それはある日の午後のこと。
少し戦うことから離れ、穏やかな日々を過ごしていた時だった。
コンコン、コンコンコン。
普通とは違ったノックの音が聞こえてきた。
独特のこのノックの仕方は、自分が誰であるかを知らせるもの。
身を隠しながらの生活の中で、3人だけがわかるようにした決めごとである。
フィンは読んでいた本から視線をはずし、扉の方へと顔を向ける。
「入っていいぞ、ナンナ」
そう返事をした後、扉が静かに開けられる。その途端、甘い香りが扉の向こうから漂ってきた。
「クッキーが焼けました。お茶にしません? お父様」
「あぁ、そうか。ひと休みするか」
娘の言葉に目を細めて頷いた後、フィンは分厚い本にしおりを挟んで閉じた。
出来上がったばかりのいろいろな形のクッキーと白いティーカップとポットをトレイに乗せて、黄金の髪の少女が部屋に入ってくる。
その時、ふとフィンはナンナの向こうに別の女性が重なって見えた気がした。
同じようにトレイにクッキーを乗せて、挑戦するかのような意気込みで部屋に入ってきた一人の少女。
『今日のクッキーが焼けたわ! さぁ、食べて!』
まだお互いの想いが重なり合う少し前の事である。
負けず嫌いの少女は、何度もクッキー作りに挑戦しては失敗を繰り返していた。
そして、きっと他人は食べないであろう出来のクッキーを、自分は、いや自分だけが何度も食べたことが思い出された。
「……様、お父様」
自分を呼ぶ声にフィンはハッとする。
「あ、ああ、すまない」
謝る父親に、ナンナはクスッと小さく笑う。
「今、何を考えていらしたのかしら?」
「いや、ちょっとな」
「当ててみましょうか?」
ナンナの瞳がいたずらっぽく輝く。
「?」
「お母様のこと、考えていたでしょう?」
「!」
思わず立ち上がり、椅子が後ろへと倒れる。図星をさされ、フィンは驚いた。
「何故わかったのか、不思議そう」
ナンナはさらにクスクスと笑う。
そして慣れた手つきで、2つのカップにお茶を注ぐ。白い湯気とともに甘い香りが部屋に漂った。
倒れた椅子を元に戻し、読書用の机の前からソファに座り直したフィンの前に、ナンナはカップを静かに置く。
「御自分がどんな表情でいたのかわかっていらっしゃらないのね。お父様、ものすごーく優しい表情だったのよ。それはもう見ている者は恋でもしてしまいそうなくらいの優しいお顔。お母様のことを考えている時のお父様はいつもそう。気づいていなかった?」
娘の言葉に、父はほんの少し恥ずかしくなる。無意識に想いが顔に出ていたということだろうか。自分ではそんなつもりはまったくなかった。感情を表に出すなど、自分がまだまだ甘いと思ってしまう。
いや、それともそれは最愛の妻に似た愛娘の前でだけであろうか。
「わたし、そんなにお母様に似ているの?」
ナンナはフィンの隣に座り、父親譲りの青い瞳でフィンの顔をじっと見つめる。
「……そうだな。意志の強そうな瞳に、その口元、この黄金(きん)の髪も、よく似ている」
フィンはそっとナンナの髪に触れる。
「私のお母様ってどんな方なのかしら……」
思わずその言葉が口からこぼれる。
幼い頃に旅立ってしまった母親のことは、もうかすかにしか覚えていない。抱き締めてくれた時の甘い香りと優しい声で歌ってくれた子守り歌。顔はもう思い出せずにいた。
「聞きたいか?」
「聞きたい!」
話してくれるとは思っていなかったナンナは、フィンのその言葉に大きな声で頷いた。
幸い今は2人きりでリーフはここにはいない。やはり両親を亡くしているリーフと一緒の時に、生きている母親のことをは聞きづらいものがある。
もちろんリーフはナンナが母親の話を聞きたがったとしても気にはしないであろう。
しかしナンナは血のつながった家族がいるということを自慢するような感じがして、少なからずリーフに遠慮をしていた。そしてそれはフィンも同じだったようで、なるべく自分からはナンナに母親の事を多く語ろうとはしなかった。
「それで、お母様はどんな方なの?」
わくわくしながらナンナは話をせがむ。
「ノディオンの王女であった彼女は、気位が高いというか、プライドが高いというか、妙に気が強いところがあった。自分に出来ないことはない、といった勢いで何でも学ぼうと努力していた。王女として、礼法や軍学はしっかりと身につけていたし、そして誰もが不可能だと思っていたマスターナイトの称号も見事に取得した。頭の回転も早く、身分によって人を差別するようなこともなく、皆からも好かれた笑顔のかわいい女性(ひと)だ」
父が語る母の姿は、まさに非のうちどころのない女性である。
ナンナは小さくため息をつく。
そんな女性に、自分は似ているというのだろうか。姿は似ているかもしれないが、中身は母の方が断然すばらしい。
ナンナはそんな魅力ある母をうらやましく思う。
「しかし……」
フィンはナンナの気持ちには気づかずに話を進める。
