白拍子、磯の禅師の娘。義経が初めて会ったのは、1184年、木曽義仲を討伐し京都に凱旋、そのとき白拍子の静を観たと思われます。
その後、義経は、平家討伐で勝利を得、京に凱旋。六条堀川の館で愛妾として、静を住まわせていました。
1185年11月、義経が、源頼朝の反感を買い、京都を落ちることになったとき、吉野の山(女人禁制)で離ればなれとなります。11月17日、静は北条時政に捕らえられ、翌年1186年3月には、鎌倉八幡宮、頼朝・北条政子の面前において、義経を慕う舞を踊ったことは、有名。(このときの銅拍子は畠山重忠、鼓は工藤祐経が担当)
また、静は子を宿していましたが、男児であったため、政子の命乞いもむなしく、由比ヶ浜の海に沈められたとのことです。
その後の消息は定かでありませんが、埼玉県栗橋町には、義経を追って奥州に向かう途中に義経の討死を知り、1189年9月15日に、あとを追うように病死したとあります。
写真:静の墓
栗橋駅のすぐ近くに、ひっそりと佇んでいます。敷地内には、「静桜」が植えられています。その桜の傍らに、写真のような石が添えられていました。
写真:静桜石
写真:直実像(熊谷駅)
熊谷直貞の子、幼名は弓矢丸。源義朝に従い、保元の乱・平治の乱に加わり、後に頼朝に仕えています。「日本一の剛の者」と称されていたといいます。
平家討伐の一ノ谷の合戦では、自分の息子と年端の変わらない平敦盛(1169生まれ・笛の名手)をやむを得ず討ったことでも有名で、後に、そのことへの苦悩や、所領争いの敗北などが原因で仏門に入ります。法然上人の弟子となり、法力房蓮生と称しました。
晩年、もとの熊谷の居館に蓮生庵を建て、これが江戸時代に『蓮生山熊谷寺(ゆうこくじ)』となりました。
現存する本堂は、大正4年に竣工されたものです。熊谷「八木橋百貨店」の北側に位置しています。
写真:熊谷寺(ゆうこくじ)
写真:愛馬を担ぐ重忠像
秩父庄司重能の次男として、川本町畠山に誕生。幼名は氏王丸。「剛勇にして文武両道」の人物と伝えられています。
1180年、再起を計ろうとする頼朝に仕え、宇治川・一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦に参戦し、数々の功績を挙げました。これらの戦いにおいて、剛勇さを表したいくつかの言い伝えが残っています。
たとえば、
・宇治川の戦いにおいて、逆巻く濁流の中を、大串重親を引きずりながら渡った。(平家物語)
・一ノ谷「鵯越えの逆落とし」のときには、愛馬「三日月」を背負い、椎の木を杖にして降りた。
・鎌倉永福寺の池石を自在に持ち運んだ。(吾妻鏡)
など。怪力の度合いが窺い知れます。
頼朝の死後、北条時政に謀られて、横浜二俣川の地点で義時軍と対戦、健闘むなしく討死し次男重秀も自害となります。重忠42歳でした。(鶴ヶ峰合戦)
川本町には、重忠公史跡公園があり、公園内に重忠主従六基の5輪塔があります。また近くには、生湯の井戸や重忠ゆかりの鶯の瀬などもあります。
写真:重忠公史跡公園
3月末、公園の周りには桜が咲き始めていました。
写真:重忠主従六基の墓
また、比企郡嵐山町には、重忠が住んでいたといわれている菅谷館(跡)があり、現在国指定遺跡となっています。
写真:菅谷館跡
4月末、本丸付近は、浅緑と深緑の調和が静寂な雰囲気を醸し出しており、搦め手(からめて)門付近には山吹の花が、史跡内にはツツジが鮮やかに咲いていました。
秩父氏の流れをくむ河越重隆を祖とし、重頼はその孫にあたります。
源頼朝の計らいにより、河越重頼の娘は義経の本妻となります。これは、重頼の妻の母(比企の尼)が、頼朝の乳母であるというつながりから選ばれたもので、義経の京での勢力増大をとどめるための政略結婚とされたものでした。
