このまま『今』が続けばいい。
過ぎ去った過去を忘れて。
とらわれた未来などに向かわずに。
この『今』のまま、ずっと穏やかな時間(とき)を過ごせたらいいのに……。
◇ ◇ ◇
トラキア軍との戦いに破れたレンスター軍。
レンスター王カルフは城に残ったものの、その孫である王子リーフを中心に、幾人かの者達はレンスター城を命からがらなんとか脱出することができた。紅く燃え盛る戦火を遠くから眺めながら、その不本意な脱出に絶望する者は多かった。しかし、人々は遺児リーフに希望を託した。まだ幼いリーフが成長を遂げたあかつきには、レンスター復興を成し遂げて欲しい、と。
亡くなったレンスター王子キュアンに仕えていた忠臣フィンは、今はキュアンの息子であるリーフの守役として仕えていた。
レンスター城脱出後、大人数では目立つと考えたフィンは、あえて護衛として一緒に脱出して来た者達とは別行動を取ることにした。
いつの日か成長したリーフの元に集えるように、無茶はせず生き延びるようにと言い渡し、それぞれ別れることとなった。
そして、フィンはリーフをその腕に抱き、妻ラケシスと愛娘ナンナを連れて、アルスター領内のある街に逃げ込んだ。
その街には、かつてレンスター王に忠義を捧げた騎士が、老齢のために職を辞した後に住まいを構えていたのだった。
その老騎士にフィンはいろいろと教えてもらったことがあった。
幼い頃に両親を亡くしていたフィンを、父親のように厳しく指導し、そして可愛がってくれた人物であった。
今現在はその街で小さな武器屋を営んでいる。
老騎士は思い掛けないフィン達の訪れに驚きながらも、快く受け入れてくれた。
そして、遠く離れていた息子夫婦が戻ってきたことにして、一緒に住むことにしてくれたのだった。
◇ ◇ ◇
「あなた、食事の用意ができました」
街外れの小さな一軒家。決して大きくはない部屋に、黄金(きん)色の長い髪を首の後ろにひとつにまとめた女性……ラケシスが入ってきた。
部屋の中にいる青い髪の青年……フィンは何も答えずにいる。
「あなた……?」
返事がないのを不審に思いながら、ラケシスはフィンに近づく。
「……今、眠ったところなんだ」
フィンは小さな声でそうつぶやく。
二人の視線の先には、大人用のベッドに並んで眠っている二人の幼子がいる。
一人は焦茶の髪の男の子。もう一人は母親譲りの黄金の髪の女の子。小さな女の子の右手は、男の子の服の端をしっかりと握り締めていた。
「ナンナももうすぐ2歳になるわね」
ラケシスは寝ている娘のぷっくりとした柔らかい頬に手を延ばし、そっと撫でる。
「そうだな……。もう2年か……」
レンスター城落城の少し前に、2人の間に生まれたナンナ。娘の成長とともに落城からどれくらい経ったのかがわかる。
「2人ともどんどん大きくなっていくわね」
ラケシスは、もうひとつのベッドに座っているフィンの横に腰掛け、そっと彼の肩にもたれかかる。
フィンは何も言わずに黙って子供達の顔を眺めていた。
「このままここでこうしていられるといいのにね」
そうラケシスがつぶやいた時、急にフィンが彼女の肩を掴み、ぐいっと引き寄せた。
「フィ……?!」
驚く間もなく、唇が重ねられる。
それは一方的なものだった。気持ちを伝えるものでもなく、相手の意志を無視し、ただ無理矢理に重ねていた。
突然の夫の行動に戸惑う。いつものフィンであれば、こんなふうにする筈がなかった。
何かあったのだろうかと、内心心配しながらもラケシスはあらがうことはしなかった。
強引に何度も唇を重ねつつ、フィンはそのままラケシスをベッドに押し倒した。
ラケシスの髪を縛っていたリボンがほどけ、黄金の髪が白いシーツの上に広がる。
それに構うことなく、フィンは無言で、ラケシスを壊れるかと思う程にきつく抱きしめた。
「フィ、フィン。苦しい……」
さすがに息ができない程に抱き締められていたラケシスが訴えた。
その途端、ふっと抱き締める力が弱くなった。
「……すまない」
何故かフィンは素直に謝罪した。しかしラケシスからは離れることなく、彼女のやわらかな胸の中に顔を埋めた。
「どうしたの? 何かあったの?」
ラケシスは仰向けのまま、フィンの髪をそっと撫でながら聞く。
「フィン?」
静かに優しく名を呼んでみる。
「みっともないところをお見せしてしまいました」
そう言うと、フィンはゆっくりとラケシスから離れて身を起こし、ベッドの端に座り直した。
