まだ朝もやが晴れない中、一人の青年が東に向けて馬を走らせていた。
まばゆい金色の髪をなびかせ、馬をあやつるその青年は、アグストリア諸公連合のひとつノディオン王国の王エルトシャンであった。
彼は国境近くに建つエバンス城を目指していた。
情報によると、エバンス城はヴェルダン所有の城であったはずなのに、今はグランベル管理になっているという。
思い掛けない突然の状況に、アグストリア内の一部では、グランベルがアグストリア侵攻の拠点としてエバンス城を制圧したのではないかとささやかれていた。
今、グランベルの主力部隊はイザークに遠征中なのだが、それが終了したなら今度はアグストリアにむかってくるのではないかともいわれている。
エルトシャン自身はそのようには考えていなかったのだが、王として、広まっていく根拠のない噂を止めるためにも、真偽のほどを確かめなければならなかった。
運の良いことに、エバンス城主として入城した者は、昔なじみの青年だった。
その青年−シアルフィのシグルド公子−なら、回りくどい会見の申し出などをせずとも直接話ができる。
とにかく、話を聞くなら早い方が良いと思ったエルトシャンは、朝早くから供もつけずに出発したのだった。
◇ ◇ ◇
「エルトシャン!」
扉が開かれたかと思うと、すぐに驚きの声が聞こえてきた。
「シグルド、久しぶりだな」
通されていた来賓用の部屋のソファに座っていたエルトシャンが立ち上がる。
門番にノディオンの紋章を見せると、すんなり城の奥へと通され、それから半刻も経たずにシグルドが驚いた顔で部屋に入ってきたのだった。
「本当に君だったのか。久しぶりだな、よく来てくれた」
シグルドは笑顔でエルトシャンに右手を差し出した。
その仕種に、エルトシャンは一瞬躊躇する。
「エバンス城を制圧するとは、どういうわけだ? まさかアグストリアに侵攻する気ではないだろうな?」
数年ぶりに会う友に、挨拶らしい挨拶もせず、エルトシャンは本題をつきつける。
「アグストリアに?! そんなことがあるわけないだろう!」
エルトシャンの不しつけで思い掛けない質問に怒りを覚えることなく、シグルドはただ驚きの声をあげる。
その様子に、エルトシャンはやはり例の噂が真ではないと確信する。昔から嘘や人を疑うことを嫌っていたシグルドが、自分に真実を隠すはずがない。
もっともエルトシャンにしてみれば、たとえシグルドが隠し事をしたとしても、士官学校時代に寝食をともにし、親しくしていただけに、見破るのはたやすいことではあったのだが。
「いや、すまない。本当にそう思っていたわけではないのだ。一応ノディオン王としてお前の口から聞かなくてはと思っての事だ」
エルトシャンは謝罪の言葉を述べると、シグルドの右手を取り握手を交わした。
「それはそうと、本当のところはどうなんだ? 一体何があったのだ?」
ソファに座り直したエルトシャンは、向い合せに腰掛けるシグルドに訊く。
「ユングヴィのエーディン公女が、ヴェルダンに連れ去られたのだ。公女の解放を何度も求めているのだが、一向に返事がない。彼女は大切な幼馴染みだ。ヴェルダンがどうしても公女を返さないというのなら、一戦交えるよりほかに仕方がないと思っている」
「なるほど、そういうことか。しかし、今エバンス城をあければ、今度はアグストリアの諸公が、あらぬ野心を起こしかねんな……。わかった、おまえの背後は、俺が守ろう」
「すまない、エルトシャン。君にまで迷惑をかけるつもりはなかったのだが、君がいてくれると心強いよ」
「礼には及ばない。気にするな」
そう言いながら、エルトシャンは小さく笑みを浮かべた。
「エルトが来ているって本当か?!」
突然扉が開いたかと思うと、先ほどシグルドが入って来た時と同じように、驚きの声が耳に飛び込んでくる。
「相変わらずだな、キュアン」
「本当にエルトじゃないか! お前、少しふけたんじゃないか? いくら一国の王とはいえ、その年齢(とし)で若々しさがないぞ」
キュアンは久しぶりに顔を合わせた友に、楽しそうに笑いながら言う。
「言ってくれるじゃないか、キュアン。お前こそ、レンスター王太子の身分で気楽に出歩いていていいのか? それともあまりの放蕩に王太子を廃されたか?」
キュアンの言葉にエルトシャンも負けじと言い返す。
「おい、おい、そのへんにしておけよ」
シグルドはそう言いながらも、このやりとりを2人と同じように楽しんでいるふうだった。
「そういうシグルドはどうなんだ? いまだに一人身か? いい加減落ち着いたらどうだ?」
「そうだよな。俺達には子供までいるっていうのに、シグルドはいつまでたっても話のひとつも出ない。エスリンもいつも言っているぞ。『兄様はいつまでたってもだらしないから、お嫁さんの一人も来ない』ってな」
エルトシャンとキュアンの笑い声が部屋の中に広がる。
「そういうんだったら、エルト、お前の義妹(いもうと)をくれないか? シアルフィと縁もできるし、いいと思わないか?」
「馬鹿言うな。お前みたいな男に大事な義妹を任せられるか」
笑いを見せながらも、エルトシャンの口調にほんの少し力が入る。
「だったらうちのアルテナが大人になるまで待つか? まぁ、20年は先の話になるけどな」
「20年も待っていられるか。そうだな、俺は近々ものすごい美女と出会うんだ。そして彼女は俺の妻になる。どうだ、うやましいか」
「勝手に言っていろ」
再び笑い声が響いた。
和やかで楽しいやりとりが続く。
卒業してからかなり経つのに、まるで学生時代に戻ったような楽しいひとときだった。