義経が衣川で討たれた後は、義経縁者として所領は没収されますが、重頼の妻が頼朝の子頼家の乳母だったことが幸いして、館は室町時代頃まで栄えたといいます。
その河越氏の居館跡地は川越市上戸にあり、常楽寺(持仏堂が発展したもの)が、その痕跡を残しています。
写真:河越館跡(常楽寺)
幾本もの梅の香りが、清らかで落ち着いた雰囲気を醸し出していました。
旭将軍として名高い人物です。
源義賢(よしかた)の次男として生まれました。その父義賢が大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)で討たれた後、2歳の義仲(駒王丸)は信濃・木曾へ移り住みます。
その後、義仲は以仁王の令旨を受け挙兵、倶利伽羅峠で平氏軍を破り、入京を果たします。
1184年には、征夷大将軍にまで上り詰めますが、最期は源頼朝が送った範頼・義経軍に攻められ、近江国粟津で討たれてしまいました。享年31歳といわれています。
その義仲が生まれたとき、産湯として利用したとされる清水が、嵐山町の鎌形八幡神社の中にあります。
写真:鎌形八幡神社
鎌形神社は、昔、武門・武将の神として仰がれていたようです。境内を進むと、ひっそりと「木曾義仲産湯の清水」がありました。
写真:「木曾義仲産湯の清水」
清らかで澄んだ水は、人間の善・悪を超越した存在を醸し、まさに神聖な感じさえしました。
また、鎌形神社から約1kmほど離れたところに、義仲の父義賢の居館である大蔵館跡があります。
大蔵館は、大蔵神社を中心に、かつては東西170m〜200m、南北220mという大きさであったといわれています。
写真:大蔵神社
大蔵館跡の周辺には、都幾川(ときかわ)が囲むように、穏やかに流れています。
〜埼玉県比企郡嵐山町には、義賢・義仲・義高(義仲の嫡子)三代にまつわる伝説が多く残されています。
佐藤継信・忠信
福島県飯坂温泉には、義経の家臣である佐藤継信・忠信兄弟およびその一族の菩提寺である、医王寺があります。
兄の継信は、屋島の戦いの際に、身をもって義経の盾となり、命を落としたと言われています。弟の忠信は、義経が京を逃れる際、吉野の里で義経の鎧甲を身にまといて追跡の目を欺き、最期は自殺したと言われています。『股肱(ここう)の臣(おみ)』として、後世にまで語り継がれています。
医王寺境内にある宝物殿には、弁慶の『笈(おい)』、直筆の『下馬札』や義経着用の直垂などが飾られていました。
写真:医王寺
また、この地には、元禄時代に松尾芭蕉も訪れており、佐藤兄弟を偲んで次のような句を詠んでいます。
『笈も太刀も 五月に飾れ 紙のぼり』
医王寺の北には、父の佐藤基治が城主を務めた大鳥城の跡地があり、医王寺周辺を眼下に見渡すことができます。
源 範頼(みなもと のりより)
埼玉県北本市石戸宿の東光寺境内には、日本五大桜の1つと言われる、蒲桜(かばさくら)があります。
国の天然記念物に指定されており、エドヒガンザクラとヤマザクラの交配種と言われています。
蒲桜の名称の由来は、源範頼(蒲冠者と呼ばれていた)が、この地に縁があることから名付けられています。範頼は、義経の異母兄弟であり、源平の合戦では義経軍とともに戦っています。
写真:蒲桜
長い歳月を経て今も絢爛に咲く様子とは対照的な、白くたおやかな花びらでした。
また、荒川を隔てた吉見方面にも、範頼が住んでいたとされる居館跡が存在します。
吉見町御所という地名を持つ場所に、岩殿山息障院(そくしょういん)があり、その境内一帯が、居館跡とされています。
写真:息障院入口(左)と息障院(右)
通りから奥まった、閑静な所にありました。入口には梅が、境内には2本の松の木が寄り添うように立っていました。