「本当にどうしたの? あなたが私に敬語を使うなんんて何年ぶりかしら? あの頃の恋人気分に戻りたかったのかしら?」
クスッと小さく笑いながら、ラケシスも身を起こしてフィンの隣に座り直した。
そんな冗談めかした言葉にも、フィンは苦笑すら見せずに表情をなくしていた。
しばらくフィンは無言のままだった。ラケシスも無理に聞こうとはせずに、フィンが自分から話し出すのを待った。
やがて、ひとつ小さなため息をついた後、フィンは口を開いた。
「……自分が何をしなければならないのかわからないんだ」
「フィン?」
「本当はやるべきことがたくさんある筈なのに、私は何もできずにいる。ここでのんびりと過ごしていい筈がないのだ。キュアン様やカルフ王、そしてレンスターのために命を落とした者達のために、私にはしなければならないことがあるとわかっているのに、何から手をつければいいのかわからないんだ」
フィンは肩を落としてうつむく。
「何かをしなければならないとわかっているのに、そのくせ、今のままのこの生活がずっと続けばいいと思っている。貴女とナンナとリーフ様と、ひとつの家族として平凡ながらもしあわせなこの生活が続けば、と」
伏せた瞳からは、今にも涙が流れそうだった。
そんなフィンの弱気な様子を見るのは、ラケシスにとって初めてのことだった。
「フィン」
ラケシスはフィンの頭を抱きかかえるように自分の胸にひきよせ、そしてそっと額に口づけた。
「大丈夫。あなたはちゃんと為すべきことしているわ」
「ラケシス?」
「今あなたがしなければならないことは、こうして4人で暮らすことなのよ」
「違う。私だけがこんなのうのうと暮らしていい筈がないんだ!」
苦し気にフィンは言い放つ。
「落ち着いて、フィン」
ラケシスはフィンの髪をゆっくりと撫でながら、彼を落ち着かせる。
「いい? あなたにとって、いえ、私達にとって今一番大事なことは、リーフ様を立派に育てることよ」
「リーフ様を育てる……」
フィンはラケシスの言葉をくり返す。
「そうよ。私達はリーフ様が立派なレンスター王になるように導かなければならないわ。それが私達に課せられたこと」
「……」
「レンスターを思う誰もがリーフ様に期待しているわ。いつかリーフ様がレンスター王となることを望んでいる。それなのに、成長した時、こんなリーフ様じゃ王は任せられない、なんて言われたくはないでしょう? 私達は一番大切でそして重要なことを任されているのよ。ただ守るだけじゃなく、いろいろなことを教えてあげなければいけない。レンスターについてはもちろんだけど、愛情も思いやりも大切よ。本当ならキュアン様やエスリンから与えられるはずの両親の愛情、そして役目も私達が果たさなくてはいけない。だからこうして家族のように暮らしているのは間違っていないのよ」
フィンは伏せた瞳をあけ、ラケシスを見つめた。
優し気な、あたたかい微笑みが向けられる。
「ねぇ、フィン。出口のない迷路はないのよ」
「迷路?」
「私達は先の見えない迷路に迷い込んだと思わない? 正しい道が見えず、行く手に何があるかもわからず、でも先を進むしかない。でもどんなに迷っても、行き着くところはひとつ。行き着く先を見失わない限り、進んでいないようでもいつかはたどり着くことができるわ。だから一人で先を急ごうとしないで。焦る気持ちはわかるけど、今はできることからがんばりましょう。ね、一緒にがんばっていきましょう」
「ラケシス……」
「あなたは父親なのよ。もっとデンッと構えていてくれなくちゃ。今はナンナだけでなく、リーフ様……いえ、リーフも私達の子供。こんな頼りない父親じゃ、子供達は自慢できないわ。それに私の愛しているフィンがしっかりしていてくれなきゃ、私もイヤよ」
「そうか、そうだな。私がしっかりしていなければならないんだな」
フィンは何かを吹っ切ったように微笑んだ。
今はまだこのままでいていいのだ。
このしあわせが私達のためであり、リーフ様のためでもあるのだ。
焦らずに進んで行こう。
リーフ様がレンスター王となるその日に向かって。
「ありがとう、ラケシス」
「ふふ、どういたしまして」
ラケシスはにっこりと微笑んだ。
「貴女が私の妻で良かった」
そう言うと、フィンはラケシスを抱き寄せて、そっと優しく口づけた。
Fin
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