って聞いていたフィンだったが、娘の言葉を不思議に思い、聞き返した。
「だって、おかあさまがいなくなってから、おとうさまはわらうのがね、すくなくなったよ?」
 一瞬息が止まった気がした。 
 母にそばにいて欲しいと思う気持ちがナンナ自身のためではなく、父を思ってのことだということに、フィンは驚いた。
「ナンナはね、おとうさまがだいすきだけど、わらっているおとうさまがいちばんすきなの」  昔から大声をあげて笑うようなことはなかったが、ラケシスが一緒の時はよく笑っていたと思う。
 笑顔を忘れるほど、彼女の存在が大きかったということか。
 そう思えば、彼女と一緒の時でなければ本当の笑顔はできないのかもしれない。
「おとうさま? どうかしたの?」
「いや、何でもない。心配かけて悪かったな。ナンナ、ラケシスが、お母様がいなくてもお前は笑っていてくれるかい?」
「ナンナね、おかあさまがいなくてもおとうさまがいっしょだからわらえるの。だからずぅっといっしょにいてね、おとうさま」
「わかった。約束しよう。ずっとナンナと一緒にいるよ」
「うん!」
 ナンナは嬉しそうに大きくうなずいた。
 やがてナンナは小さな口を大きく開けてあくびをし、目をこする。
「眠いのか?」
「だっておひるねのじかんだもん。おとうさまもいっしょにねよ……」
「一緒にか?」
「うん。それでね、みんなでおひるねするの。みんなでいっしょにねて、おかあさまのゆめをみるの。おかあさまはおひるねのじかんしってるから、おかあさまもおひるねしてるよ。でね、おかあさまもねてるからおなじゆめをみるかもしれないから、そしたら、ゆめのなかであえるのよ」
「夢の中で逢う、か……」
「そうなの。そしておかあさまにおうたうたってもらうの。このまえもね、うたってくれたの。だからこんどはおとうさまもいっしょにうたって……」
 だんだんと語尾が小さくなっていく。やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。
 腕の中のナンナはいつの間にかフィンの腕の中で気持ち良さそうに眠っていた。
 まだ幼い娘の寝顔。幼いとはいえ、やはり血を分けた娘である。安心して眠るその顔は最愛の人を思いおこさせる。
 逢いたい。
 夢でもいいから逢いたい。
 そう思うのは弱気になっている証拠だろうか。
 1年という時間。
 初めて言葉を交わし、再会するまで4年の歳月が流れていた。それを思えば1年などまだ短いだろう。
 離れていても、逢えない時間があっても、今もあざやかに彼女の姿を思い出すことができる。
 ナンナという愛する娘がいて、そしてリーフがいて、困難な中でもささやかな幸せがある。
 それでもやはり本当の笑顔は最愛のラケシスと一緒でいる時でしか出来ないと思う。
「早く逢いたいな」
 フィンは、眠る娘の髪を優しく撫でながら、小さくつぶやいた。

         Fin

ちょっとフリートーク

 当初の予定は『夢の中でラケシスと逢う』でした。が、いつのまにかフィンの笑顔が少なくなった理由について、になってしまいました。
 戦乱の中だからというせいもあるかもしれませんが、フィンの笑顔が少ない理由はやっぱり
ラケシスがいないというのが大きいと思います。
 それにしてもうちのナンナは相変わらずお父様っコですね。
 でもなんか健気で愛しいですvvv
 ナンナの台詞がまだ平仮名だけで読みにくいかと思います、すみません(^^;)