Liner Notes



MICO is POPS QUEEN



M01. ヴァケイション M02. 子供ぢゃないの M03. カモンダンス 〜 ルイジアナママ 〜 ハローメリル 〜 ナポリは恋人 〜 月影のレナート 〜 カッコイイツイスト M04. ひとつぶの真珠 M05. 想い出の冬休み M06. 悲しき片思い M07. リトルミスロンリー 〜 夢のスイートホーム M08. 渚のデート M09. 悲しきハート M10. 別離 WAKARE M11. 砂に消えた涙 M12. 涙のドライブ 〜 渚のうわさ 〜 枯葉のうわさ M13. 素敵な16才 M14. ワンボーイ M15. 私のベイビー M16. スマイル



ポップス女王の証明
MICO IS POPS QUEEN(ライナーノーツより)
高橋克彦(直木賞作家)

このCDは近頃やたらと目につくオールデイーズの復刻ではない。 現在のミコちゃんがライブで展開している60年代ポップスを、臨場感豊かに最近の音源で再現したものだ。 当時とはだいぶ編曲が異なるせいで、受ける印象も相当に違う。 その意味では青春をそのままに思い出す道具とはならないかも知れないが、解説を書く私にすればありがたい。 このCDを購入して、この解説に目を通している人はミコちゃんの凄さを十分に承知しているはずだ、と分かっているからだ。 ただの復刻盤であれば、まずその点からくどくどと書き連ねないといけない。 60年代ポップスを面白がって聞く若者たちが増えている。 彼らはまるで古い資料に目を通すような感覚で中古レコードを漁り、今の自分たちに合った曲を発掘しては喜んでいる。 それがいけないとは言わないが、その目で眺められるとミコちゃんも、 中尾ミエも、園まりも、九重佑三子も、田代みどりも、梅木マリも木の実ナナも、すべて同列で扱われることになる。 ここに挙げたのは私も好きな歌手たちだから心情的には許せるにしても、やはりとんでもない勘違いと言うしかない。 当時のヒットチャートのベスト20の下位に一、二度顔を出した程度の梅木マリや木の実ナナとミコちゃんとでは天と地ほどに掛け離れている。 当時ミコちゃんの後援会に所属して盛岡支部長という要職にあった私にとっては、まことにゆゆしき問題なのである。 だから若い人たちも手にする可能性のある復刻CDであれば、 そこからじゅんじゅんに説いて、いかにミコちゃんが六十年代の象徴的存在であったかを示す書き方にならざるを得ない。 でなければ悪しき誤解がいつまでも修正されない。 たとえば60年代の初期、日本のポップシーンには綺羅星のごとく才能が噴出したという評価を、60年代に関心を抱いている若者の多くがしている。 飯田久彦、麻生京子、伊藤照子、伊東ゆかり、克美しげる、紀本ヨシオ、坂本九、佐々木功、清原タケシ、青山ミチ、中尾ミエ、 パラダイスキング、藤木孝、斉藤チヤ子、ジェリー藤尾、渡辺トモコ、園マリ、伊東アイコ、森サカエ、フランツ・フリーデル、 森山加代子、などなど。こう名前だけを並べれば確かに圧倒される思いがするけれど、現実にその時代を生きた私にすれば全然違う。 ファンという贔屓目ではなく、明らかにミコちゃんはダントツで、その遥か下に皆が居たという印象だった。 年上の九ちゃんや、森山加代子、飯田久彦の三人だけは別格だったが、他はミコちゃんに大きく離されていた。 これは断じて私の印象論ではない。すべての数字がそれを如実に示している。
それを当然分かっている皆さんに、あらためて説くのも無粋というものだが、この解説を頼まれたついでに行なってみよう。
私の書架にはミュージックライフの一九六一年の正月号から一九六五年の十二月号までのバックナンバーのコピーが揃えられている。 それには毎月のレコード売り上げを基本にしたヒットチャートのベスト20と、読者による人気投票が掲載されている。 人気投票に関しては組織票もあるだろうから厳密とは言えないが、レコード売り上げによるベスト20は当時のポップスシーンの推移をそのままに示している。 とりあえず、ミコちゃんがデビューした一九六一年の十一月からのデータをすべて抜き出してみた。その結果が表の一である。 表にしてみれば簡単だが、これを作るのにおよそ七、八時間費やしました。まあ、楽しかったからいいんですけどね。
しかし……なんと凄まじい結果であろうか。作った表をじっくりと眺めて、その時代を体験していたはずの私でさえ身震いに襲われた。 デビューしてチャートに初登場して以来、およそ四年の間、ミコちゃんの曲がチャートから外れたことは一度としてないのである。 ベスト20以内というのはベストセラーを意味する。四年間常にベストセラーを記録した歌手が日本の音楽史上でいったい何人居るというのだろう。 次いで驚かされるのは大ヒット曲の多さである。一位を占めた曲が五曲もある(これは一九六五年までなので、その後の人形の家などの大ヒットは含めていない)。 ミュージックライフのヒットチャートで一位を五曲も獲得しているのはミコちゃん一人だ。 同一曲で三週以上一位の栄冠に輝いた歌手は何人か居るものの、別々の曲を五つも一位にした歌手は存在しない。 さらに人気投票もこれを反映して、デビュー年はいきなり四位となり、 一九六二年度は二位(一位は江利チエミ)、一九六三年度と一九六四年度は堂々の一位の座に着いている。 日本のポップスシーンはミコちゃんによって席巻されていたのである。特に一九六三年はミコちゃん抜きにしては語れない年となった。 四月発売の「想いでの冬休み」が大爆発して一位を獲得、五月に出した「渚のデイト」も一位、七月発表の「悲しきハート」もまたまた一位、 さらに十二月発売の「私のベイビー」は初登場一位という奇跡まで引き起こした。 この年度に発売したシングルは、この表にない「明日をみつめて」をも含めると全部で七枚あるのだが、そのうち四枚を一位にさせたのだから驚愕というしかない。 街を歩けばミコちゃんの歌が聞こえたと書いても決して大袈裟ではない。