「しかし?」
突然の否定形にナンナは驚く。
「彼女にはどうしてもできないことがあったのだ」
これまでの話から、母にいったい何ができなかったというのだろう。ナンナにはまったく想像がつかない。
「何ができなかったの?」
「料理だ」
「料理?」
ナンナは一瞬あっけにとられる。
どちらかというとナンナは料理が好きだった。最近になって父からいろいろと教わり、それが楽しい。
それに父の料理の腕は見事である。勝手な思い込みであったのかもしれないが、母の料理は父のそれよりも上だと思っていた。
母の苦手なものがあまりに意外で驚かずにはいられなかった。
フィンはナンナの作ったクッキーを1つ口に入れる。形といい、焼き具合といい、完璧である。自分が教えた通り、いや、それを基本にナンナ独自のアレンジが加えられている。
「特に菓子作りだけはどうにも苦手だった彼女は、こんなクッキーを作ることができなかった。お前よりもう少し上の年齢の時だったかな。私のクッキーを偶然食べた彼女が、その後クッキー作りに凝ったのは。しかしどういうわけか出来上がりは普通のクッキーとは違ものだったのだ」
「……どんな風に出来上がったの?」
なんとなく想像はつくけれど、ナンナは訊いてみる。
「なんというか、まぁ、歯ごたえが良すぎるというか、甘くないというか……。かと思えば、粉っぽくて、甘過ぎたり……。作る度にその味は違うもので……」
歯切れの悪いその言葉に、ナンナは想像していたものと同じで可笑しくなった。
「笑うのは失礼だぞ、ナンナ。彼女は一生懸命作っていたのだ。自分の力で美味しいクッキーを作ろうとしていたのだぞ」
「そしてお父様はお母様が作ったどんなクッキーでも『美味しい』っておっしゃいながら食べたのでしょう?」
その言葉にフィンは2、3度まばたきをし、そして曖昧な笑みを浮かべる。
確かにそう言いながら食べた憶えがある。その度に『また嘘をついて!今度こそフィンが本当に「美味しい」と言ってくれるクッキーを作るんだから!』『フィンよりも美味しいクッキーを作るんだから!』と意気込んでは調理場へと駆けていく。
気になって調理場を覗いてみては、『部屋で待ってて!』と追い出されたこともあった。
白い粉を鼻の頭につけながら、悪戦苦闘している彼女の姿はかわいいものだった。
負けず嫌いの彼女が作ったクッキー。
たとえ焦げて固くなっていても、理由はどうあれラケシスが自分のために作ってくれたクッキーが美味しくない訳がない。食べた後に胃の調子が悪くなったとしても、それはそれでいいのである。
「私がどんなに美味しいクッキーを作っても、やっぱりお母様にはかなわないのね。お父様が1番お好きなのは、黒くて固いお母様のクッキーなんだわ」
少し拗ねたように、ナンナは頬をふくらます。
父は気づいていただろうか。
母が一生懸命作った理由は、好きな人に自分が作った美味しいクッキーを食べて欲しかったから。
父に勝ちたいという、ただの負けず嫌いが理由で一生懸命つくったのではないはずである。父に誰よりも1番美味しいクッキーを作ってあげたかったのだ。そして美味しいと言ってくれる時の笑顔が見たかったらではないだろうか。
料理が苦手な母が一生懸命作る姿と、そして出来たクッキーを何ごともなかったように頬張る父の姿。
2人の思い出が色褪せずにナンナに伝わってくる。
「お前の作ったクッキーも美味しいよ」
そう言ってナンナの髪を優しく撫でながら、フィンはナンナのクッキーをまたひとつ口に入れた。
「ねぇ、お父様。それでお母様はちゃんと誰が食べても美味しいクッキーを作れるようになったの?」
「それは……、会った時に作ってもらうといい」
フィンはちょっとだけ困ったような表情でナンナに告げる。
それを見ると母のクッキーがどんなものだったのか察しがつく。
それでも、早く母の作ったクッキーをみんなで食べれる日が来るといい、とナンナは思わずにはいられなかった。
そんなことを考えていると。
バタバタバタ。
誰かが廊下を駆けてくる音が聞こえてきた。そしてそれは部屋の前でぴたりと止まる。
コンコンコン、コン。
やはり独特のリズムのあるノックが聞こえてくる。
フィンとナンナはお互いに顔を見合わせ、小さく笑う。
「フィン、入っていい?」
そう言いながらも返事を待たずに部屋に入ってきたのはリーフだった。
「あ、やっぱり、ナンナのクッキーだ! いい匂いがしたからそうだと思ったんだ」
テーブルの上を見るなり、リーフは瞳を輝かせる。
「食べてもいい?」
「ええ。どうぞ」
ナンナがそう言った途端に、リーフはクッキーを頬張る。
「やっぱりナンナのクッキーが1番美味しいや」
本当に美味しそうに食べるリーフの笑顔。ナンナはそれを見てなんだか嬉しくなった。
Fin
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