産經新聞の掲載記事


2009年(平成21年)6月20日(金曜日)


[文化欄]


 模型飛行機を両手で高く掲げ、空を見上げる少年。東京都立川市のJR立川駅北ロデッキにたたずむ銅板製の人形だ。足元には飛行機の翼をイメージしたベンチ。駅前を行き交う人々の脇で、少年は大空を自由に羽ばたく日を夢見ている.
 地元のロータリークラブの依頼で私が人形を製作し、「風に向かつて」のタイトルで2001年に設置された。少年が手にしている飛行旅は、1931年に世界初の太平洋無着陸横断飛行を成功させた「ミス・ビードル号」がモデルだ。


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 地元の歴史を後世に

 2人の米国人飛行家が乗った同機は近くの立川飛行場から青森県三沢市の淋代海岸に飛び、そこから米本土に向かった。銅人形の製作にあたり、私は地元でも知る人の少ないこの事実を地域の記憶として後世に伝える装置にしたいと考えた。
 立川市で銅板造形の工房を主宰する私は、30年ほど前から全国の駅前や道路沿い、小中学校などに設置される銅人形の製作を手がけてきた。依頼主は行政の街づくり担当者や建築家のほか、ロータリークラブや青年団、市民の人たち。製作した数は小品を入れると300体以上、設置場所は北海道から九州まで40市町村ほどになる。
最初に製作したのは、埼玉県川□市のJR川□駅前に設置された「ドンキホーテの時計台」だった。駅前の再開発を担当していた知り合いの建築家を通じ、「鋳物の街」川□の活性化につながるような造形物の製作を依頼されたのだ。
 当時29歳の払は川口に日参し、地元の人たちと街づくりについて議論を重ねた。出来上がった作品は、馬に乗った高さ5メートルほどのドンキホ−テ像。鉄と金属によるものづくりの尊さを再認識し、街づくりという困難に立ち向かおうとする人々の思いを刻み二んだ。
 続いて、滋賀県の琵琶湖のほとりに高さ7メートルのガリバー傀を設置する話が持ち込まれた。立川市の工房で製作した部品を現地に運び、帽子のツバに片手をあてて琵琶湖を見下ろす像が完成するまでに2年かかった。


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 人生決めた「考える牛」

 ガリバー像の頻出を始めた33歳のとき、スベインを1力月かけて旅行した。その際、バルセロナの街角で見た「考える牛」のブロンズ像がその後の払の人生を決めた。ロダンの「考える人」のように、座ってアゴを手に載せた牛の像。そこに漂うユーモアとアイロニーに、旅人である私の心はなこんだ。そして日本の街角にもこういうものがあるべきだという確信を待ち、白分かその世界を追究していこうと決心したのだった。
 私は20代前半のころから、高さ40センチくらいの銅人形をよく作っていた。
彫刻でも彫金でもない「ホビー」とでもいうべきものを作るのが楽しかったのだ。最初に作ったのは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を題材にした音楽家の像だった。
 街角に設置する銅人形の製作を自分の道と思い定めころ、ガリバー像のことを知った地元の立川市から、市制50年を記念するモニュメント製作の依頼が寄せられた。私は初心に帰って「セロ弾きのゴーシュ」の像を作ることにした。
 立川市には以前はケヤキの木が多く生えていたが、伐採で少なくなってしまった。ケヤキの切り株の上に音楽家を配し、傍らには立川市のシンボルであるカワセミ。「大きなケヤ牛とカツセミとセロ弾き」と題する高さ5メートルほどの像は市内の公民館に設置された。
 
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 全国から製作依頼

 この後、作品が知られるにつれ、故郷の大分県や北海道、静岡県など全国から依頼が寄せられるようになった。
 98年には、埼玉県行田市の商店街から依頼されたモニュメントが完成。
国道125号の電線類地中化工事に合わせ、歩道上に39休の子供の銅人形を設置した。羽根つきやこま回し、たこ揚げなどの昔の遊びに興じる和服姿の子供たち。 その街に住む人々の思いを私なりに受け止めて作品に込める。そうして出末上がった銅人形が街角にあることによって、路傍に花が咲いたような情緒のある空間がうまれる。アートの力で地域社会に潤いをもたらす作品を今後も作り続けていきたい。


(あかがわ・まさよし=銅仮造形家)