しかし……
と疑惑を持たれた方も居るだろう。 ひょっとしてこのチャートはポップスという狭い分野だけの結果ではないのか、と。それもとんでもない誤解だ。 この当時、ポップスも歌謡曲も同列に扱われていて、これはつまり日本のレコードの総合結果なのである。 疑い深い人もあろうかと予想して、次に表の二を用意した。これはミコちゃんとほぼ同時代に日本で流行した曲を、 おなじミュージックライフのベスト20から適当に選び出したものだ。そのすべてが多くの人に馴染み深いものであることが分かって貰えるだろう。 いわゆる時代を代表する大ヒット曲だ。問題としたいのは曲の最後に示してある獲得点数である。これはヒット度を判定するために私が考案して採点してみたものだ。 その採点方法は表の一に明示してある。やり方にそれほど間違いはないと思っている。その点数で比較するとミコちゃんがいかに凄かったか明瞭となる。 あれほど日本人が愛唱した「上を向いて歩こう」や「いつでも夢を」の点数をミコちゃんが歌った「悲しきハート」は凌駕している。 パラキンの最大ヒット曲「シエリー」を超えるヒット曲をミコちゃんは三曲も持っている。 同世代ならたいていが口ずさんでいた「パイナップルプリンセス」や「ロコモーション」そして「ルイジアナママ」など、点数で見るなら二十点以下のものに過ぎない。 その程度でいいならミコちゃんは十曲もある。ただ一つ「ラストダンスは私と」だけは例外だ。この曲は恐らく日本史上最大のヒット曲ということになろう。 二年間にわたってベスト10から一度も外れたことのない曲など世界にも例がないはずである。こういうお化けのような曲と比較しても意味がない。 そのうち十五ヶ月がベスト3に入っているなど信じられない。 もっとも、この曲を五週連続一位の座から引きずりおろしたのはミコちゃんの「砂に消えた涙」だった。それは特筆に値する。
表を作成してみて自分でも意外であったのは「ヴアケイション」が一度もベスト5に入っていないことである。 ミコちゃん、と言えば「ヴアケイション」を咄嗟に思い出す人が大勢居る。が獲得点数を見ても十三点とずいぶん低い。これには首を捻った。 だが、表をじっくり点検すると、これはミコちゃんが大ブレイクする直前のものだったと分かる。 ぼくらファンにとって「素敵な16才」「カモンダンス」や「かっこいいツイスト」はそれこそわくわくするほどかっこいい曲だったが、 いずれも中ヒットに終わっている。そこに久々のヒットが誕生したのでことさらに印象が強いのだろう。そしてそれから半年後にミコちゃんの大進撃が開始される。 「想いでの冬休み」の大ヒットとほぼ時期を同じくして「ヴアケイション」が含まれたLPが発売された。 多くのファンはこれに飛び付き、結果として「ヴアケイション」が「想いでの冬休み」と同等に強く記憶されることとなったと見るのが正解に違いない。 LPの売り上げに関しては記録がないので断言できないけれど、そのLPは恐らく「ヴアケイション」のシングルを遥かに上回ったと想像される。
それにしても人気というものは恐ろしい。地味な「ダンケシエーン」と軽いノリの「涙のゴスペル」の点数を見ると「ヴアケイション」を超えている。 こんなところにミコちゃんの人気ぶりを見ることができる。
そのミコちゃんが一九六四年の三月頃から次第に失速しはじめた。と言っても確実に十位には入るヒットを続けてはいたのだが、前の年に比較すると低迷の印象が強い。 実を言えばこれはミコちゃん一人に限らなかった。この年の正月からビートルズが登場したのである。 ビートルズの出現は日本のポップスの主流であったカバーポップスを一瞬にして古臭いものにしてしまったのである。 ポップスそのものの危機にぶつかってしまったのだ。たぶんミコちゃんもその恐ろしさをひしひしと感じたに違いない。 ミコちゃんはこの年の暮れに、永年世話になっていた東芝からコロムビアへと移籍する。 もはや今までのやり方では押し流されるという判断だったのであろうか。 そしてその移籍は見事に成功した。 十二月に発売されたコロムビア移籍第一弾の「砂に消えた涙」はおよそ一年ぶりの一位に輝き、 ビートルズ旋風に飲み込まれなかった、恐らく唯一の歌手として新しい黄金時代に突入していったのである。
表にはないが、これ以降は「渚のうわさ」「枯葉のうわさ」「涙のドライブ」「可愛い嘘」「渚の天使」のいわゆる筒美京平歌謡曲を経て、 ついには「人形の家」に至る栄光がミコちゃんを待っていた。ミュージックライフも一九六五年以降はベスト20の掲載を中止してしまったので、 それ以前との比較がむずかしい状況にあるけれど、「人形の家」は間違いなく「悲しきハート」を超える大ヒットであったはずだし、 「燃える手」「ロダンの肖像」「バラの革命」辺りはいずれもが「私のベイビー」に匹敵する売り上げを記録したと思われる。
60年代の日本でこれほどのヒット曲を量産した歌手は居ない。ミコちゃんは本当の意味でのポップス・クイーンだったのである。
他の歌手たちと同列にされてはたまらない。
MSI / MSI-10120 / 1998.06.25 / \3,000

※ 文中の表はCDライナーをご覧ください。