やがてエルトシャンはふっと表情を引き締めた。
「そろそろ行くか」
「もうか? もっとゆっくりしていけないのか?」
「せっかく来たのだ、夕食までいられないのか?」
帰り支度をしようとするエルトシャンに、シグルドとキュアンが慌てて引き止める。
「そうしたいのはやまやまだが、そうも言っていられないのだ。残念だが、今日のところは戻らねばならない」
「そうか、残念だな。また近いうちに会おう」
「戦いが終わったら、また会おう。昔のように、3人で酒でもくみかわそう」
「そうだな。楽しみにしているぞ、シグルド、キュアン。武運を祈っている」
3人はしっかりと握手を交わし、再会を誓いあった。
◇ ◇ ◇
エルトシャンは、門まで見送ると言ったシグルドとキュアンの申し出を断わり、一人門へと向かっていた。
回廊を抜け、あと少し直進すると門というところに来た時だった。
「エルトシャン様!」
急に背後から声がかけられた。小走りに近づいてきたのは、青い髪の少年。その顔に、エルトシャンは見覚えがあった。
「君は、確かキュアンのところにいた……」
「はい。レンスターの騎士見習いフィンと申します」
フィンは丁寧に頭を下げ、挨拶をする。
「そうだ、フィンだったな。ラケシスからよくその名を聞いている」
「ラケシス様から?」
義妹の名を出した途端、目の前の少年の頬がかすかに赤らむのを、エルトシャンは見逃さなかった。
「あ、あのエルトシャン様」
「なんだ?」
「レンスターを出発してからエバンス城に来る間に、アグストリアについてあまり良いとはいえない噂を耳にしました。ノディオンでは何か起こっていないでしょうか? 差し出がましいとは思いますが、気になってしまって……」
フィンの言うその噂は、エルトシャンにも心当たりがあった。
アグストリアを統治するアグスティ国王のイムカとその息子シャガールとの間に相入れぬものがあり、シャガールが不穏な動きをみせているという。
諸国との和平を望むイムカ王に対し、シャガールは野心家である。二人の対立は、その結果によってはノディオンも大きく関わってくるはずである。
しかし水面下はどうであれ、今はまだも表立った動きはなかった。
「いや、今のところは何も問題はない。ノディオンにも危険なことはない」
「そうですか、よかった」
エルトシャンの言葉にフィンはほっとしたような笑みを見せる。
「あの……」
「まだ何かあるのか?」
「あの、ラケシス様はお元気でしょうか?」
少しうつむきながらフィンは訊いた。今度は先程以上に頬が赤らんでいる。フィンがラケシスに対してどう思っているのかが見て取れる。
とはいえ、エルトシャンはあえてそれを問いただしたりしようとは思わなかった。
「ああ、ラケシスなら元気があまるくらいに元気にしているぞ。最近は特に時間をもてあましているのか、供のものと剣の練習ばかりしているぞ。そういえば、この間縁談の申し込みがあってな……」
「ラ、ラケシス様に縁談ですか?!」
よほど驚いたのか、エルトシャンも驚く程にフィンが叫んだ。
「そう驚くこともあるまい。あれでもノディオンの王妹だ。ノディオンと縁を結びたいという申し出は少なくはないぞ」
「ノディオンと縁……。そうですか、ラケシス様に縁談が……」
フィンの表情に落胆の色が浮かぶ。
一介の見習い騎士の身分では、ノディオンと縁を結ぶというには無理がある。それをフィンはわかっているのだろう。
そんな思いとそしてラケシスへの想いを隠しきれない様子に、まだまだ若いな、と思ってしまった。
「心配することはない。ラケシスも男を見る目は高いらしく、今だに首を縦に振るような男はいないらしい」
希望を持たせるつもりはないのだが、ついそう教えてあげたくなる。
「そ、そうなのですか?」
「自分の目で確かめてみるか? ここからノディオンはそう遠くはない。ユングヴィ公女を取り返したら、レンスターに帰国する前に君もノディオンに来てみるといい。ラケシスも喜ぶだろう」
「ありがとうございます! ラケシス様によろしくお伝えください」
深々と頭を下げるフィンを見て、エルトシャンは口元に軽く笑みが浮かべた。
ラケシスと同じ年頃だろうか。
直接言葉を交わすのは今回が初めてであった。素直で真面目そうな好印象の少年である。
エルトシャンは最愛の義妹の顔を思い浮かべた。
こういう男であれば、彼女を幸福(しあわせ)にできるのであろうか。
できることなら、彼女には自分のように政略結婚などさせたくはない。
何の思惑もない純粋な想いだけを抱いた幸福を見つけて欲しいと思う。
彼女の笑顔が絶えることのない幸福を。
できることなら自分の手でその幸福を与えたかったと思う。
しかしそれを叶えることは、この先永遠にないと思われた。自分にできるのは、彼女の幸福を願うことしかない。
エルトシャンは、ラケシスを幸福に導くその可能性を持つ目の前の少年がうらやましく思った。
ラケシスを幸福にできるのは自分ではないとわかっているのだが、何故か今、それが痛切に感じられる。
目の前の少年のせいだろうか。
悪意のない笑顔に、表現のしようのない何かが感じられた。
「では、また会おう、フィン」
かろうじてそう言うと、エルトシャンは門へと向かっていった。
乗ってきた馬にまたがり、そして走らせる。
今はまだ他の誰よりも自分の帰りを待ちわびているラケシスのいるノディオンへ向かって。
Fin
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